第25話 エリシュタル(8)

「あのでも、このトゥール! ロスさんにもらった鍵、ちっとも言うことを聞かないんです!」


 エルは胸元から問題のブツを取り出して主張した。だからひょっとしたら人違いかも……と続ける前に、浅黒い手がひょいと取り上げる。


「徴収の時が来た!」


 タオルを巻いた青年が、短いメロディーを迷いなく口ずさんだ。


 鍵を目覚めさせるトゥラン語のあの歌は、彼らも知るものであるらしい――などと思った瞬間、目前でバン! と何かが弾け飛んだ。


 それは人間の、前腕部であった。


 赤いリボンが伸びるように血が従い、放物線を描いて飛んでいく。濡れた音を立てて床へ落ちる。


 手首から指先にかけての先端が、ピアノでも弾くようにしなやかに跳ねた。


「……わあーーーーッ‼」


 今度はエルの喉から絶叫がほとばしった。他の面々もオーウ……と顔を覆う。


「コラコラ、無茶やめてくださいギヴさん」


 ロスは突然の猟奇事件にも呆れた息を吐いただけだった。もぎ立てほやほやの腕を鷲掴わしづかむと、ふところから小瓶を取り出す。


 淡い橙色のクリームは、例の薬。


 切断された腕と腕を合わせて指先いっぱいの軟膏をぐるりと塗れば、間欠泉のように吹き出す血が止まるのも、粘土を塗り合わせるように皮膚がくっついていくのも、あっという間だった。


「しばらくそのまま固定しているように。動くと変なふうに繋がります」


「フウ〜。肝が冷えたぜ」


「綺麗に吹き飛ばしてもらえたおかげだね」


「トゥールらしくない慈悲深さ、きっと主人に似たんだろう」


「違いない! めでてえ!」


 ワッハッハ! と陽気な大笑いが店内に満ちた。


「……」


 エルは、さすがに色々と正さねばならないと思った。1ピトたりとも笑う気になれない自分の神経は間違っていないはずだった。だが怒涛のデータ量に頭脳は処理落ちし、どっと身体は重くなり、喉から出たのは呻き声だけだった。「……どうかしてるわ!」


「確かにどうかしてるよな、この軟膏」


 腕が千切れてくっついたばかりのギヴ青年は、共感を示して頷いた。


「見ての通りだ。鍵を使おうとして無事でいられるのは、王ただひとり。只人であれば手に持って歌うだけで、こいつは殺しにかかる。言うことを聞かないってんならそれは陛下、あんたに課せられた試練のひとつじゃないか?」


 一昨日から着ているというシャツをまくった彼は、何度か拳を握ったり開いたりして大きく笑った。


「大丈夫だ! あんたにはできる! どうかおれたちを導いてくれ!」


 鍵を突き返されてしまった赤毛頭は途方に暮れて、少し左に傾いた。


「ストップ。そこまで」


 人差し指を立てた黒手袋が割り込んだ。


「彼女はまだ十四才です。庇護すべき子どもだということを忘れないでください。仕事はおれたち大人で片付けましょう。新しい世代が瓦礫を踏み締めて、どこまでも歩いていけるように」


 ロスは銀眼を細めた。誇らしげな微笑はこの日、彼がエル以外の人間に初めて向けた笑みだった。「ただ元気に育ってくれる。これだけで充分です」


「その通りだ」


 視界の外から、ダブルカフスの袖口が伸びてきた。


 白鳥の彫り細工の施されたグラスを手渡すコーヒーハウスの店主は、白い肌に琥珀色の虹彩をした壮年のヴァルト人紳士だった。


「奢りだ、乾杯しよう。令嬢フロイライン、きみにはノンアルコールのハニーエールを」


「我らが王のご帰還を祝して!」


「まだ全く帰ってませんけど」


「ああそうか。陛下、名前は?」


「エ、エルです」


 ロスから告げられた長い名を覚えてはいたが、名乗るのは躊躇ためらわれた。……その名前が本当に自分のものであるという証拠は、どこにもないのだ。


 短すぎる名を耳にした人々は、天上から妙なる歌でも降り注いだかのように目を閉じて、この上なく大事そうに、エルと口中で呟いた。


「……よし! それじゃあ我らが女王エルの、元気な成長を祝して!」


 グラスがガツンと打ち鳴らされ、指先を泡が濡らす。


 味などまるでわからないと思いきや、空きっ腹の身体に甘い飲料はとびきり染みた。唾液腺は歓喜のダンスに踊り狂い、コップは一瞬で空っぽになった。


 度数が高いはずの黒ビアを一口で飲み干したロスは、「では送ります」と盃を置いた。


「帰っちゃうのかい?」


「まだマザーに会わせてないぜ」


「今日は祈念祭グリュクスブリンガーだ」こちらもすでに半分以上を胃に納めながら、店主は重みのある声で諭した。「子ども時代に友と過ごす祭りは、金塊にも勝る価値を持つ。行かせてやりなさい」


「次はいつ来る⁉ いつでもいい!」


「ええと……」


 キラキラとした顔で問われたことには、答えあぐねた。


「これから毎日」


 代わりに返事をしたのはロスだった。おい勝手に決めるなという意を込めて「そうなんですか?」と見上げたが、返ってきたのは「ええ」と涼しい首肯だった。


「エルさん。これはトゥランびっくり七不思議のひとつなんですが、トゥーラニアという種族は皆その身に魔法を宿しています。もちろんあなたにも」


 青年の呼気からは、アルコールの気配は全く感じられなかった。わずかな酩酊の乱れも見せない彼は、酔いつぶれているとしか思えない新たな事実を告げた。


「我々の魔法はクープの中ではろくに使えませんが、本来であればこんな檻、あなたの片手で粉砕できます。ご安心ください、権能を振るう機会は必ず用意しますので。とはいえ、満願成就のその時に王の魔法が貧弱だったら……がっかりだと思いませんか? いわばこれは、本番に備えての筋トレ。訓練場として、カフェ・ムネモシュネ以上に適した場所はないでしょう」


「いやそれよりトゥールをどうにかするのが先じゃ……」


 彼の語ることが真実なら、この鍵は夢のような兵器である。使用できる人間が、可及的速やかに制御下へ置く必要がある。余計なことに時間を費やす暇はないと頭では理解しながらも、結局エルは、高鳴る期待に負けた。「あ、あたしにも魔法が使えるんですか?」


「ええ」ロスはニッコリと頷いた。「ただし……紳士淑女であるなら、ですが」


「……」


 隠しきれないワクワクを滲ませた顔は、途端にうさんくさいものを見るものとなった。

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