第22話 エリシュタル(5)
「どうしてあたしの誕生日をお祝いしてくれるんですか? ロスさん!」
行儀悪く椅子に反対座りをし、ワクワクした目で見上げる。
「個人的な理由ですよ。取り立てて明かすほどのこともない、ささやかな」
つれない返答に、エルは頬を膨らませた。「それを教えてほしいんです!」
「そんなことよりも、おれはあなたに伝えなきゃいけないことがある」
ロスの話題の変え方は、少々強引だった。
「エルさん。実のところあなたには、めぐる天輪によって三つの試練が課せられています。そのうちのひとつがおれの正体……王の守護者を突き止めること。今日あなたは見事、天輪が課した試練に勝利した。だからやっと、打ち明けられます」
何事かを述べながら、左手の黒手袋を脱ぐ。眼鏡を外してそのまま目元に手をやると、躊躇いなく眼球に指先を当てた。
人差し指が左目から剥がしたのは、灰色の薄いガラス。
「おれの名は、パルヴィザード・ロシャナク・ナスタラン・ハーフェズ」
翡翠と曇天の二種の瞳でエルを映した青年は、聞き馴染みのない長い名を告げた。
「ナスタラン家のパルヴィズの息子、
「トゥラン人……⁉︎」
エルは息を呑んだ。
ベルチェスターの佐官階級に一等国民以外が就くなど、前代未聞である。まして三等国民と蔑まれる生まれなど、共和国を震撼させる一大スキャンダルと言っても過言ではない。
つまり彼は素性を偽って、軍部に潜入しているのだ。
「そっそんな命に関わる機密事項、簡単に明かしちゃダメですよ!」
真っ青になった少女に対して、「あなただからです」と青年は飄々と答え、
「先日贈った鍵をまだ持っていますか?」
「もちろん! 肌身離さず身につけてます!」
元気のいい返事とともに、チェーンに通した黄金の鍵が襟元から取り出された。
「こんなにピカピカなもの、生まれて初めて見ました! ベッド横のチェストにはとても入れておけなくて」
「……大事にしてくれてありがとうございます」
青年の顔は、笑みを浮かべているのに泣き出しそうに見えた。
「今からおれが言う歌を繰り返して」
薄い唇から流れ出たのは、遠い草原を渡る風の音。
「徴収の時が来た 請負人に扉を開けよ」
それはトゥランの言葉だった。
箱庭の中で口ずさめば鞭打たれる言語。歌ってはならぬと約束した喉。
しかし禁を犯しても、狂おしいほどに教えてほしいこと。
「徴収の、時が来た……」
窓を閉めた室内に生じた
手の中の鍵が明滅する。鍵は明滅を繰り返しながら、不意に分厚い一冊の書物へ姿を変えた。
息を呑んだ少女は思わず、表紙を開こうと手を伸ばした。しかし指先が触れた瞬間、閃光が視界を焼きいくつもの放物線を描いて星が弾け飛ぶ。
「歴史書に変わりましたか。エルさんらしいですね」
ロスは微笑んでいた。
「これは契約の鍵、導きのトゥールと呼ばれるもの。王の望みに呼応して姿を変えるのが、神々によってかけられた魔法です。大戦後、共和国の捜索部隊から秘匿し続けてきたのがおれの村ウラルトゥ。主君の帰還を願ってバカげた反逆に全てを賭けた、
少し掠れた声で語りながら、革靴を鳴らして片膝をつく。三つ揃えのジャケットの裾がふわりと風をはらみ、真っすぐな双眸が少女を見上げた。
「エルというあなたの通り名は、もともとの
「……」
赤毛頭は、しっかりめの瞬きを五回した。
ぎゅっと眉を寄せて、「あの」と挙手をする。
「すみません。もう一回言ってもらっていいですか?」
「つまりエルさんは、全トゥラン人にとっての王さまということですね」
ご近所の
「その支配圏は、西のザグレタ山脈から東のキーロン渓谷まで、実に1200万平方ギールマルク。トゥラン諸州侯の頂点に位置する王の中の王。ウラルトゥを含むスワルワラン地方の言語では、『ハリヴァハリヤ・ハルヴァハルム』とも尊称します」
「字引きが永遠に終わらないポンコツの辞書だわ⁉」
エルは恐れおののいた。
「……ひょっとしてお疲れだったりします? 来賓用に医務室も開放中です、遠慮なく使ってください」
「ご安心を。すこぶる元気ですから」
ロスはニコニコしていた。「気分に至っては21年間の人生で最高です」
「怖い……!」
青ざめながらも、生まれつき明晰な脳は次第にピントを合わせていく。
「……トゥランに王さまがいるっていうのは、ずっと昔のお話ですよね? 史学教本に記述されてる王国という呼称は不正確だって、先生が言ってました」
「人間には理解しにくいものだからでしょうね」
青年の返答は、まるで自分たちがそうではないというかのように不可思議なものだった。
「トゥランは広大です。行政区分は大河や山脈によって隔てられていますし、言語も地方によって異なります。大きく分けて四つの言語を使う地域があり、その単位を
「愛と平和を愛するトゥラン人だから?」
皮肉を言ったというのに、目を丸くした彼は「ふはっ!」と噴き出した。
「それ、フリーデル先生のセリフでしょう? 彼は大変熱心なトゥラン研究者ですが、おれたちのことをフェアリーか何かと思ってる節がありますよね。そこそこ野蛮だった地元を思い出すと、少し
このブレイクの副隊長は、ギムナジウムの歴史教師がどのような青年なのか承知しているようだった。やはり抜き打ち監査の時に公開鞭打ちを提案したのは、センター行きを止めるためだったのだと悟る。
「……百歩、百歩譲って、トゥランに王がいたとしますよ。それがあたしだっていうのは、何を根拠に判断したんですか? ロサナ、ロシャ、ロッ、……ろしゃにゃくさんの思い込みや妄想じゃないって、どうして言えるんです?」
「ベルチェスタンにはない子音の組み合わせですもんね、ロスでいいですよエルさん」
自分の名前を噛みまくられた青年は何がそんなに
「あなたに呼んでもらえるのは、嬉しい」
頬を緩ませたその表情があまりに幸せそうだったので、流暢に発音しましたけど何か? という顔で追撃しようとしていたエルは、うっかり口をつぐんだ。
神妙に押し黙った顔面が、じわじわと赤くなっていく。
「さすが全能なるハルヴァハル、しっかり者です。でもおれだけじゃありませんよ。だってクライノートの生徒たちも呼んでいるでしょう、クイーンと」
手袋を嵌めながら立ち上がった彼が呼んだのは、ギムナジウムの中だけで使われる愛称だった。
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