第24話 エリシュタル(7)

 双頭のワシを彫り込んだ真鍮の看板、ロイヤルブルーと純白の国旗。扉を開ければ蓄音機が奏でるゆったりとした協奏曲コンチェルトとともに、直火式焙煎機ロースターで炙られるコーヒー豆の匂いが溢れ出る。大きな新聞ホルダーには様々な言語の新聞が吊り下げられ、ベビーメリーのように回っている。カウンターの奥ではタキシードに蝶ネクタイを締めた店主が、必需品である銀盆を丁寧に磨く。


 ここは世紀末から時を止めた、ヴァルト帝国名物のコーヒーハウス。


「しかし『黎明の戴冠』は、少々騎士道精神がうるさかったな。前近代的というか……やりたいことは理解しなくもないが、第八幕で主役の精神世界の大軍勢を演じ始めたのは愚直すぎだ。どんな顔をして観ればいいのかわからんかったぞ」


「あたしはあの暑苦しさがいいんだけどねえ」


 釣鐘草を象ったランプシェードの周囲を、灯りに照らされた埃が舞っていた。薄暗い店内にいるのは初老の男女。大理石の丸テーブルを挟み、カメリアレッドのソファにゆったりと足を組んで向かい合う距離感は、彼らが夫婦ではなく古くからの友人同士であることを教えていた。


自我ダス・イヒ超自我ウーバーイヒの戦い。自分に呪いをかけていたもうひとりの自分をねじ伏せて、弱々しかった青年は王となる。最後は悪王を玉座から蹴り落とし、シンフォニーは盛大なフィナーレだ。いいじゃないか、王道のハッピーエンドだ。ま、初恋の姫が死ぬのはいつものことというか、あの作家の可哀想な悪癖というか」


「ふたりめの皇帝と呼ばれたオペラ王も、失恋は克服できなかったな」


 戯曲かそれとも……と耳をそばだてていたエルは、交響曲シンフォニーという単語で得心した。


 彼らが討論しているのは、オペラについて。共和国への併合時、帝国主義的だとされて総督府から取り締まられた前世紀の芸術。


「あの、ここではオペラが上演されているんですか?」


 曲木細工のコート掛けの横に佇む少女と青年があることは、ドアベルが鳴った時から承知していた。ふたりの紳士淑女は振り向くと、互いに目を合わせて大笑した。


 薄暗がりの中であっても、エルの視界は捉えていた。彼らの皮膚が浅黒く、自分を映した虹彩が鮮やかな翠であることを。


「いいやお嬢さん。もう三十年も」


 口ひげを蓄えた紳士は青く染め付けられたカップを傾けて、ふわふわのミルクが載ったコーヒーを美味そうにすすった。


「だが歌、踊り、お芝居――人間のささやかな楽しみは、闇にまたたく火花だ。力ある者が何度鎮火しようと、それは無限に蘇る。なにせ荒野に稲妻が落ち、枯れ葉の擦り合いで種火が生まれるのが世界だ」


 皮の厚い手が、人差し指と親指をシュッと擦る。「火が復活しない道理があると思うかね?」


「ましてや、あたしたちはまだ歌い方も踊り方も忘れちゃいないんだ。かろうじて、だけどね」


 ニヤリと唇を吊り上げた淑女は、今では肖像画でしか見かけないベールつきの華やかなトーク帽を被っていた。黒一色のバッスルスタイルのドレスは世紀末そのもので、エルは三度ほどまばたきをした。


 黒手袋に導かれたのは、廃屋から繋がる井戸の奥。一日中ガス灯のともる宵闇の都、隠れ街ハイドアウト


 太陽の差さない街でグリーンのひさしを品よく街角に伸ばしたコーヒーハウス、その名もカフェ・ムネモシュネこそが、恐れ知らずの反逆者どもの牙城であった。


「それにしても珍しいことがあるものだ、規律の守護者のようなきみがここに誰かを連れてくるなんて」


 総督府が嗅ぎつければどうなるかは明白な立場でありながら、彼らは動じた様子もなかった。男は「さてさてロスくん、このお嬢さんは?」とのんびり尋ね、新聞の上に放りだしていた眼鏡をかけて、――紳士の仮面を、ポロリと落っことした。


「う……うわああーーッ⁉」


「何だいやかましいね」


 至近距離で発された大声に顔をしかめ、もうひとりの女も眼鏡をかける。


「ぇぇええーッ⁉」


 瞬時に飛び上がったところを見るに、どうやらふたりとも老眼ではなく近視のようだった。絶叫とともに宙を舞ったヴァルトの誇り、マイセル社製の名品茶器ブルーフィグはロスにキャッチされ、丁重にソーサーへと戻された。


 奥の扉が開き、「なあ石油が切れた」と別の男が出てくる。作業服を着て頭にタオルを巻いた、うってかわってラフな若者だ。


「灯りがなくちゃどうにもならん。マザーは今どこに……あああーーッ⁉」


 彼に眼鏡は不要だった。亡霊でも目撃したような悲鳴を上げて一足飛びに後退したかと思えば、壁に思い切り体当りし、古めかしい二階建ての店舗がミシリと軋む。

 天井の埃とともに落ちてきた壁掛け時計も、黒手袋が受け止めた。


「あ、あわ、あああ……!」


 赤毛頭を十度見しながら、絡まる足で窓辺に駆け寄っていく。両開きの窓をバン! と開け放つ。


「ハルヴァハリヤ・ハルヴァハルムーーーッ‼」


 耳慣れない言葉の絶叫が、地下街にこだました。


 一連の大騒ぎを、エルは呆気にとられて見守っていた。


「ああそんな、嘘みたいだ……! これまで何度、夢に見たことか!」


「起きたら消えてしまう幻じゃなくて、現実なんだって信じたい」


「どうかもっと近くで、顔を見せておくれでないか?」


 青年は大きな指の腹でしきりに目頭を擦り、紳士と淑女もフラフラと近づいた。はなすすりながら乞われた熱い願いを拒むことは難しい。どういう表情を作ればいいのかわからずぎこちなく半笑いを浮かべたエルに、三人のトゥラン人は「ああ!」と天を仰いだ。


「なんて雄々しくたくましいご尊顔か……! この豪傑ぶり、猛牛も熊も敵じゃないね!」


 初めてもらうタイプの感想に、ひょっとして自分の後ろの誰かに言っているのではないかと念のため振り返った。


 彼らは何かをこらえるように両目を覆って、しばらくそのまま立ち尽くした。


「ふー……取り乱して悪かったね。何せ急なことだったから」


「い、いえ」


「ロスくんも人が悪い。言ってくれたらもっとちゃんとした服に着替えたのに!」涙を拭った若者はニカッと笑った。「このシャツ一昨日から着てるんだぞ!」


「はあ⁉ 信じられない!」


 空気を切り裂くように、長い腕がエルと若者の間を制する。


「それ以上近づかないで頂けますか? 彼女にダニとか移したら承知しませんから」


 顔中に軽蔑を浮かべて見下ろす様は、ブレイクの副隊長を演じている時より遥かに冷え切っていた。


「じゃあ第一の試練を突破したということか」


「ええ、ものの見事に」


「なんと利発な……!」


「それに豪運だ」


「おいおいマジかよ! グレートにも程があるだろ!」


 見知らぬ人々からの大賛辞に押し流されて、エルは真っ赤になった。


「いかがでしょうか、電飾に集まるこのヤリイカっぷり」


 案内人の微笑はどことなく自慢げだった。


 確かにこちらを見た瞬間、何かに気がついたようにみんな揃って絶叫したが、他人のご乱心を証拠にしろというのはいささか無理がある話である。


「彼らは地下戦闘組織、夜を行く船サーリヤの一味」


 勢いの強い人々のことを、ロスはそう呼んだ。

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