第19話 エリシュタル(2)

 湿度も温度も急速に下がった。轟々ごうごうと鳴る海嘯うみなりも消え失せた。代わりに音を立てるのは、ひとりでに灯されていく無数の松明。


 フジツボに侵された列柱廊には傷ひとつなく、白大理石の滑らかな肌を灯りに晒していた。崩れた階段もアーチも整然と蘇り、床のフレスコ画も色鮮やかに、入り江に沈んだ神殿は地上にあった烈日の姿を取り戻した。


 闇にそびえ立ついくつもの巨大神像のことを、ロシャナクは知っていた。あれは全て、神話の怪物たちだ。


 見開いた少年と同じ翡翠の目を持つ男は、重い口を開いた。


「トゥランにかけられた祝福と呪い。三千年前のある契約と、先だっての大戦での背約について。それから、おれたちが持つ起死回生の一手のこと」


 そうして少年は、自分の一族が何を守ってきたのか教えられた。


 姉は嫁いでなどいなかったことも、自分たちが他村からキツネと呼ばれる所以ゆえんも、どうして老人たちは長い旅に出て帰らないのかも。


 なるほど確かに、この村が握っているのは全てをひっくり返す起死回生の一手だった。


 だがそれ以上に自分たちの運命はどん詰まりで、風前のともし火であり、長く迂遠うえんな旅路が課されていることを理解した。


「お前のその髪はな、曾お祖母さんの遺伝だ」


 語り終えた父は、珍しいことにかすかな笑みを滲ませた。


「ヘンリカお祖母さんは、女だてらに冒険者だった。忍耐強くて勇敢で、いしゆみを持たせたら誰にも負けなかった。そう、お前がしょっちゅうヤブイヌを連れ回して撃っている、あの弓だよ」


 自分のそうした様子を父が見ているとは思わなかった少年は瞬きをした。


「ヘンリカお祖母さんは大獅子を追いかけて、最果てのトリカからこの地へやってきた。そうして曾お爺さんと結ばれて、ナスタランの子孫を生み育てた。まだトゥランが神々との約束を果たし、外の世界と平和に付き合っていたころの話だ。お前の目は、ウラルトゥの大地の色。お前の髪は、北の果てに降る雪の色。かつて人間たちが互いに愛し合っていた時代の忘れ形見がお前だよ、ロス」


 頭を撫でられたのも、こんなに長く父と話したのも、初めてだった。


「他人と違う毛並みは煩わしかろう。だが、そう悪いもんじゃないさ。重い荷物を背負った旅路の最後には、得難えがたい宝が待っているものと古来、相場が決まっている」


 ロシャナクはその日から、自分の色を前ほどは憎まなくなった。





 花形部隊といえど、男ばかりの宿舎は粗雑なものである。スプリングが歪んだ寝心地の悪い寝台で、ロスは翡翠色の目を開けた。


 首から背中にかけての痛みに心地よい微睡まどろみを取り上げられ、顔をしかめながら起き上がる。先のことばかり考えてしまう頭には、起きて早々に今日の予定が陳列されていった。いつもどおりの鍛錬、仕事の整理、ハウンドの世話、痛み止めの調合……それから、イレギュラーな用事。


 口元が勝手に緩んだ。バネを利用して飛び降りた足はいつになく軽い。浮かれているぞと心中で戒めの声が上がるが、従兄弟も部下も見ていない自室でくらい、無視しても構わないだろう。


 今日は彼女に会えるのだ。


「おはよう、D-612」


 カーテンを開けながら、部屋の隅に伏せた巨大な四足動物に声をかける。冬が近づくにつれて伸びてきた日差しが彼のために手作りした寝台にまで届くと、白毛に覆われたアニマルウェポンは鼻先を上げた。普段と違う主人の表情に気づいたか、細長い頭を不思議そうに傾ける。


 ハウンドを使役するブレイク部隊といえど、兵器と寝食を共にするのは相当な変わり者だけである。具体的には自分と、なぜか自分に懐いている若干名の部下くらい。だが一緒に過ごしてみれば、補食器しか見えないハウンドの顔も意外と表情豊かであることに気づく。


「そんなにニヤついているかな? 気を付けないと」


 緩めた頬を引き上げた拍子に、少し伸びた髭が指先に触れた。


 髭を生やすのであれば、ベルチェスタンガーデンの刈り込みのごとく完璧に整備されてしかるべきであり、まばらに生えた瀕死のペンペン草のようなそれは紳士にとってである。形を整えられるほど潤沢には生えてこない以上、綺麗に剃る以外の選択肢は残されていなかった。


 将校室に備え付けのバスルームで支度を済ませて、長髪を後ろ頭で結わえる。


 ロスがベルチェスター連邦共和国の旧伯爵家に引き取られたのは十歳の時。銀色の髪は、当時から肩甲骨ほどの長さにまで伸ばしていた。長い髪には権能が宿るという故郷の風習によるものである。


 別に切っても構わなかったが、どうせ周囲の少年たちの髪型を真似たところで受け入れられることなどないとわかりきっていたし、な養父は思いつめたフリをして打ち明けたことには何にでも理解を示したから、いくら寄宿学校の教師が鞭を打とうが生徒たちが苛烈な排斥を行おうが、三等国育ちの孤児は堂々とそのままでいた。


 片手で瞼を開き、もう片手で眼球に色ガラスを嵌める。目薬をして何度か瞬きをして、ゴロゴロとした違和感を抑え込んだ。ガラスを入れたことでぼやけた視界は、眼鏡を重ね掛けすることで補っておく。


 こうして翡翠色の虹彩は、雨が降り出す前の曇天の色に変わった。


 自分の瞳が緑であることをこの国で知るのは、数名の協力者と傍らのハウンドだけ。


 実の父が死の間際にかけた魔法は、幼い息子が青年となるまで安全を守り抜いた。血族たちが打った大芝居は疑り深い敵の目を眩ませて、養育者となった男すら欺き通した。


 めぐる天輪は音を立てて、運命を紡ぎ続けている。彼ら全てが灰となって久しくとも。


 尖った鼻先を太ももに擦り付けられ、鏡の前の青年は「ああ、ごめんよ!」と声を上げた。自分としたことが、大事な相棒を空腹のまま待たせてしまっていた。


「はいどうぞ」


 ハウンド用ヌガーを食器に滑らせて、専用のテーブルにナプキンと一緒に置く。D-612はこぼすことも皿を床にひっくり返すこともなく、行儀よく食べ始めた。これもプロトコルどおり。マイセル社製の高級磁器を何枚割られようが諦めず、しっかりしつけた甲斐があるというものだ。


 ロスは愛犬家である。ブレイク部隊所属となって真っ先に、ハウンドの餌として支給されるヌガーの味を躊躇なく確かめている。紳士らしくない物言いであることは百も承知だが、それはもう、シンプルにクソだった。牛糞混じりの牧場の泥と腐ったレバーをミキサーにかけ、チキンパウダー入りの工業糊で固めたとしか思えなかった。速攻で司令部に改善提案書を提出したが、現在に至るまで生産過程が改められたという報告が上がったことはない。


 自分は装甲板とあだ名される糧食りょうしょくビスケットを濃いコーヒーで流し込みながら、チャッチャッチャッと素直に食べる相棒に青年は悲しげな眼差しを注いだ。


 舌に合わない苦手なものも、毎日食べても飽きない大好物も、彼らにはあったはずである。だがを施された瞬間に、全て忘れてしまうのだ。


「D-612。今日は仕事のない日だよ。おれは私用で外すけど、戻るまでドッグランにいる? それとも飼育舎の仲間に会いたい?」


 ハウンドは喉を潰されて話せない。本物の犬のように表情豊かに語る尻尾も持たない。だが長毛に埋もれた耳の動きを見て、ロスは微笑んで頷いた。「わかった。みんなと仲良くするんだよ。紳士は友達に噛みついたりしないものだからね」


 クローゼットを開いて、しばし考え込む。


 装束とは相手への敬意を表すもの――紳士の初級心得である。


 彼には本日、予定が控えていた。世間一般には他愛のない用事に間違いなくとも、ロスという青年にとっては昇進式典よりも舞踏会よりも、遥かに重要なイベントだった。そわそわし過ぎて、数日前から落ち着かなかったほど。


 この溢れんばかりの尊敬と親愛を表現しようと試みたなら、漆黒のモーニングコートにシルクのネクタイでもまだ足りないが、トップハットまで被った最上級礼装の男がやってきたら周囲の度肝を抜いてしまうだろう。


 場にそぐわない服装は、プロトコル違反。というかそもそも持っていない。


 悩んだ末、ブルーグレイのクレリックシャツに袖を通し、ウールのスリーピーススーツを羽織った。柄は黒が混じったモスグリーンのグレンチェック。ネクタイは深みのある橙。彼女の髪色を想起させるそれを丁重に結び、胸ポケットには少し明るいオレンジのチーフを挿す。


 マナーとはいえ、鼻が効く身ゆえに香水は使わない。お決まりの黒手袋を嵌めてベッドヘッドに置いたベルト式の時計を右腕に装着すれば、身支度は完了である。


 唾でも吐きたいものだらけの連邦共和国にあって、腕時計は数少ないお気に入りだった。


「さ、行こうか」


 相棒を促し、――念のためもう一度鏡をチェックして、青年は扉を開けた。


 自室を一歩出れば、そこは戦場。十一年前から一日も変わらず。

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