第33話 キツネとアップルパイ(7)

 ――聖顕歴イニティウム1927、レーベンスタット・クープ


「左足はもっと後ろ、右足はもっと角度をつけて。ポジションは四番になるように」


 ダイニングテーブルを脇に寄せた、カフェ・ムネモシュネの二階。


 この日の授業は屈膝礼カーテシー。連邦共和国のレディーの礼法だというそれは、お姫さまの優雅なお辞儀としてエルの知識にもある。


 だが実際にやってみれば踏ん張りの効かない足場で中腰、上体も腹筋の限界に挑戦した角度に傾けて、無理のある体勢でありながら指先と顔面は品位を保ち続けるという予想外の過酷スパルタさ。吊りそうな足でプルプルしていれば、「背筋が曲がっています」と口うるさい黒グローブに肩をトンと叩かれる。


「い、一等国民の女の人たちも大変なのね」


 羨ましいと思うばかりの身分だったが、挨拶のたびにこんな無理を強いられるなんて、さすがに同情を禁じえない。


「いえ、もう誰もやっていません」


「何よそれ!」


 無駄な共感だった。エルは地団駄を踏んだ。


「実際の礼法として生きていたのは前世紀まで。ベルチェスターにも王家があった頃は、国王夫妻の前で渾身のカーテシーを披露するのが貴族令嬢一世一代の舞台でした。王政打倒後に残ったのは、社交のための舞踏会だけです」


「舞踏会……」


 現実主義者のクイーンの瞳が、憧れに輝いた。


 ドレスを纏い、紳士の手で壮麗なダンスホールへとエスコートされて、オーケストラの生演奏で円舞曲クランツを踊る。上流階級の華麗なる習わしに胸をときめかせない少女はいない。


 レーベンスタット・クープでも舞踏会は催されているが、ダンスホールで踊ってよいのは一等国民の紳士淑女だけ。クライノート・ギムナジウムの子どもに許されているのはせいぜい、煌々と輝くホールを見上げ、漏れ聞こえる演奏を道端で楽しむくらいのものである。


 ロスは薔薇色の頬をじっと見つめた。仲間の前でも色ガラスを外さない彼は、エルとふたりだけの今日は、珍しく翡翠色の両目をしていた。


「……トゥランにも舞踏会があったんですよ」


「そうなんですか?」


「ええ。ベルチェスターのそれなんて目じゃありません。黄金に満ちたトゥランの社交界マジュレスは絢爛豪華で、自由。音楽を愛する国ですから、歌はもちろん、踊りもみな巧みだったものです」


 語りながら、スーツの片膝が床につく。「これはトゥーラニアが君主へと行う跪礼きれい。王であるエルさんが行うことはありません」


「め、面会室でやってましたね」


 秀麗にすぎる一礼に、気まずそうな顔が逸らされた。あれから一度も、鍵は言うことを聞いていない。守護者の目を盗んでツェツィーに占いをお願いしたということも内緒のままだ。


 立ち上がったロスは左手を胸に、こうべを垂れてうやうやしく右手を差し出した。「そしてこれが、ダンスを申し込む礼」


 少女を見つめる翡翠は、悪戯っぽく細められた。


「踊っていただけますか、エルさん」


「え⁉」


 小麦色の頬に、ぱっと朱が散った。


「あ、あたし……! 陽気で愉快な田舎踊りしか知らなくて!」


「それすっごく興味があります。絶対見せてください」


 クスクス笑いながら、手を取って自分に引き寄せる。


「教えます。腕の位置、テンポの取り方、スピンターン、リバースターン、ステップ。あなたが何者にも囚われず、思うがままに踊れるように」


 青年は、少女の左手をおのれの右上腕に導いた。背筋を伸ばしてと促すように、少しだけ腕を上げる。自分の左手は、小さな右手を優しく握っておく。


 華奢な肩に右腕を回すと、この上なく大事なガラス細工でも扱うごとき手つきで、ブラウス越しの肩甲骨に、そっと触れた。


「背中に回したおれの腕がわかりますか?」


 内緒話をするような囁き声が、耳元の猫っ毛を揺らす。


「少しだけ、それに身を預けて。男性にゆったりともたれるのが、女性の基本姿勢になります」


 エルは返事ができなかった。何なら息も止めていた。爆音で稼働する心臓から全身に血が送られて、こめかみが破裂しそうにいている。耳が熱い。


 もたれかかるなんて到底無理だ。そもそもすでに近すぎる。こんな至近距離で男女が密着するなんてとんでもない踊り、いったいどこの誰が考えたのだろう?


 苦しさに耐えかねて息を吸うと、鼻の頭に触りそうな近さにあるスーツから、コーヒーと薬草のかすかな匂いが届いた。


「大丈夫、安心して」


 目も合わせられず真っ赤になって俯く少女の旋毛つむじに、青年は微笑んだ。


 ロス・キースリングはその生い立ちから、齢二十一才にしてとんでもなく用心深い男に育っていた。敵地で生き抜いてきた警戒心の強さと来たら、草原で哨戒警備中のプレーリードッグ並み。しかし今日は給仕不要のレッスンで、扉を締めたダイニングにはふたりきり、相手はこちらを見られない。


 滅多に揃わない条件に油断して、誰だってその本心にピンと来るであろう笑みを、彼はうっかり滲ませた。


「どれだけ自由奔放に駈けたって構いません。……おれは絶対に、この手を離しませんから」


 第一のステップが、ゆっくりと始められた。


 テーブルマナー、ややこしい敬称、紋章の意味、ドレスコード、言葉遣い、お辞儀、歩き方。不思議な淑女教育のカリキュラムには、こうしてダンスも追加となった。


 講師が近すぎるせいで生徒はレッスンどころではなく、薄い唇が口ずさむリズムは右から左で、ステップやターンもとちりまくりの体たらくだった。察しがいいはずの青年はこれに限ってはなぜか、「そのうち上達しますよ」と謎の鈍感さを発揮した。ダンスシューズさえ用立ててきた。


 ミルクのようなシルク地に、鮮やかな碧玉色ブルーグリーンの刺繍。モチーフは、杏の花の蜜を吸う蝶々。金糸で精巧に縁取られた得も言われぬ美しい靴に、エルは釘付けになった。


 そして、「ロスさん〜……」と困り果てた。


「こんな高価なものは頂けません! 代金をお支払いしたいんですがその……悲しいくらい、焼夷弾工場も缶詰工場もお賃金が低くて」


「ああそんな」白々しく額に手を当ててよろめく。「まさか未成年からお金を巻き上げてはばからない人間だと思われていただなんて。ショックで寝込みそうです」


「でも、お菓子やお茶だって……! あたし全く、お返しできてないのに!」


「いつももらってます」


 翡翠色の目を細め、ロスは誇らしげに微笑んだ。


「あなたの笑顔が、おれには一番の贈り物です」


 箱からシューズを取り出した青年は床に膝をつき、レディーが履きやすいように、自分の腿上に両手で履き口を固定した。どうぞと見上げられてしまっては選択の余地はない。迷いながらも、高鳴る胸を抑えて、芸術品のごときそれにそっと足を入れる。


 ロスが贈ってくれたダンスシューズは、あつらえたかのようにぴったりだった。


「……あっ⁉」


 だが、エルは体勢を崩した。


 舞踏会で踊る女性のドレスコードは、かかとの高い靴である。近年発足した競技円舞クランツ大会もヒールパンプスの着用を服装規定としている。この麗しい靴のかかとはハイヒールとは呼べない5ユニスの高さであったが、エルの足が知っているのはポポ革のブーツと学校支給のローファーだけ。初めての傾斜に、重心を間違えた身体がつんのめった。


「エルさん!」


 手を伸ばしたスーツの肩口に、ジンジャーブロンドの巻き毛が散る。


 ロスの腕の中、大きく見開いたペリドットは、近すぎる端正な顔をまじまじと見上げた。


 切れ長な翡翠色の双眸。自分の顔が映り込んだそれは、ほとりから身を乗り出して覗き込む静かな湖面のよう。だがトリカなら、そらの果てから極夜をあぶる莫大な磁気嵐じきあらしの色だった。雪原を駆けるキツネの尾が擦り上げた不滅の火花。今まで気づかなかったが睫毛も銀だ。長い。目尻に消えかけのほくろがある。


「どこか痛めていませんか⁉」


 青年はいつになく慌てていた。コクコクと勢いよく頷くエルの自己申告は、信用に値しないと判断されたらしい。疑うような目をすると性急に黒手袋を脱ぎ、素手で直接足首に触れる。「ひえ!」と反射的に引っ込めようとするのを難なく捕まえて、骨、靭帯、腱に異常がないか、長い親指を探らせた。


 自分の浅黒い肌を、白い手が触れていく。


「……うん、何ともないですね」


 さんざんあちこち確かめて、疑い深い男もやっと無事であるという確証を得たようだった。「はぁあ〜」と息を吐きながら、路地裏の不良のような姿勢でしゃがみこんでこちらを見つめる顔は、プロトコル通りの紳士の仮面をすっかり取り落としていた。


「よかった、あなたに怪我がなくて……。捻挫に効く湿布、運悪く切らしてるんです。焦らなくて済むよう、山ほどこしらえておきますね」


 傷ひとつたりとも許せないと言わんばかりの、かけがえのない宝物でも見ているような眼差し。


(ねえママ……)


 エルはといえば頭部に血液が集まりすぎて、おでこで目玉焼きができそうだった。途方に暮れた気持ちで天井を仰ぎ、最果ての賢者に話しかける。(ウラルトゥ村の紳士教育、いったいどうなってるの? どこに文句言えばいい?)……内容はクレームである。


 黒グローブの手は会うたびにひとつずつ、エルに風船を結んでいった。


 能天気にぷかぷか浮かぶそれはカフェに向かう足取りを軽くさせ、帰りの気分を浮つかせる。このままでは自慢の脳みそまでどこかに飛んでいきかねない、由々しき事態であった。

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