第20話 エリシュタル(3)
「おはようございます副隊長殿!」
「おはようブラウン少尉」
「副隊長殿、先日はありがとうございました」
「おはようございますメイスン軍曹。胃の具合は?」
「それが、頂いた薬で嘘みたいによくなって!」
新兵時代に大変世話になった壮年の鬼軍曹は、機嫌よく自らの腹を叩いた。
「朝飯に白ヴルストを七本もたいらげましたよ」
「急激な消化負担は避けるようにと言いませんでしたか?」
健啖ぶりに呆れつつも、ロスは氷のような頬を少しだけ和らげた。「ですが、何より」
親しく挨拶をするのは、同じ部隊の部下たちである。レーベンスタット・クープに派兵された八百人の治安維持部隊のうち、猟犬師団の第四中隊に当たる。あからさまに敵対視するブレイク隊員もいるが、この宿舎の半数が旧貴族家に連なる上流階級の子弟だということを考えれば、ワケありの少佐への態度としては妥当なものだった。
一階の食堂前で、肩をぶつけられて大きくよろめく。
「前方不注意です、ドーソン大尉」
「これは申し訳ございません、キースリング少佐殿」
数名で連れ立った青年たちは、行く手を阻みながらニヤニヤと笑った。青い目を心外そうに見開き、芝居がかった仕草で両手を広げる。
「しかしながら、自分は前を見ていたと自信を持って証言できます。少佐殿、もしかして視野がよくないのでは? だとしたらなんていうかその~……孤児のうえに不具だなんて、大変お気の毒だと思いますね!」
足を踏み鳴らした野蛮な嘲笑が沸き立った。
ロスは壁掛け時計を見上げながら、養父が観せてくれた
佐官と尉官の間には、絶対的な階級差が存在するものだ。本来なら起こり得るはずのない侮辱だったが、ここは治外法権の箱庭で、いるのは傲慢なベルチェスターの旧貴族ども……それも血の気が余った青年ばかりだった。
この大尉は、ロスやその従兄弟と同年齢。実家の地位を
そのイラつきは正統だ、と心中で同意を示す。ブレイク第四中隊は隊長も副隊長も、
今にも拳で文句をつけそうな部下を右手で制し、左手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ドーソン大尉。貴官の今期ライフル試験の称号は
「……それが何か?」
「僭越ながら自分は
「マークスマンとエキスパートのスコア差は三倍。つまりライフルで敵を殺すという点において、貴官は自分の三分の一の価値しかないということになります。ああ無論、他のことでは自分を凌ぐ能力をお持ちとお見受けします。人間とはそのようなものですので。だが、機能がいくら備わっていようが使用者に能力がなければ無価値なのだということを、士官なら留意しておくべきだと考えます」
相手が応戦のセリフを探して口をパクパクさせているうちに、すれ違いざまのデカい独り言で追撃する。
「それにしても、レーベンスタットにもメンタルケアの医療者が必要だな。きっと人型の動くターゲットに動揺して、
誰かが噴き出した。
「混血野郎!」
手を叩いた大笑の中、真っ赤になった青年は人差し指でロスの背を指した。人を指差すのはプロトコル違反、と窓に映った背後の光景を何の感慨もない横目で見やる。
「薄汚いトゥラン男に孕まされた売女の息子が! みんな言ってるぞ! 商売女にも相手にされないからハウンド相手に腰振ってる間抜けだって! ハハ! どおりでテメエの犬だけ、毛艶がいいわけだ!」
ベルチェスターの首都キングストンにあるロスの個人管理簿には、両親ともに一等国民と記されている。
――理由あって併合区域の民に育てられていたが、この子が純血のベルチェスタンであることは明らかである。とても捨て置けなかったので、これも何かの縁と養育することにした。
少年を引き取った男は役所にそう説明した。旧伯爵家という地位は大変けっこうなもので、キングストンのID管理課は
だが独り身の花形軍人が妻より先に子を得たというセンセーショナルな出来事は社交界を駆け抜け、人の口を渡り歩くうちに尾ひれがつき、いつの間にか下品な魚が作り上げられた。この魚はベルチェスターに席を得てから十一年、寄宿舎にあっても軍にあっても、つねにロスの傍で泳ぎ続けている。
立ち去ろうとしていた足を止めて振り向いた。
紳士には多めに見てよい侮辱と、そうすべきではないものがある。これは後者だ。
「トヴィアス・ドーソン大尉。二度は言わない。礼節を守れ」
空しく響く叱責に、金髪の青年たちの顔に嘲笑が浮かぶ。
「諸君らはどうやら、自らが武器として使役している獣がいつでもその首をねじ切り頭蓋をかみ砕くことができるという事実を、甘く見ているようだ」
眼鏡の奥、冴え冴えと燃える冷たい炎は、聞き慣れた自分への悪罵などはなから捨てていた。
いつも淡々とした彼が珍しく怒りを滲ませた理由は、ハウンドへの愚弄について。
「ひ弱な人間など悲鳴も上げる暇なく頸動脈を食いちぎられ、肺いっぱいに溜まった血で溺れ死ぬ。忘れるな。彼らがやろうと思えば、それは一瞬だ」
トヴィアスは鼻で笑おうとした。だが、いけすかない灰色の眼光と今まさに目前に存在する異常な怪物が頬を強張らせた。
顔の見えない歪な獣は早く行こうと急かすように、黒手袋を嵌めた主人の左手に鼻先をこすりつける。甘えるような仕草は犬そのものだったが、喜びを示して開けた口には凶悪な牙が覗き、耳近くまで大きく裂けた。
「ブ、ブレイクがハウンドにやられたなんて話、聞いたこともない。毎日鎮静剤も与えているし」
「貴官はろくに座学も修めなかったようだな。驚いた。恒常的に投与された鎮静剤は代謝速度が上がり耐性がつき得るのだという話は、気の毒な少尉の具体例とともに技能訓練初年度で習うはずだが」
猟犬の長い首に手を添えて宥める眼差しは優しかったが、敵を映した瞬間に雪空のように冷え切った。
「彼らはとある
それと毛艶も含む健康状態は査定の対象だと付け足して、ロスは大股で歩き去った。
軍服を着た類人猿の相手をしている暇はなかった。上官が執務室でポーカーに熱中する前に、外出許可証の決済印を押してもらわなくてはいけないのだ。
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