第32話 キツネとアップルパイ(6)

 それは長い冬も終わりに近い晩のこと。


 異変に気が付いたのはエルで、生まれつき寝聡いざとい頭は目を開けた時には明瞭だった。寝床から身を起こし、息を潜めて耳を澄ませる。


 外の畜舎から、人の気配がしていた。眉を寄せてさらに探れば、聞き覚えのない大人たちの声と帆角鹿の悲鳴が、厚い雪の向こうから届いた。


 それが他でもない親友のものだと悟った時、少女が迷うことなく掴んだのは、獣の解体に使用する斧。


 傍らで深く眠るニルファルに声はかけない。最愛の母はこの夜、病身が悪化してひどい熱を出していたのだ。裸足のまま雪に降り立って駆け、音もなく畜舎の木戸を押す。


 息を潜めてことに当たる背中は三つだった。出産に備えて乾いた藁を敷いたばかりの畜舎は、おびただしい血に濡れていた。地面に引き倒された若いメスポポヨラの腹はむごいことに切り裂かれ、あとは産み落とされるのを待つばかりだった赤子は苛立ちに任せた不作法なナイフによって、臓物のひとつとしてばらまかれていた。


 悪事の露見を恐れてか、彼らが用いる灯りは百年も昔の納屋から引っ張り出してきたようなカンテラだった。おぼつかない光を受けて、引き伸ばされた怪物のごとき影が漆喰の壁に揺れる。隅に固まった鹿たちが怯えた眼差しでエルに訴える。


 どれほど深い闇だろうと、苦痛に喘ぐ友の今にも途切れそうな白い息までが、この目には見えた。


 全身の毛が逆立った。視界は真っ赤に染まり喉からは絶叫がほとばしりかけた。しかしそれらの激情は、虚空に現われた大きな透明な手によって押し留められた。


 ただこの手をひく何かがある。行けと力強く命じるものが。


 幼子は、ためらわずに大地を蹴った。


 ガラスの割れるけたたましい音。灯りが掻き消え、動揺する男の腹部に斧が叩き込まれる。


 枝が折れる手応えを得ながら、厚い衣類に阻まれて刃はそう深く入っていないと冷静に判断してエルは飛び退いた。


 恐怖に駆られた悲鳴が夜を揺らす。見えない視界のなか、男たちは手練てだれの急襲を受けたと勘違いし、死に物狂いの抵抗を見せた。当てずっぽうのナタが空を切る。


 少女は恐れず、ただ腰を落とした。立ち上る呼気で居場所が割れぬよう、口の端だけで細い息を吐く。


 雪中で接敵した際の身の潜め方など、彼女を溺愛する集落の者が教えようはずもない。だが敵を前にしてどう振る舞えばいいのか、小さな身体は脳天から爪先に至るまで、なぜか完璧に理解していた。手に余る斧を逆手に持ち替える。


 次はしくじらない。


 はりから跳躍し、むき出しの頚椎を狙って大きく振りかぶった刃は「絞首刑だ!」という鋭い声に着地点を誤り、ただ敵の左耳をいだ。


 力任せに弾かれた小さな身体が壁にぶつかり、農機具がガラガラと崩れ落ちる。


 耳を落とされた男の絶叫が小屋を揺るがした。月明かりに照らされた狩人は、襲撃者にしてみれば性質たちの悪い冗談としか言いようがなかった。片手でくびり殺せる子兎相手に返り討ちに遭わされたなど、断じて認めるわけにはいかない。血走った眼で詰め寄った彼らはしかし、その鼻先を銃弾が掠めると、のぼった血を呆気なく下げた。


「わたしの娘に一歩でも近づいたら殺す。それで処刑されようが本望だ」


 もうひとりやってきたのも女……とはいえ、ライフルの銃口をぴたりと向け、大ぶりのハンティングナイフを腰から下げた相手に戦うほどの情熱は持ち合わせていない。身重のポポヨラという高値の個体を始末して溜飲を下げた彼らは白旗を上げ、駆けつけた老人たちに取り押さえられた。


「レータ!」


 農機具の山から抜け出して、火花の散る視界で地面を這う。零下十度を下回る凍てついた畜舎、湯気が上がる血の海でたったひとりの親友に手を伸ばす。


 いつもそうしているように柔らかな毛並みを抱きしめた時、ポポヨラは唇を震わせて細い息を吐き、それきりこと切れた。


 エルは鼻血を無言で拭くと、よろめきながら立ち上がった。


「……同じ目に遭わせてやる!」


 振り向きざまに飛びかかろうとした二度目の試みは、両脇のヨンネラッセとマウノラッセに阻まれた。


「よしよしどうどう! いい子だおちびちゃん!」


「そこまでにしてくれ。年寄りの心臓が止まっちまうよ!」


「放して! 絶対に負けないから!」


 草刈り鎌を手にもがくエルに、「トリカ人を殺した王国民に対する罰は存在しないが、王国民を殺したトリカ人は死罪だ」とニルファルが冷静に諭す。


「そんなこと知ってるわ!」


 血にまみれてギラギラと睨みつける少女は、小さくとも手負いのオオカミだった。


「王さまに訴えればいいじゃない、七歳の女の子にやられましたって! それでエルちゃまを吊るせばいいのよ! 恥知らずのニルノースク!」


「エル、幼いきみは助命されるかもしれない。だが、里刀自りとじが吊るされる」ライフルにもたれた賢者は、授業の時と同じ眼差しをしていた。「ヘンナの血縁であるヨンネラッセも、マウノラッセも吊るされる。きみのその願いは、大事なものと引き換えにしなくては選べない選択肢なんだ。理解できるだろう?」


 息を呑んだ瞳が見開かれ、祖母とふたりの大叔父を映した。


 それから、無残に命を奪われたポポヨラの亡骸を見た。


「……あんまりだわ‼」


 大粒の涙があふれた。


「だって、だってレータはなんにも悪いことしてない! いつもみたいにあったかくして、ぐっすり眠ってただけよ! この子が何をしたの? なんでこんな目に遭わなきゃいけないの⁉︎」


 答えられない問いを突き付けられて、大人たちは途方に暮れた。実行犯たちが何か喋ろうとするのには口いっぱいに藁を詰め込むことで制し、スュクスの人々はただ悲しく眉を下げた。


「ママにはわからないわ! エルちゃまにはこの子だけだった! レータだけが友だちだった! とびっきり優しい子だったのよ……! こんなに泣いてたらすぐに駆け寄って、ほっぺを舐めてくれるようないい子なのよ!」


 止まらない涙を自分で拭う。「そりゃちょっとは、しょっぱくておいしかったのかもしれないけど!」


 息ができないほどの悔しさに押されて涙は止まず、拭っても拭ってもきりがなかった。怒りを炎に変えられるのなら、この小屋ごと悪人どもを燃やし尽くしてやるというのに。


「エルちゃまが悪いの? 戦ったらいけないの? どれだけひどいことをしたのか、わからせてやりたいって思うのは間違ってるの?」


「……ああエルちゃま! 悪いもんか! お前さんはなんにも間違ってない!」


 もらい泣きした老人たちは少女を抱きしめ、ニルファルは静かに微笑んだ。


「いいかエル。滅ぼしたい敵ほど愛しなさい」


「無茶言わないでよ」鼻をすすりながら反論する。


「そんなの、なんとか戦わずに済まそうとする弱虫の理屈だわ。いくら相手が強そうだからって、敵を許すくらいなら死んだほうがマシ」


「許すためじゃない。勝つためだ。愛さなくては勝てないからだ」


 膝をついて、少女の頬の涙を拭う。その指先の熱さに、母がいま大熱を出していることをエルは思い出した。


 身のうちを食い荒らす病魔を押さえ付けて、賢者の瞳は夜をあぶ狐火レヴォントーリのように強く輝いた。


「これまできみには内緒にしてきたが、実のところ、この世界はいま真夜中にある。トリカの極夜よりずっとずっと長い、終わらない闇の只中ただなかだ。ひょっとするときみのたぐい稀な目なら、闇の中でも人よりよく見えるかもしれない。だが悪意を持った夜は、どれほどさとい目でも潰そうと罠を張っている。罠にかからず敵に打ち勝つすべはただひとつ、愛を手放さないことだけだ。……さて。きみは今日、まず斧を手に取った」


 真珠色の指がひとつ立てられた。


「これは間違った選択だった。きみになにかあれば村の者は一日だって生きていられないのだから、わたしか里刀自りとじを起こすべきだった。きみはわたしたちからの愛を一瞬忘れて、誤った道を選んだ」


 濡れたペリドットは燃える翡翠を見上げ、ただその唇が語ることに一心に耳を傾けた。


 二本目の指が立てられる。


「斧を手にしたきみは、真っ先に飛び込んで勇敢に戦った。言うまでもなく、これは危険な選択だ。だが……正しかった。おかげで他の鹿は無事だったし、レータは遠い旅路に出かける前に、友だちとお別れができた。友を愛する愛が、きみを導いたんだ。初めて武器を持った幼子に、大の大人を蹴散らさせるという奇跡を起こさせた」


 木戸が激しく打ち鳴らされる。何者かがドアを叩くようなそれは、夜明けを告げる最果ての風。


 湿り気を帯びた西風は雪を巻き上げ、丘陵の霧を剥ぎ取りながら、白み始めた群青の空に螺旋を描いてのぼっていく。


「わたしの警句を耳にして最後の攻撃を諦めたのも、正しい選択だった。あれほど激怒していて、よくぞ聞き分けた。だからこの村の者はアリエスボーグの処刑台に送られずに済む。そこの農民も、きっと家族のもとに帰ることができるだろう。これをもたらしたのは、きみの愛だ。わたしたちを愛するきみの愛が、敵を討ち取ろうとする激怒を制した。……ありがとう。涙が出るほど嬉しく、心から誇りに思う」


 ニルファルはまっすぐに立てた三本の指を解くと、女性にしては大きな手で小さな赤毛頭を撫でた。


「愛だけが道を照らすんだ。どうか忘れないで、わたしのお姫さま」


 硬く張りつめていた小麦色の拳が解け、錆びた草刈り鎌がカランと落ちた。


 エルは両手を広げた母の寝巻きに飛び込んだ。


「なんにも、正しくなんかない‼」


 声が枯れるほどわんわん泣くのは、何年ぶりかのこと。


「寝るんじゃなかった! 一晩中庭に立って、悪者を待ち構えておくんだった! 二度と来るなってライフルをぶっ放すのが、一番正しい選択だった‼︎」


 子どもらしい無茶苦茶な理想論だったが、賢者は何の根拠があってか、「いつかそれもできるようになるさ。きみが負けずに大人になれば」と力強く約束した。三つ編みをほどいた猫っ毛を、気持ちよさそうに何度もいた。


 極夜の明けた最果ての地にはやがて、陽光がうっすらと差し込み始めた。黄金色に滲むかぼそい光は、久方ぶりの朝。雪を切らさぬ厚い雲の端には、淡い虹に似た照り返しが滲む。


 極点に近い高緯度地帯の空だけに現われる、真珠雲である。


 強い風に吹き寄せられて真珠のふちに垣間見えた黎明は、踏みにじられて息を引き取ったポポヨラの瞳と同じ、澄んだ群青をしていた。


 村にとってこの夜は、ずっと隠してきた宝物が外の世界に気づかれたことを意味していた。とはいえトリクスである彼らにとって、果ての地を離れて生きていくことは想像の埒外である。しばらく夜間の見回りを強化していたが、結局夏が来てまた冬が来ても見知らぬ人間が丘陵を越えて来ることはなかったから、いつしか彼らはつらい記憶を忘れた。

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