第4章

第18話 エリシュタル(1)

 その土地には全てがあった。透き通った入り江、緑深い森、花が咲き乱れる渓谷、碧玉を塗り込めたような青い空。


 抱えた膝は両膝から血が滲んでいた。膝を抱えた腕には青あざができていた。毛むくじゃらの友人が心配そうに舐めようとするのを、疲れ果てた少年は「平気だよ、シュシュ」と片手で制する。


「おれだって薬師くすしなんだから、これくらいの傷すぐ治せる」


 まあ素材棚も薬研やげんもない農機具小屋の中では無理な話だけど、などというぼやきは胸に収めて、ロシャナクは空を見上げた。


 三つ編みに束ねた銀の髪が、肩口を滑り落ちる。


 黒ツグミがく冬の終わりの夕暮れ。上空の巻雲を映す瞳は翡翠色。何度も口ずさんだ子守歌が、風のように口から流れ出た。


 ロシャナクが生を受けたのは、海に面した崖上の小さな村ウラルトゥ。


 そこはひなびた辺境には似つかわしくない、白大理石の壮麗な寺院を擁していた。守護者を意味する古語を二つも家名に背負った彼の一族ナスタランは寺院の管理を担い、村人たちから守護殿と仰がれていたが、果たして自分たちがいつ、なんの所以ゆえんがあってその役目を得たのかは、少年の知るところではなかった。


 当主である父の子は、自分のほかには年の離れた姉がひとりだけ。彼女はロシャナクが物心ついた頃に遠い地の果てへと嫁ぎ、記憶の中の顔はすっかり薄れたが、父が後生大事に飾っている一枚きりの家族写真には、泣き止んだばかりらしい幼い自分の頭を撫でる美しい娘を見ることができた。


「おやすみなさい、わたしの小さな星。トゥーラトゥララ、ルラルラリ……」


 優しい春の雨のような子守歌に寝かしつけてもらった幸せな記憶だけは、幸いにも覚えていられたから、悪童たちに追い回され痛めつけられた今日のような日には、誰にも聞こえない小声で口ずさんだ。そうして日が沈むまで身を隠した。


 皆のようにスラスラと詩やメロディーを生み出す才には恵まれなかった少年は、同じ歌を飽きずに何度も歌った。それも嘲弄ちょうろうの対象だったが、ナツメ酒を片手に肩を組んで歌う仲間に入れて欲しいとはちっとも思わないから、別に構わなかった。


 姉が残してくれた優しい歌と、誰にも負けないいしゆみの腕前、それからいつも舌を垂らして笑っているヤブイヌのシュシュ。孤独な少年の慰めは、これで全部。守護殿の一族の尊母は、ロシャナクを出産した際の産褥熱で命を落としていた。


 母の命と引き換えに生まれた子どもの肩身は、狭いものである。その上先祖返りした彼のは、他の者たちと異なっていた。色素の薄い肌と髪を指して、口さがない村の者たちは『ナスタラン家の幽霊』とからかい、晴天が続いて畑の土が乾けば、雨を降らしてみせろと野次った。


 この地では、雨は父祖の霊の声であり、死者の祈りが雨雲を連れてくると信じられている。


 当然の帰結として、少年は自らの色を憎んだ。ウラルトゥの風習で長く伸ばさせられた銀髪を庭木の剪定鋏でザンバラ切りにしたのは七つの頃。父は呆れた眼差しを向けただけだったが、卒倒した乳母に涙ながらに懇願されて、渋々再び伸ばし始めた。


 叶うなら丸刈りにしたいところとはいえ、優しい育ての母マーダルのお願いだけは断りかねた。


「あんなやつら、火が使えたら一発なのに」


 左手の指先をこすれば、薄闇に浸された小屋に黄金の瞬きが弾ける。


 一番星のような火花が鼻先を掠め、ヤブイヌは驚いて飛び上がった。


「ああ、ごめんよ!」


 ロシャナクは友人のダブダブとした皮を撫でて謝った。


 ナスタラン家嫡子の祝福は火矢。


 つがえた矢に炎が宿り、狙った獲物を焼き滅ぼす戦士の権能。


 薬師の倅には過ぎた力であり、六つの時に丘を丸焼きにする事件を起こして以来、彼は祝福を封じられた。得意のクロスボウも当然、人に向けて放つことは許されていない。あれもこれも禁止とされた少年は、いつも生身で怪力や俊足の祝福を得た悪ガキたちと対峙しなくてはいけなかった。


 嫁いだ姉、トゥランの雨となった母。両家の祖父母は、ある日突然旅立って二度と帰らなかった。これはどこの家族であっても同様だったので、ロシャナクは老人とは長い旅に出るものだと思っていた。家の中で生きている家族は父だけだったが、厳格で寡黙な村長むらおさが息子を助けることはなかった。


 濃淡はあれど、集落は全員に血縁関係がある。身内面した薬師どもは例外なく、馴れ馴れしくて無礼だった。守護殿の息子は父の跡を継ぐものと当然のように思われていたが、あんなならず者どもを束ねてウラルトゥに骨を埋めるなどまっぴらだった。


 次代の守護は、従兄弟筋の誰かに担ってもらおう。そうして自分は村を出よう。彼らもそれを望んでいるはずだ。


 分かり合える友を人間に見出せなかった少年はいしゆみを手に、驚くべき距離をヤブイヌと駆けた。


 切り立った西の山から見渡せば、どこまでも続く西南部スワルワランの湿地帯。世界の端に沈む太陽に染め上げられて、空は朱鷺色ときいろから宵蒼に移ろう。淡紫の釣鐘花が咲き乱れる草原に降りるのは、夜の暗さを孕んだ黄金。羽を広げた鳥のような雲は、群青の影を滲ませた橙に変わっていく。


 地平線まで歩けども、そこはトゥランの領内だった。この世のほとんどと呼んでもいい、果てしない領土。雄大で物悲しくて、どんな歌でも表すことが叶わないこの風景だけは、ロシャナクも愛さずにいられなかった。


 必ず旅に出よう。いしゆみを持って、手紙を残して。若草も枯葉も瓦礫も踏み締めて、この足でどこまでも歩いていこう。そしていつかは、トゥランの外へ。


「その時はお前も一緒だよ、シュシュ」


 鳴くのが下手な彼の犬は少年の手を舐めながら、ヒィンとできそこないの馬のような返事をした。


 鹿を追って峠から峠を駆ける時、時折遠くに煙をのぞむことがあった。そういう日の晩は決まって村の大人たちがナスタランの屋敷へ集まり、難しい顔をして夜中まで話し込んだ。


「岩窟のアスワドがやられた。ハウンドどもに見つかって、ほんの半日だったそうだ」


「樹冠のナージフは見逃されただろう。そりゃ子どもらは連れて行かれたが……なぜだ? 何が違う?」


「侵略者の気まぐれに理由などない」


「守護殿。今からでもキャラバンの立ち入りを制限しよう」


「トゥーラニアがあたしらを売るってか? しょうもない異邦人バルバラどもと一緒にするなよ」


「口だけは勇ましいが、子を人質に取られても同じことを言えるか」


 村長むらおさは寡黙だった。自分が語るより先に、人々の語ることに耳を傾けた。


「……ウラルトゥはすでに運命を受け取った。だからその運命との約束を果たす」


 朱と翠のモザイクガラスに彩られたランプの灯りを目に映しながら、この時も彼は皆が語り終わってから最後に口を開いた。


「だがウラルトゥの運命は、そなたら自身の運命と同一ではない。特にまだ契約も知らぬ幼い子らにとって、戦いに巻き込まれて命を落とすのは不条理だ。この地を離れるも残るも、おのれの家族で決めなさい。ウラルトゥの答えは、百年前から決まっているのだから。調合し、守り、ご帰還を待つ。この村にできるのは、ただそれだけだ」


 村の生業は、種々雑多な生薬の調合。村人たちは農作業も狩猟も漁労も行ったが、それは片手間に過ぎず、方薬免許を得た者は薬師として身を立てた。


 ウラルトゥ製の薬は高く売れ、乾季には日を置かずに隊商が訪れた。トゥランの他氏族から構成されるキャラバンたちは辺境に暮らすウラルティンのことを、尊敬と親愛を込めて『薬師くすしキツネ』と呼んだ。


 キツネという語が何に由来するものかロシャナクは知らず、村内のあちこちに鎮座したキツネの意匠とともにそういうものだと思って育った。崖上の寺院の切妻屋根にだけは図形化したワシが彫られ、内部には滑空する大鷲おおわしの神像が祀られていたが、これにも疑念を挟む余地はなかった。


 勇敢で慈悲深い葬送の神はいつだって頭の上を飛んでいるのだから、村内においても最も尊い場所にあって然るべきなのだ。


 この寺院ではロシャナクの父によって勉学の講義も行われていたが、悪ガキどもと机を並べることを疎んだ少年は、嫡子だというのにサボってばかりいた。


 父は講義からの逃亡には何も言わなかった。しかし、水練を怠ることだけは許さなかった。この水練、ナスタランの家中の者には必修であったが、――とにかく常識外れに、過酷であった。


 海中でものは十歳の春。


 沈丁花の匂いが風に混じる朝、少年は父から守護の任を明かすと唐突に告げられた。


「来なさい」


 何か細長いものを包んだ油紙を携える背を追って、寺院に続く坂道を登る。薮から飛び出したシュシュが、舌を垂らしながら親子の隣に駆け寄った。


 寺院は村の南端、サラマト湾に繋がる入り江を背にしている。父は巡礼階段を素通りして細い脇道を上り、寺院の背面の崖上に立った。


「水練の最終試験だ。ここから飛び込め」


 硬い指先がさしたのは、眼下に広がる青い海。


 明け方の光が花弁のように反射する海原は穏やかで、暖かくなってきたこの頃では遡上してきたヒメウオの群泳も見られて、水練や漁労がなくとも潜っていたいような美しい海だった。


 ただし、この崖の高さは五十マルトを超えていた。


「……は?」


 まさか、できそこないの息子を始末しようとしている?


 あらぬ疑いを抱いたのも束の間、試験を課した当の本人が飛び込んだ。


「父さん⁉︎」


 血相を変えて覗き込めば、遥か下の海面、白い飛沫の周囲に円を描いて浮かぶ八つの石があった。


 飛び込む先はここだと示すような印に目を見開いてたじろくと、ザラリとした足裏の感触で、自分が白大理石で作られた踏み台の上にいることを知る。


 起点と着点を示すそれらの石を何度か見比べて、ロシャナクは心を決めた。


「……シュシュ。お前は戻って、マーダルから朝ごはんをもらっておいで。うまくすれば、統春節の七面鳥の残りにありつけるかもしれないよ」


 サンダルが地面を蹴る。


 狙いをつけるのが得意な身体は、自分自身の自由落下であってもあやまたずに円の真ん中へ投じた。視界を埋め尽くす泡の中で目を凝らせば、青い光の中、こちらを見つめて待つ父がいた。


 意外と何とかなった……と遊泳している少年は、たった今落ちた崖は只人なら全身の骨が砕ける高さなのだということを、まだ知らない。


 編み模様の日差しが差すサンゴ礁を抜け、チョウチョウウオの群れを通り過ぎて岩場をさらに深く潜っていく。これより下に行ってはならぬと聞かされた洞窟に進む父の背を追って、光のおぼろな蒼い暗がりを沈んでいく。


 闇が深まるばかりの世界に、青緑の光が瞬いた。光虫である。夜の海岸でしか見たことのない灯りに、少年の眉が寄る。


 天然の洞窟だとばかり思っていたそこは、見渡してみれば緻密な幾何学文様が彫り込まれた壁だった。父が触れたところから奥に向かって、紋様に息づいた光虫が明滅し出す。


 フジツボに覆われた列柱廊、古めかしいアーチ、顔の潰れた神像、崩れた階段……鼓動する灯りに照らされて姿を現したのは、広大な海中遺跡。ロシャナクは翡翠の瞳を見開いた。


 父はさらに奥へと進んだ。これ以上行っては戻る分の息が尽きてしまうと不安に襲われた時、ひとつの円環をくぐった。


 不意に、身体が重力を取り戻す。濡れた手足が岩場に叩きつけられる。


 目を白黒させながら身を起こせば、円環の中、自分と父のいるささやかな空間だけがこの世の法則を無視して空気が満ち、ドーム状に水が穿うがたれていた。


「なっ、何だここ……⁉」


 じっとりと汗ばむ湿度。轟々と音を立てて滑り落ちる海水の壁。うろたえる息子をよそに、父は背負った油紙から弦楽器サントゥールを取り出した。


 両手に持ったバチで、弦を打つ。


 倍音揺らぐいくつもの弦の響きが、閉ざされた海中世界を揺らす。


 瞬間、世界の表と裏は反転した。


「さて、運命について話をしようか。ロス」

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