第16話 飛空艇ナハトムジーク(4)
頭上には飛空艇母艦。ハエのように飛び交う機銃掃射艇。傾いだ家々の向こうに覗く25マルトの壁。治安部隊の副隊長。家出中の猫。
スカートの砂埃を払って立ち上がる。目の高さにクロスボウを構えれば、すかさず黒手袋の指先で肩の位置を直された。右足を後ろにひいた斜めの姿勢にされて、思わず翠眼を細める。
そうだった。確かに彼女も、斜に構えた姿勢から矢を放っていた。
「ターゲットは? ……なるほど、承知しました」
青年はエルの視線と一瞬高さを合わせただけで、目標を把握したようだった。
「ストックはしっかり肩に当てて。浮いていると射出時にアザができます。安全装置は右手人差し指の先にあるツマミです。スライドし、照準を合わせてトリガーを引く。クロスボウの撃ち方は、ただそれだけ」
黄金の武器に頬をつけて自転車のカゴに目を向ければ、人間たちの都合をよそに、小さな獣は満足げな顔で
安全装置を先端方向へ押し込んで解除する。発光するド派手な武器の向こうで薄闇に沈んだ目標を狙うというハンディキャップだったが、狙いを定めた視界は不思議と、磨きたての窓のようによく見えた。
引き金にかけた人差し指に力を込める。
固い反発が底をついた瞬間、弓床から射出された眩しい黄金は闇を切り裂いた。
「いいコントロールです」
耳元で称賛の声が上がった。
猫が眠る自転車のタイヤをすり抜けた切っ先が貫いたのは、向かいの床屋。玄関脇に飾られた、色とりどりの風船を結えつけたバルーンスタンド。
固定台を破壊されて重力の枷を失った風船はヘリウムガスの浮力によって思い思いの方角へと急速に上昇し、――動きを感知した攻撃機の銃口が向いた。
宵闇の静寂を無遠慮に踏みつぶす機銃掃射の音に、うたたねしていた猫は飛び上がった。
「アン・マリー! おいで!」
顔馴染みの庇護者を見つけ、腕の中に一目散に飛び込んできたふかふかの温かな毛玉をエルは抱きしめた。
「もお~心配かけてこの子は! ごはんをダイエットフードに変えちゃうわよ!」
叱られたことを理解した猫は、心外そうにぶにゃあと鳴いた。
ひっしと抱きしめあういたいけな少女と猫を、しかし、いまだ上空から見下ろす眼があった。
無人攻撃機A‐12、通称スパロウ。前世紀の大戦での革命的な航空技術の進歩を引き継いで生み出された、箱庭を管理するための優秀な看守。
通常これは、二機一組で稼働する。
風を吸い込む駆動音に顔を上げたエルが目にしたのは、イチジクのような機械。動力部に直接プロペラと機銃を載せた小型攻撃機は、猫を抱えて中腰となった赤毛の少女にその銃口を向けていた。
円柱をぐるりと囲んだ六つの穴もそれぞれについた傷も、常人離れした視界はつぶさに識別した。
だが、凍り付いた双眸にできることは何もない。
「大丈夫」
後ろからかけられた声は、全く動じていなかった。
「あのノーコンより、おれの方が早いので」
青年はいつの間にか左腕のシャツをまくり、黒手袋を外していた。
真っ直ぐに伸ばされた白い腕が返されて、雨を受けるように手のひらが天を向く。首をわずかに傾けて、片目を閉じて狙いを定める。左腕から右目までの一直線が、ターゲットへの射線に変わった。
親指が、人差し指を強く掠める。
カチッ!
次元をまたいだどこかの空間で、火打石が打ち鳴らされる。
発生したエネルギーは虚空に消え、束の間の永遠を経て、この宵闇に現われた。
エルの目に映るそれは、指先から放たれた一筋の稲妻だった。あるいは火花だったかもしれない。
高密度に圧縮された熱は黄金に光りながら川面に投げられた石が跳ねるように上空へ駆け上り、ガトリングの銃口に飛び込んだ。
一拍置いて、機体の口腔内が明るくなる。行儀の悪い誰かが蹴飛ばしたように、ボン! と大きく体勢を崩す。
内部で爆発を起こした小型機は、装甲の隙間から煙を吐き出しながら家々の隙間に落下した。
墜落音はけたたましいものだった。機銃掃射の音にはこらえた住人たちもこれには耐えかねて、「何の音だ⁉」「地震か⁉」とあちこちの上層階で建付けの悪い窓が開かれた。
「送ります」
ぬかりなく軒下の影に隠れた青年は、何事もなかったかのように手袋を嵌めて振り向いた。
「付いてきてください。あれに見つからない道があるので」
端正な顔は
「え⁉ え⁉ ……え⁉」
煙を噴き上げる小型機と、銀髪を束ねた後ろ姿を交互に見る。
今のは、どう見ても超常現象だ。完膚なきオカルトである。
「あれ? クロスボウは? ……あれえ⁉ どこ行ったの⁉」
キョロキョロと見渡したが、たった今確かに猫を救い出したはずの黄金の武器は、忽然と消え失せていた。
あんな派手なもの見失うはずがないというのに、いったいどういうことなのか? 度重なるストレスで、自分の頭は壊れてしまったのか? 聞かなくてはならないことを山ほど抱えて右往左往するエルをよそに、サスペンダーをつけた背中はスタスタと遠ざかっていく。
「あの! い、今のは⁉」
問いかけを置き去りに、長い脚は大股で灯りのない路地を進んだ。質問に返答はしないという意思表示である。小動物とは言いがたい重量を抱え、必死に追った少女がたどり着いたのは、封じられた枯れ井戸だった。
「……」
こんな場所にまで街灯はない。状況を改めれば、ほぼゼロに等しい面識の男と
重たそうな蓋を軽々と退かした青年は、
「うえ⁉」
慌てて覗き込んだわずか3ユニス先、鼻が触れそうな至近距離に「足元に気を付けて」と端正な顔が現れる。
飛び退いたエルは尻もちをつきかけた。運搬中の家出娘から、丁重に運べというクレームが野太い鳴き声でつけられる。
「井戸は偽装です。先に言っておくと、入り口は狭いですよ」
手を差し出した彼はニッコリした。
細いチタンフレームの奥。酷薄そうに見せていた灰色の双眸は、間近で覗き込めばよく隠せていたと思うほど、気さくな温もりに満ちていた。
「でも地下の『
小麦色の小さな手が、黒手袋の左手を取ろうか逡巡したのは正味のところ、二秒くらい。
……こんな紹介をされて枯れ井戸に飛び込まずにいられる子どもなど、存在するだろうか?
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