第36話 キツネとアップルパイ(10)

「ベルチェスターの『自由と栄光あれ』という礼句に、違和感を覚えたことはありませんか?」


 燭台の蝋燭ろうそくに顔の半分を照らした青年は、彼の姉と同じ真珠色の肌。普段も血の気の少ない肌は、この晩さらに白く見えた。


「見渡す限り支配しているくせに、何が自由だと思いませんでした? あれはね、もともと彼らの頭上にふんぞり返っていた存在があったということなんです」


 チタンフレームの奥の視線がエルの肩口を示す。工場帰りの作業服の左腕にあるのは、黒と黄色の縞模様の紋地に舌を出したオオカミのモチーフ。


「あなたがたに縫い付けられたその肩章、醜い獣のマークは、ベルチェスターが定めたトゥラン人の差別的な意匠です。獣は貴様たちのほうだと言ってやりたいのは山々ですが、残念ながら、トゥラン人というのは実際に獣です。他国への侵略を繰り返し、人を喰らい、神々によって三千年前に罰を下された呪われし種族」


 小麦色の手がカチャリとフォークを置いた。席を立ち、ドアノブに手をかける。


「エルさん」


「マナー違反ですか? 減点ならお好きにどうぞ」


「いいえ。無礼な発言に態度で怒りを示すのは、人間として正しい振る舞いです」


 ロスの声には、穏やかな親愛だけがあった。


「グンター先生は、共和国の史学教本は嘘ばかりだって言ってたわ」


 エルは両の猫目に怒りを宿して振り向いた。


「その通り。おれが語っていることは、人々がまだ文字を得る前のこと。代々トゥーラニアが口伝えに語り継いできた、神々の時代の物語です。どうかお掛けください」


 グンターが危険を冒して生徒たちに教えてくれた歴史の授業を嘘だと言うようなら、部屋を出ていくところだった。だが人々が真実語り継いできた神話であるなら、それにも敬意を払わねばならない。


 エルは硬い顔のまま腰を下ろし、大きな手で促されて食べかけの仔牛カツレツにナイフを入れた。


 首から外した黄金の鍵は、ひいらぎの花が生けられた花瓶の横に置いてある。


「かつてトゥランの土地は、レムリア大陸中央部に広がる荒涼とした砂漠でした。過酷な大地に生を受けたトゥーラニアは凶暴極まりなく、侵略や虐殺を好み、征服した民を肉として喰らうことでより強い力を得ると信じていました。これはもう、ドゥルイリヤ遺跡の壁画にしか残っていません。紀元前十二世紀、トゥラン中央部の君主ニルヴァ二世がドゥルイリヤを攻め滅ぼしたこと。人々を八つ裂きにし、その肉を喰らったこと。ニルヴァ二世もまた息子に弑逆しいぎゃくされ、次代の王の食卓に並びました。殺し合い、共喰いして止まぬ我々の姿は、他国からすれば悪魔か獣と呼ぶほかなかったでしょう。……めぐる天輪は、犯した罪の清算を求めました」


 黒手袋がテーブルの上にナプキンで形作ったのは、炎の揺れる燭台を囲む輪。


「神々は大陸を隆起させ、トゥランを挟んだ急峻な山脈を作りました。西がザグレタ、東がキーロン。大地の檻に閉じ込めた獣に、ふたつの呪いをかけました。ひとつは死の呪い。二度とほかの土地に攻め入ることのないよう、トゥランの外で生きようとした者には死に至る病が発現するようになりました」


 エルは眉を寄せた。だがすぐに、のことだと心得る。


 鼓膜に甦るのは、年を追って苦しそうになった咳。脳裏に浮かぶのは、オイルランプに照らされた華奢な背。


 最果てのトリカでは、身体を洗う時に使うのはシャワーやバスタブではない。白樺造りの蒸し風呂である。


 熱した石に湯をかけて、丸太小屋いっぱいに温かな蒸気で満たす。白くけぶる視界の中、エルの垢をこする母の肌は、肩甲骨から首筋にかけて異形の皮膚に覆われていた。


 この世のものとも思えぬ、おぞましくも美しいその病のことを、敵はと呼んでいた。


「同族喰いのとがとしては、とむらいの呪いをかけました。トゥラン人のむくろは大地を汚染します。土葬はおろか、火葬も水葬も許されません。死したトゥーラニアには、いかなる人間も近づくことはできないのです」


「それで、どうやって暮らしてきたんですか?」


 一対の翡翠がエルを映した。「王です」


「遺体を埋めることも燃やすこともできないトゥランの葬儀は、鳥葬です。弔いの鳥は、慈悲深き大鷲おおわしシムルグ。一羽のシムルグはその生涯の最期にひとりの人間を喰い尽くして、死を迎えます。たおれたシムルグを雲へと返すのは王の歌。シムルグに喰われ、喰ったシムルグが死に、王の歌で空へと送られる。この流れを経てやっと、おれたちトゥーラニアは恵みの雲の一部になれるんです」


 壮大な話だった。エルは自分の手を見下ろした。


 皮膚の色以外、ヴァルトやベルチェスターの人々のそれと何ら変わるところのない手。この身体が土に還れないということは、にわかには信じがたい。ロスの語るとおりであるならば、確かに自分たちは人間ではないということになる。


「王の歌を耳にしたことのある人間は、もういません。ですが父祖から語り継がれてきたことを、トゥーラニアはいつまでも覚えています。朝に夕に鳴り響く歌。赤く染まる空を舞う、偉大な大鷲おおわしたちの姿を」


 ナプキンで囲った小さな領域を見下ろして、ロスの声は少し掠れた。痛みが滲むようで愛おしそうな彼の眼差しは、本当に天空から故郷を見下ろしているようだった。


 エルは、捨て置けない疑問を新たに抱いていた。


「あたしの想像が外れていなければ、……そのシステムを使えていたの、征服される前までですよね?」だって王が今もトゥランにあれば、この鍵はここにないはずだ。「ここ百年近く、どうしていたんですか? 併合された時、王はどうなったんですか?」


「共和国軍に略取されました」ロスの返答はシンプルだった。


「王とはトゥランにとって、契約のくさび。そして祝福の在り処です。呪いは恐ろしいものですが、やくんでいれば牙を剥くことはありません。神々は契約を守る限り、呪いも祝福に転じるように仕掛けを施しました。隆起した山脈によってもたらされる雨。魔法。人ならざる身への変身。願いを叶えてくれる、万能なる王の力」


「……ん?」


 眉を寄せた。聞き間違いだろうか。


「すみません。あの〜変身とか願いを叶えるとか、……初耳なんですが」


「そうでしたっけ」


 ロスはニッコリととぼけた。「なんとおれたち、動物に変身できちゃうんです」


「いやいや」首を振る。「んなバカな」


「若いのに少々頭が固いのでは? もっと柔軟にならないと」


「これでも必死で常識のキャパを広げたんですけどね⁉」


 渾身のクレームにも紳士は涼しい顔だった。


「身を変じることのできる動物のことを、半身と呼びます。おれの村ウラルトゥはたてがみギツネ。ライラさんはホムラトカゲで、カムランさんは一角獣。おふたりとも近眼なのは、嗅覚が優れて視力があまりよくないという半身の知覚能力に由来しています。エルさんの場合は当然、神なる大鷲おおわしシムルグ。地上で最も優れた眼を持つ猛禽類です。自分の視力、なんか人間離れしてるな〜って思ったことないですか?」


 ある。あるが、わしに親近感を抱いたことは一度もない。むしろポポヨラを襲う不届き者として、棒で追い払うべき敵であった。


「……死ぬまでに一目、見てみたいものです」


 燭台の灯りを映してロスはふと、儚い笑みを浮かべた。「大空に翔び立つあなたの姿はきっと、目が溶けそうなほど眩しいに違いない」


「クライノートの子たちも同じですよね?」


 衝撃の事実に脳をフル回転していたエルは、ぽつりとこぼされた弱気を見落とした。「動物に変身した子なんて、ひとりも見かけた記憶がないけどなあ……⁉」


「おれもです。たぶん親父もないと思います」


 赤毛頭はぎゅっと眉間の皺を深めた。つまり。


「全て、王の歌がトリガーだからです」


 銀の瞳は、真っすぐエルの喉を見た。


「王というくさびこそ、神々がトゥランに贈った最大の祝福。およそ不可能なことはありません。だからこそ行使するには、定められた仕儀しぎを守る必要があります。一に、民が願うこと。二に天輪が、詩と旋律に変えること。三に民は天からの歌をあやまたず歌い、四に王が聞き入れ、歌い返すこと」


「……歌」


 クライノートの子どもたちの特別な才能を思い出す。


 笑みを零すように詩を作り、メロディーを生み出すことのできる小鳥たち。だれかひとりが歌いだせば、続きの歌は全員が知っている不思議な才。


「トゥランの伝統旋律型はラディーフと呼ばれます。ラディーフは、全てのトゥーラニアが生まれながらにして覚えているもの。得意不得意はあれどトゥランの民は皆、天輪の奏でる旋律をその身で表すことができます。ただひとり、王を除いて」


 エルは黙り込んだ。確かに自分は他の子たちのようにスラスラと歌を作ることはできない。真似しようと試みたことはあるが、絶望的に才能がないことがわかっただけだった。


「エルさんが焦る気持ちは理解しています。ですがおれがあなたを見間違えることも、他の者が替わりを勤めることもありえないのです。トゥーラニアにとって、王とはそうしたものなのだから。あなたと民が手を取れば、どんな願いも思うがまま。事実、契約を守り続けてきたトゥランは三千年の永きに渡って、レムリア大陸の揺るぎなき支配者であり続けました。周辺諸国はトゥーラニアのことを、黄金の種族と称したものです」


「今や立派な三等国民ですけども」地の底育ちは、ひいらぎの向こうからジロリと睨む。


「王については、あたしじゃダメそうだから人に任せたわ、とはいかないモノだってことは理解しました」


 真実、鍵の持ち主が自分であるのならばだが。


「ズルというかえこ贔屓というか、とにかく常識外れのすごい力がトゥランに与えられていたことも飲み込みました。わからないのは、そんなチート級のパワーを持っててどうして負けたのかってこと。そもそも三千年間よその国とうまくやっていたはずなのに、なんで侵略されたんですか?」


「バレてはいけない秘密がバレたというか」


 ロスは苦笑いで、花瓶に生けられた小さな白い花を見た。「こっちも知らなかった盤上をひっくり返す一手に、敵が気づいたというか」


 この期に及んで、守護者は何かを言い淀んでいるようだった。だが座学をすると言って二階に誘ったのは他ならぬ彼である。


「バレてはいけない秘密? 盤上をひっくり返す一手?」


「……」


 逃がす気のない問いかけに、ロスは一度、組んだ指先に目を落とした。


「……130年前。建国したばかりのベルチェスター共和国は、『人類黎明計画』を始動しました」


 続きを語り始める青年の銀眼に、燭台の炎が揺れる。


「提唱者は共和国書記、ユルスナル・レヴィアトゥール。この計画の中核は、トゥラン領の併合。もちろん、当初はお話にもならない遠征結果でした。トゥーラニアと只人ただびとの勝負など、始まる前からついています。しかし、彼らは粘り強かった。一方でトゥラン側は、敗軍を追って本国を叩くという根本解決策を取れませんでした。武器をたずさえて大軍でザグレタを超えることを、天輪は決して許さない。できることはただ、迎撃のみ。やがて三十年の月日をかけて、ベルチェスターは悲願を成し遂げました。本国では、アランシャフルの陥落した竪琴リュラの月の十日を指して、こう祝います。……人類の夜明けと」


 上げられた双眸には、灯りを映してなお仄暗ほのぐらい闇がたたえられていた。


「なぜ侵略されたのかという答えならシンプルです。おれたちが人間ではないから。ベルチェスター人にとって、先の大戦は人類と怪物との生存競争だったのです」


 エルはナイフとフォークを下ろし忘れていた。ただ身動きもできず、耳を傾けた。

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