第26話 エリシュタル(9)

「それはいわゆる、いい子にしてないと聖餐日ヴァノーチェのプレゼントがもらえないよっていう子ども騙しのアレですか?」


「違います。ガチです」


「ガチ」


 大真面目な眼鏡に、眉を寄せたクイーンが復唱する。


「正確には、プロトロコルを守った分だけ魔法が強くなるという仕組み。プロトコルとはつまり、世界との約束です」


「プロトコル」儀礼、ルール、枠組み。「……紳士淑女とどう関係が?」


「人と獣を分かつプロトコルがマナーだからです」


 説明は腑に落ちるとは言いがたかった。彼が言うことは何につけてもそうである。


 だがとにかく何かを達成すればいいのだ、とエルは結論付けた。さすれば――。


「空を飛んだり、炎を出したりできるってわけね!」


「使える魔法は、誰だってひとつだけ」


 子どもらしい想像力に、頬を緩ませた青年が首を振る。


「ハルヴァハルの血筋に受け継がれる魔法は、『錠前破り』。あらゆる全てを解錠する、世界一偉大なるコソ泥です」


 世界一偉大なる――


「語義矛盾してません⁉」


 トゥランの王。地上の半分の主人。猛牛も敵ではない豪傑。今日だけで山程増えた仰々しい二つ名に、わけのわからないものがさらにひとつ追加された。


 頭を抱えた少女に、「というわけで」と、ロスはやけに嬉しそうに両手を合わせた。


「明日からさっそく始めましょう、淑女教育!」

 



 ずっしりとした精神的疲労を抱えて帰校したエルを迎えたのは、校庭に焚かれた大きな篝火かがりびだった。


「エル! どこ行ってたの⁉」


「もうケーキもチキンもないよー!」


 口元にソースをつけた下級生たちがわっと集まってくる。


 祈念祭グリュクスブリンガーの夜は、来賓用に用意したキッシュやスイーツの余りが振る舞われる。ふだん缶詰のスープと灰色のパンで生かされているクライノートの子どもたちにとって、まともな食事にありつける数少ないチャンスだった。


「だーいじょうぶ、ここにちゃんと取ってあるよ! メルサ天才だから!」


 エヘンと胸を張った小さな手が鐘覆いクローシュをどかすと、グレイビーソースまで綺麗に片付けられた皿が現れた。


「あ、それエルのだった? ごめんごめん、たいらげちゃった」


 白状したのはシャロンだった。彼女が大変な大喰おおぐらいであることは、クライノートの中では知られた事実である。


「い、いいわ。いなかった方が悪いもの」と鷹揚に許しながらも、エルは肩を落とした。胸が焼けるほど甘いキルシュトルテに削りチョコレートをたんまりと振りかけるのを、実は楽しみにしていたのだった。


「悪かったよ。……ひょっとしたら、もう帰ってこないかもって思ってさ」


「え?」


 どういう意味だろう? 投げられたリンゴを受け止め、階段に腰を下ろして大口を開けたエルはパチパチと瞬いた。


 肩を竦めて笑う親友に尋ねようとした時、スピーカーからのハウリングが夜闇を切り裂いた。


 耳をろうする音波のあとに溢れ出たのは、レコードが奏でる陽気なダンスミュージック。


 燃え盛る炎の周囲に子どもたちが駆けていく。グラスを置いた教員たちも、腰を回しながら立ち上がった。これは懐かしき帝国時代の思い出。雄大なハルブルグ山を称えた、誰もが知る舞踏曲なのだ。


 息を吐けば白く染まる、冴えた闇。


 月のない夜に立ち上っていく黄金の火の粉を、翠眼はぼんやりと眺めていた。


「お前は踊りに行かないのか?」


 いつの間にか、斜め後ろにキリルがいた。


 本音を言えば、シャワーを浴びてとっとと寝たいくらいに疲れている。エルは首だけ傾けて、「気が向いたら」と答えた。


「……」


 少年はオリーブ色の瞳に赤毛を映し、しばらく口をつぐんだままたたずんだ。


 彼はギムナジウムの最高学年。次の夏が来たら成人試験を受ける年齢である。首席で通過するのは当然で、秋になれば晴れてクープ警官隊の一員となることが決まっていた。同じ箱庭住まいといえど、ギムナジウムの生徒とそう会うことはできない。


 炎と同じ色をした髪をなびかせる少女は、そのさらに一年後、成人試験のあとで国家公務員試験を受け、箱庭を去る。


 トゥラン人がベルチェスター本国に迎え入れられるなど、十年に一度起こるか起きないかの奇跡。だがエルならばきっとやり遂げるだろうと、キリルは信じていた。自分だけではなく、クライノートの生徒なら誰でも。


 ……だから、残されたチャンスは数少ない。


 だから今夜は少しだけ、頑張らないといけないのだ。


「やるよ」


 ぶっきらぼうな横顔で、くすねておいたジンジャークッキーを押し付ける。


 激しく瞬きをしながら、クイーンは皇帝からの貢物を受け取った。よし、掴みはいい。……ものすごい顔をしてクッキーとこちらを交互に見ているが、そういうことにしておこう。


「ええと、それでだな……」


 頬を掻いたキリルは目線を逸らした。


 あとはサラッと誘うだけだ。高圧的な自分の悪いクセが出ないように、気持ち悪くもないように――。


「きゅ……旧ヴァルト帝国の民族舞踊について、どう思う?」


 何を訊いているんだおれは?


「クールだと思います」


 本日一日で様子のおかしな人々へのツッコミに疲れ果てたエルは、真顔で答えた。


「ねえエル、踊ろ!」


 幼い手が、隙ありとばかりに掴む。「ええー」と渋い顔をしながらも抵抗せずに立ち上がり、下級生に引っ張られた赤毛頭はあっという間に輪の中に飲み込まれた。


「あっ、おい! ……クソッ」


 ああやって誘えばよかったのだ。見事な手本を見せられて、キリルは肩を落とした。


 物事はいつだってシンプルである。


 薪を食い荒らして轟々ごうごうと燃え盛る火炎の元に、負けない大音量で音楽が降り注ぐ。異性同士同性同士、思い思いのペアを組んだ生徒たちは時計回りにステップを踏みながら、反時計回りに輪を回していく。


「エルだ!」


「エルが来た!」


 クイーンを迎え入れた翠の瞳が、炎に照らされて宝石のように輝いた。


 ――トゥーラニアであれば、姿を目にした時に気づく。声を聞けば理解する。たとえ教えられていなくても、王を慕って近くに寄りたがる。


 告げられてみればたしかに、クライノートの子どもたちの自分の慕いようは、少し奇妙なほどにも思えた。


 だがエルには、王に従うはずの鍵が従わないということが、覆しようのない答えである気がしてならないのだ。


「本当に、あたしが持っていていいのかしら……」


 首から下げていることをすっかり忘れていた黄金が、肩にずしりと重く感じた。

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