第23話 エリシュタル(6)

「星型のアザがあるだとか怒ると目の色が金に変わるだとか、そういう身体的特徴ではないんです。トゥーラニアであれば、姿を目にした時に気づく。声を聞けば理解する。たとえ教えられていなくても、王を慕って近くに寄りたがる」


「ピカピカの漁船に集まってくるイカですか?」


「そのとおり」


「え⁉」


 正気を疑っていますと太字で書いてある顔にも、返ってきたのは愛おしそうな笑みだった。


「千夜通してじっくりと、語って差しあげたいくらいです。おれたちにとってどれほどあなたが、眩しく映っていることか」


 窓辺から差し込む日差しが、青年の肩口に稜線を描く。淡い髪色は日に透かされて、春の雨のように光った。


「さてエルさん、導きのトゥールはあなたの望みに応じて姿を変えます。城、大砲、戦闘機……王が求めるなら何にでも。あなたはこの鍵で、何をしたいですか?」


 大きな猫目が、まじまじと鍵を凝視した。


 信じがたい話である。というかこの壮大にして都合がよすぎる話を即受け入れるとしたら、それは頭にマッシュポテトが詰まっているお茶目な人材だけである。


 だがこれは――大変、けっこうな力だということは間違いない。


「……その話、乗りました」


 心中の浮かない顔は、全力で無視をした。いつもどおり口元に力を入れれば慣れたもので、不敵な笑みが形作られる。


 右手が黄金のウォードキーを掲げ、恐れるものなど何もないと言わんばかりのペリドットが、花托かたくに嵌め込まれた蒼穹色そうきゅういろの宝石を傲然と見据えた。


「鍵なのに人間の望みを察するだなんて、なかなか見どころがあるわね。さあ、その調子であたしの願いを叶えてもらおうじゃない……! 導きのトゥール!」


 自信家のクイーンが堂々と命じた瞬間、――盛大な静電気が、バチィン! と弾けた。


いったあ⁉」


 エルはスツールから転げ落ちた。手から飛んでいった鍵をロスがキャッチする。


「あれ? あれ? な、何かお気に召さなかった?」


 目を白黒させながら受け取って、「ああたしか、歌を歌うっていう作法があったわね?」と拳を額に当てる。


「えーと? 徴収の時が来た――」


 バチバチバチィッ! と弾けた静電気は、今度は少女の肘あたりまでを一気に駆け抜けた。


「いだだだだだだだ!」


 放り出す前に黒手袋が取り上げる。ふわふわの赤毛がウニのように逆立ち、思いがけなく酷い目に遭わされた涙目がキッと見上げた。


「あの! ……なんかどう見ても、嫌がってるようですが⁉」


「うーん? おかしいですねえ」


 頭を捻ったのは、奇妙な鍵の送り主も同様だった。


「さっきは歴史書に変わった、先日はクロスボウも出した。トゥールが主人の意を汲んでいることは間違いありません。他にも何か、黄金の品が現れたことがあるのでは?」


「そんなことは……あっ」


 脳内を流星のように流れていったのは、テールコートの土手どてぱらが煉瓦の上へともんどり打つスローモーション映像。


 ……あの冗談みたいな出来事は白昼夢だとばかり思っていたが、まさか。


「ええと、ふざけてるわけじゃないんですけど、その少々――高等文官をすっ転ばしたことがあります。突然登場した金の……バナナの皮で」


「金の、バナナの、皮⁉」


 ロスは驚愕に満ちた顔で繰り返した。鳩尾みぞおちに一発食らわされたように長身をくの字に折り、俯いた肩がプルプルと震える。


「トゥールが、生ゴミに……! そ、それはきっと三千年で初めてのパターンです。歴代の君主たちもさぞや、雲の上で大笑いしたことでしょう!」


 あの世のアリーナで爆笑している暇があるなら、子孫を助けてほしい場面であった。エルは「説明してもらった前情報と違うみたいですけど」と、笑いが止まらない青年をじっとり睨んだ。


「もう一回訊きます。本当に、あたしが王で合ってるんですか?」


「もちろん。間違いありません」


「根拠は――そうだった、漁船に集まるイカ理論だったわ」


 つまり確たるあかしは何もないのだ。イカが自信満々、ということ以外には。


「鍵が従わないのは、きっとエルさんがまだ、運命を受け取っていないからでしょう。トゥールはとにかく気位が高いので、主人への注文も多いんです」


 目尻の涙を拭いながら、ロスは聞かん坊の子犬を見るような眼差しで黄金の鍵を眺めた。


「……運命?」


 新たに追加された単語は、公用語にもある語彙。


 だが含みある意味を嗅ぎつけた赤毛頭は、訝しげに眉を寄せた。


「ええ、運命。またの名を、めぐる天輪との契約。トゥランをトゥランたらしめてきた、呪いにして祝福」


 青年は窓辺から歩き出した。


「ナスタランの先祖は、ウラルトゥで鍵を守ってきました。おれは長い旅をして、あなたに鍵を届けました。それはおれたちが、それぞれの運命を受け取ったからです」


 チェストの引き出しを勝手に開けると、中のものをデスクの上に並べ始めた。インク壺、万年筆、磁石、ダイス、封蝋シーリングスタンプ、押し花で作った栞、箱庭療法に使う人形――。


「エルさん。人が座る円卓には、無数の石が並んでいます」


 長い指先が、ニシンを模したペーパーウェイトをチンと鳴らした。


「我々が地上にいられる時間には限りがあり、いかに偉大なる魂であれど、全ての石を選ぶことはできません。どれを選ぶのかはあなた次第。自分が何者なのか、その命を何に燃やすのか。炎を自分自身で定め、ひとつの迷いなきまきとなった時、めぐる天輪との契約が成立し、真の力を手に入れる。トゥーラニアとはそういうものです。きっとあなたが運命を受け取った暁には、三千年の魔法も従うことでしょう」


 運命、めぐる天輪、契約、魔法。青年の語ることは、何もかもが理解の範囲外だった。エルは途方に暮れながら、「それは何かの宗教のお話ですか?」と尋ねた。


「ご存知かと思いました。同じ信仰に生きる人が育てたはずなので」


 ロスは肩口に垂れた自分の銀髪に目をやってから、再び少女を見た。


「あなたの育て親は、おれの姉ですよ」


 ガタン、とスツールが倒れる。


 椅子を蹴倒して立ち上がったエルの見開いた翠眼を映して、落ち着くようにと宥めるように、銀眼はゆっくりまばたきをした。


「十四年前、彼女は乳飲み子のあなたを本国からさらってオリヴァー海峡を渡り、最果ての地へ逃れました。キングストンには手配書がいまだに掲示されているんですよ。聞きかじった特徴をもとに、そりゃもう悪そうに描かれているので、ちっとも似ていませんけどね」


「つまりロスさんはママの……弟?」


「あなたの叔父ではありませんが、ええたしかに。エルさんのは、おれの姉でもある人でした」


 揺れる瞳は距離も時間も飛び越えて、忘れられない記憶を見出してじわりと潤んだ。


 花咲き乱れる短夜みじかよに味わった、魂がバラバラになるような痛みも。


「……やっぱり、あたしが王だっていうのは間違いだと思います」


 少女の瞳に初めて、暗がりが滲んだ。


「だって命を燃やす宛ても、自分がどんな人間かってことも、あたしはとっくに知ってるもの」


 ピンと張り詰めたそれが泣くのをこらえた気丈な声色であることに、ロスは気付いた。


 彼は多大な努力を要して、聞かなかったフリをした。胸ポケットから眼鏡を取り出し、シルクのチーフで拭いて掛け直す。


「なるほど。……証人がひとりでは不足。そういうご指摘ですね?」


「えっ?」


「では増やしましょう」


「ん?」


 黒グローブの大きな手が、うやうやしく差し出される。


「ご案内します、陛下。あなたを愛するイカどもの巣窟に」


 色ガラスを片方だけ外した青年の顔には、悪戯を仕掛けるような笑みが浮かんでいた。


 ――ダンダンダン! と扉がけたたましく叩かれる。


「スミス! エル・スミス! 貴様、校外の男と面会室にこもっていったい何をしている! 今すぐ開けないと退学にするぞ!」


 クライノート・ギムナジウムの学長、フェルディナント・ベーメンブルクは激怒していた。来賓が言うところによれば、生意気な赤毛娘は受付の役目も放り投げ、若い男を面会室に連れ込んだという。


 子どもの分際で不純異性交遊までしようなど、全くとんでもない悪童である。自分の学生時代は浮いた話があるどころか、デートに興じる帝王ジョックの後ろで半笑いを貼り付けながら荷物持ちをしていた記憶しかないというのに。


 あと三秒待っても開かなければ今日こそ本当に退学にしてやる――と固い決意でマスターキーを挿し込めば、思っていたのとは反対側に回った。扉は、施条されていなかった。


 対角線に空気の道が作られた室内に、開け放された窓から強く風が吹き込む。


「あれ? お、おらんのか……」


 カーテンがひるがえる面会室に人影はなく、まるで祝祭を祝いに出てきたようにデスクの上でぐるりと輪になった小物たちだけが、午後の光に照らされていた。

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