第34話 キツネとアップルパイ(8)
角の向こうから、青年たちのはしゃいだ笑い声がしていた。
この日も
郵便局を曲がれば、街灯に照らされてピカピカと輝くT型ノーフォード。傍らに集まっているのは、治安維持部隊の下士官たち。ブレイク隊員ではない一般兵の軍服を身に着けた彼らは、地面に何か面白いものでも転がっているのか、口々に
(いけない。他の道を行こう)
エルはすぐに迂回路を思い浮かべた。後ろにはクライノートの子どもたちがいる。最果ての地で、喉から手が出るほどほしかった人間の友だち。
クイーンには小鳥を守る責務があった。誰かに頼まれたわけではないが、自分が寝てる間に八つ裂きにされた親友を思い出せば、二度とあんな無様なしくじりを犯すものかと思うのは当然のこと。
回り道しようとした足はしかし、足蹴を繰り出すロングブーツの隙間から覗いたものに動きを止めた。翠眼が一気に凍りつく。
「おいこいつゲロ吐いたぞ!」
「汚ぇな、この靴高いんだぞ! 弁償しろよ!」
兵士たちが楽しそうに嬲っているのは人間だった。長い髪から女性であること、リボンで束ねたポニーテールヘアから、若者なのだと悟る。空色のツナギの身体を丸めて拳を握り込んだ胎児のような姿勢が、彼女がまだ意識を手放さずに苦痛をこらえていることを教えた。
「リンチだ」遠巻きに見守る通行人が重苦しく告げる。
「な、何かしたんですか⁉ あの人……!」
「いいや何も」
「しいていえば、修理代を踏み倒そうとする兵隊たちに抗議したことかな。彼女はそこの整備工場の娘なんだ。若いからかなあ……ご両親を振り切って、一等国民に食って掛かってさ」
看板に目を向ければ点滅する電灯の下、今にも失神しそうに青ざめた壮年の男女が立ち尽くしていた。彼らにも暴力の跡があった。女は目の周りにアザ、男は腕でも外されたのか肩を抑えて
車がピカピカなのは偶然ではない。職人たちが丹精込めて磨いた結果だ。
持ち込まれた仕事を果たした報酬は与えられなかった。正当なはずの抗議は、この箱庭では血で
「……許せない」
嘘。契約違反。約束の反故。トゥラン人がそうしたものへ抱く嫌悪は、魂に縫い付けられていると言ってよい。同じ憤りを燃やした翠の瞳たちは唇を噛み締めて、羽虫のように獲物へ
ペリドットに、仄暗い稲妻が光る。
チクタク、チクタク。耳の中で時計の音がしていた。秒針が動いている。規則正しい音は、五年前の最果ての短い夏の夜をずっと繰り返している。
よく似た劇なら、エルはすでに鑑賞済みだった。あの時も敵は、無力な獲物が苦痛に喘ぐ様を喜んだ。骨を砕かれる悲鳴をロバのようだと言い、死に際のうわ言を甲高い声で真似した。始めから終わりまで、ずっと笑っていた。いったい何がそんなに可笑しかったのか、尋ねる機会があれば訊いてみたいものだ。
(ベルチェスターはまた、同じシナリオを上演しようとしているわけね。バカのひとつ覚えみたいに)
煤のついた手が、胸元を固く握りしめる。
(他でもない……このスュクス村のエルの前で!)
莫大な怒りが身体を満たした。胸元に熱が走る。火傷するかと思うほどの熱さ――だが、これが自分の肌を傷つけることはないと知っている。たとえ蓮花型の焼印が押されようと、今日ばかりは些事だ。手の中にずしりと現れた存在に、来た、と思った。
右手を強く握りしめて見下ろせば、そこには黄金色に輝く――何だかよくわからないもの。
「……んんん?」
眼前に金ピカの物品を掲げたエルは、眉を寄せた。
近いものはマラカスだろうか。棒の先にシルクハット型の頭部を備えたそれが何なのか、一目では判別できなかった。訝しげな顔の前で、
使い方を教えてあげる、こうだよ! と言わんばかりの様子に、何でも記憶してしまう脳内図書館は、コンマ一秒の速さで検索を完了した。
柄付
端的に言えば、爆弾である。
「……へあっ」
出たのは奇声だった。非道な集団暴行も頭から消えた。ただこれを遠くに放らねばならないという一点のみが、喫緊すぎる課題となる。信管を引き抜いてからの遅延時間は三から四秒。爆発したら最後、自分の上半身は軟膏でも修復不可能である。というか即死。隣のシャロンやメルサも大怪我を免れない。猶予はあと二秒、……一秒。
「わぁああーーッ‼」
暴投。クイーンの肩はなかなか強く、よく飛んだ。街灯のアームに勢いよくぶつかり、角度を変えた手榴弾はそのままぽすんとクッションに落ちた。
下士官どもご自慢の、高級車の後部座席である。
爆発は甚大だった。火柱が高く上がり熱風が吹き寄せる。人々はとっさに身を屈め、爆風が去った後は疑問符たっぷりにパチパチと瞬きをした。
何が起きたかわからなかったのは青年たちも同様で、嗜虐的な笑みを貼り付けたままの間抜け面で、大炎上する自動車を見つめた。
「……なあ。なんか、燃えてるみたいに見えるんだけど」
「ま、待ってくれ。あれ……駐屯地のやつじゃなかったっけ?」
私用目的で軍用車を持ち出し、あげくに全損。軍法会議は避けられない。運がよければ減給降格、悪ければ最前線送り。
震え声の彼らが現実を受け止めきれないうちに、整備工の夫婦は娘を抱いてガレージへ逃れ、「エル!」と手を引っ張られた猫目は我に返った。
「あたしらも逃げるよ! 万が一、これで反逆の疑いなんてかけられたらたまったもんじゃない」
シャロンの言う通りだった。軍用車の不可解な炎上など、箱庭を上へ下へ揺るがす大事件に発展することは間違いない。共和国の沽券にかけて犯人探しをするはずだが、仕事を果たすと忽然と消え失せる黄金の品が凶器ときては捜査は迷宮入りだろう。
足を止めていたヴァルト人たちも、蜘蛛の子を散らすように一瞬で散開した。たとえ白だろうが一等国民が黒といえば覆せない連邦共和国、冤罪を着せられないためにもきな臭い現場からは逃げるに限る。……もっとも今回に限っては、犯人はここにいるのだが。
「さ、先行ってて!」
エルは小鳥たちの背を押した。急いでポケットを探り、整備工の家族に駆け寄る。
取り出したのは、ロスがこしらえた万能軟膏。
「これ傷薬です。ちょっとしかないけどすっごいよく効くから酷いところに塗ってください。脱臼も治ります、どうしてなのかさっぱりわからないんだけど」
早口で説明する少女を、青あざだらけのヴァルトの若い女は霞む片目で見上げた。琥珀色の瞳をペリドットが見つめる。
「勇敢なお姉さん、あなたが正しい」
真っすぐな笑み。
「空からのサービスで稲妻も降ってきたみたい。大事な車を壊したあの人たち、きっとコッテリ絞られるわ。でも忘れないで。あなたが殴られるくらいなら、お金なんてどうでもいいって考えてる人たちのことを」
一家の淡茶色の瞳が見開かれた。
「早くよくなりますように!」と小瓶を握らせると、返事は待たずに駆け出した。
限界だった。もう猶予はない。
ローファーが向かった先は速やかに帰るべき寄宿舎ではなく、路地裏の井戸。
「ロスさんロスさんロスさん!」
ドアベルを鳴らしてカフェへと駆け込んできた少女の姿に、新聞に目を落としていた青年はパッと顔を輝かせた。
「いらっしゃいエルさん、お待ちしてました。なんと今日は……」
「この鍵、返します!」
間髪入れず鼻先に突き出されたのは、導きのトゥール。
目を丸くしたロスは、エルの表情を確かめると気遣わしげに眉を寄せた。「……何かありました?」
「あたし、トゥールを使えません」
赤毛頭は、上に重いものでも置かれたようにうなだれた。
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