第17話 飛空艇ナハトムジーク(5)

 梯子はしごの掛けられた縦穴は前情報どおり狭く、その上真っ暗だった。エルの眼であれば少々ピントを合わせれば踏桟ふみさんの輪郭を捉えることはできたが、片腕にヘビー級の猫を抱えた状態ではどのみち無理な降下を余儀なくされた。


「失礼」


 一段目に足をかけた時、ふわりと身体が浮いた。青年は猫を抱いた少女を軽々と支え、片腕で危なげなくスタスタと梯子を降りていく。エルは大きな瞳をまんまるに見開いて、自分の腰に回されたたくましい腕を見下ろした。


「先程は乱暴なことをしてすみませんでした。手首、アザになっていませんか?」


 初対面からの高圧的な態度はどこに行ったのか、隊服を脱いだ彼は大変に紳士的だった。だがクイーンのほうはなぜか、抱きかかえられた瞬間にピタリと呼吸を止めていた。両腕で持ち上げた毛むくじゃらの猫に隠れて手首の様子もよくわからず、小刻みに何度も頷くことしかできなかったが、青年は「よかった」と頷き、何がおかしいのかクスクス笑った。


 うっかり止めてしまってから再開できない呼吸がそろそろ限界を迎えそうになった頃、ふたりと一匹は底についた。


「ぶはあぁああ〜〜〜!」


 茹でカニのように真っ赤になった少女は、腕から解放されて大きく息を吐いた。赤い頬を持て余したままふらつく足に力を込めて顔を上げれば、辺りの光景を受け止めたペリドットは、五度ほど瞬きをした。


 地下の世界で客人を迎えたのは、無数にまたたくともし火。


 箱庭では長らく見かけていない、二階建ての家屋。軒に突き出た看板は粉挽き屋、靴屋、鍛冶屋、パブ、喫茶店……さまざまな家業を表していたが、こうしたギルド看板は併合時に廃止となったはずだった。正面の浮き彫りメダイヨンに豊穣の角が描かれたあの聖堂は、今はもう打ち捨てられたエーデの教会。王冠のような光を放つ円形の建物は、ひょっとして三十年前に取り壊されたというオペラホールのミニチュア版ではないか?


 さながらここは、前世紀の懐古主義者がこしらえた古き良き帝国時代の町。道に人通りはなくとも、トゥランの耳を持つ少女には様々な人がひしめいている気配が感じ取れた。


 クープの中は、完全なる管制区域である。つまり間違いなく当局に無許可で広がるこの地下街は、その存在だけで反逆の証。


「レーベンスタットにこんな場所があるなんて……」


「どこの街にもありますよ」


 煤のついた古めかしいガス灯を映した灰眼は、一度ゆったり瞬きをした。


「まともな心を持つ人間にとって、地上はとにかく生きづらい」


「……」


 エルは横顔を見上げた。


「副隊長さん、あなたはどういう……」


 皆まで言うまでに、「質問は禁止です」と、人差し指が唇を制した。


「手を入れようとしているのが毒ヘビの巣穴だということくらい、あなたならわかるでしょう?」


 優しい笑みで危険な立場を仄めかされ、とっさに言葉が出なかった。


 伸ばされた手はそのままギリギリ触れない距離で、少女の額から頬までをゆっくりとなぞった。


「傷が癒えてよかった」


 どこまでも温かな親愛を滲ませた眼差しに、心当たりのない方としては戸惑いのまばたきをすることしかできない。近すぎる指先に、熱がひかないままの頬が再び熱くなっていく。


「けれど、軟膏では治らない怪我もあります。どうか命を大事にしてください」


 自分こそ同じ位置に傷跡を刻んだ青年は、気遣わしげに言い添えた。


 うっかり失念していたがそういえば、常識はずれの傷薬を寄越してきたのは彼であった。


「あっ、あの薬は……⁉︎」


「効いたでしょう? ちょっとした特技なんです、調合」


 誇らしそうな笑みに対し、エルは唖然と口を開けた。つまりあれは、彼お手製ということらしい。


 折れた鼻骨だろうが潰れた眼球だろうが塗るだけで元通りに治してしまう軟膏など、もう賢者の石とかのオカルト仲間である。それをこしらえた人間もまた、超常の類に入れていいだろう。


「な、なんで軍人なんかやってるんですか⁉ いやっもちろんブレイク隊がエリートなのは知ってますけど……! それでも、宝の持ち腐れにも程がありません⁉」


「秘密です」


「くっ……! じゃあ、あたしのこと前から知ってる感をかもし出してるのは一体⁉︎」


「非公開情報です」


「ぐぬぬう!」


 聞きたいことは山ほどある。だが、情報とトレードできる取引材料の持ち合わせはなかった。諦めの悪い小さな女王は歯噛みしながら、「じゃあひとつだけ、どうしても!」と食い下がった。


「クロスボウも火花も……手品? それとも、魔法?」


 魔法を使う者――使うと審判された者は、例外なく火炙りである。


 もちろん、エルには当局に告げ口しようなどという頭はない。……ただ、もしかしたら自分にも夢のような力が使えやしないかと、チラッと思っただけ。


 三つめの質問を聞いた青年は微笑み、眼鏡の奥の目を、少し意地悪そうに細めた。


「おれが誰かわかりますか?」


 翠眼はパチパチと瞬いた。それを尋ねているのは、こっちのほうである。


「……ブレイクの、副隊長?」


 返ってきたのは無言の微笑。


 不正解、の意である。


 皆目見当がつかないと顔面で答えたエルに、青年は肩を落として微笑んだ。


「それなら答えられることはありません。契約を守るのが、おれに課せられた役目ですから」


 悲しそうにも眩しそうにも見える複雑な笑みは、口が回るクイーンが繰り出そうとしていた当てずっぽうの二答目を、喉の奥に仕舞わせた。


「つまり……あなたの真の姿を暴け、というミッション?」


「少々、荷が重いでしょうか?」


 眉尻を下げていかにも気づかわしく尋ねる。エルがどういう性格の持ち主か、よく承知しているようだった。「んんん……!」と猫を抱えて唸ったのもほんの二秒ほどで、結局翠眼は生意気な笑みで青年を見上げた。


「……いいえ。実はそういうの、ちょっとばかし自信があるんです」


 ギムナジウムの女王は自信家である。それに負けず嫌いだった。


「あたしが無理なら世界中のだれにもできないわ。当ててみせます。その代わり、正解した暁にはこの金ピカ超常現象について知ってること、洗いざらい吐いて頂きましょうか!」


 青年は片眉を上げ、「喜んで」と返した。


 心臓からパチパチと火花が湧く。歩く気のない猫を抱いて運搬して、ただでさえ暑苦しい胸がさらに熱くなる。


 長い夜が続いていた。息もできないほど深い闇が、ずっと目の前にあった。


 死ぬまでに絶対に一発食らわせようと心に決めているが、この明晰な頭脳をもってしても手段はいまだ検討中である。


 ――だがもしかしたら、これが。


 逸る気持ちを宥めようと胸元を撫でた手は、気づかぬうちに、シャツの下に隠した黄金の鍵を握りしめていた。


 迷路のように入り組んだ小道を抜け、何本目かに吊るされた梯子を登ると、そこは寄宿舎にほど近い廃屋の庭だった。空を見渡してみれば今夜のナハトムジークは南回りに巡回しているらしく、糸杉の木立の遠い向こうに不気味な光線が見えた。


「アン・マリー!」


 呼び鈴の音に扉を開けたドロテアは、エルの腕にある猫を見て飛び上がった。


「あああ、よかったよかった……! まったくお転婆娘だねえお前は!」


「ナハトムジークの真下でくつろいでた。大物だわこの子」


 タペストリー、青花の磁器、籠バスケット、ステンドグラスのランプ、天使が歌うオルゴール――ノワイユ州の文物が所狭しと置かれた小さな家。


 室内を見回した青年はしばらく考え込んでいたが、やがて眼鏡を外して「すみません。なんというか……思っていたのと違って、少々混乱を」と言って、鼻梁の付け根をグッと揉んだ。


「……動物、多くないですか?」


「そうですね、ちょっと多いかも」


 ボウルに猫用の餌を広げながら、エルもぐるりと首を巡らせた。足元に大型犬がすり寄る。


「猫のアン・マリーでしょ。セントバーナードのアン・マリー、シェパードのアン・マリー。止まり木にいるのはオウムのアン・マリーで、たまにとんでもない声を出すのがマーモットのアン・マリー。あそこらへんの珍獣はカピバラのアン・マリーとケヅメリクガメのアン・マリーで、あと足元のケージはスナネズミのアン・マリー一族」


「一族⁉」


「お庭のアリは、全部まとめてアン・マリーキングダムです」


「国まで……!」


 黒手袋が、目眩を堪えるように顔を覆った。どことなく恨めしそうな銀眼が、指の隙間からジロリと覗く。


「……あなたが命を張る必要、ありました?」


「もう、副隊長さんてば」


 餌をもらえる時だけは愛くるしく鳴くゲンキンな猫を撫でながら、エルは朗らかに笑った。


「どれだけたくさんでも、家族の替わりなんていないでしょ!」

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る