第9話 ともし火は闇の前(2)
「王国という呼称も不正確だ。トゥランとは、いくつもの領邦が集まった広大な土地を指す。西はザグレタ山脈、南はダリヤ海、東はキーロン渓谷、北は最果てのトリカ……レムリア大陸中央部を占める広大な領土が、彼らのものだ。トゥランには全てがあった。空にベールがかかる凍てついた海も、果実の絶えることない密林も、砂漠も草原も高山も、何もかも。恵みの地で満たされた人々は、争いを好まなかった。二千年前からこの方、どの歴史書を紐解こうが、トゥラン人が他国に侵攻したという記述はない。ザグレタの稜線から先は、彼らの興味の
教鞭が、肉食獣の肩から心臓にかけての山脈をなぞった。
「パトレア市が助けを求めたのはトゥランにだったし、市民を虐殺したのも拡張弾頭を使ったのも、ベルチェスター共和国軍。自分たちがしたことを鏡合わせのようにして相手の所業として記すのは、古今東西、恥知らずどもがやり尽くしてきた古臭い手だ。友人からの救援に応えた花の国イラスメイは死の雨を降らされ、大地に爆弾を埋められて、人の住めない土地となった」
この教師が行う秘密の授業は、黒板に文字を書くこともなく、ノートを取ることもない。まるで文字がなかったころの人々がそうしたように、語られることに耳を傾けて、忘れないでいるだけだ。
グンターは絵葉書ほどの大きさをした一枚の木炭画を掲げた。
それは幾重にも段を成す、深い山の絵だった。葉を茂らせた広葉樹の隙間にはあちこちに泉が覗き、森と森を断つようにして大きな川が流れる。長い石橋が架けられた川の上流には岩に分たれて流れ落ちるいくつもの白糸があり、さらに遡ればそれらの源となる一際大きな湖に辿り着く。澄んだ湖の奥、唐突に
信じがたいほど巨大な滝は、高所から森を見渡している画家の視線のさらにさらに上、雲上とも見紛う高さの上空を起点としていた。
「トゥラン三大
決して上手いとは言えない白と黒だけの木炭画を、生徒たちは食い入るように見つめた。
「ザグレタ山脈は険しく、人が越えることは容易ではなかった。谷間の街道セラフシャンからだけは、西側の世界からトゥランに足を踏み入れることが許された。このトゥランの入り口こそが花の国、偉大なるナルガルの
グンターが
――山の向こうはどうも豪雨らしいぞと、同行者と話した。相手の返事が聞こえにくいほど激しい水音が、斜面を登るにつれて近づいてきていたから。ザックにカバーをかけなくてはと考え始めたころ、霧を抜けた。天が落ちてきたと思うような轟音が耳を支配した。
わたしを迎えたのは、この世の果てだった。もちろんセラフシャンを越えればナルガルが現れるということは、頭では理解していた。だが目の前にあるそれは、水平線の先の先、宇宙に向けて海が溢れて止まぬという、暗黒時代の人々が信じたこの星の
遥かなる草笛の音に顔を上げると、何羽もの大鷲が空を飛んでいた。ノルマス港を出て二年と八カ月。今に至るまでおとぎ話だとばかり思っていたあの神なる鳥は、客人を歓迎するように上空を三度ほど旋回すると、巻雲の果てへと消えた。
トゥランの空はこれまで目にした何物よりも青い、突き抜けた空だった。――
「……楽園だ」
小さな本を閉じたグンターは、遠い眼差しで呟いた。「まるで人類が神から追われたという聖なる地だ」
「少年のぼくは、必ずこの目で見てやると心に誓ったよ。ま、現実はきみたちが知ってのとおり。ライブリーの往訪からわずか七年後、イラスメイは死の雨に汚され、人も花もハチドリも死に絶えた。ぼくに至っちゃ世界を股に掛けるどころか、箱庭から出られないしがない教師になったわけだけど……」
ハシバミ色の目が、生徒たちを映した。
「きみたちの瞳は、トゥランの大地だ」
典型的ヴァルト人らしい茶色の虹彩の中で、炎が瞬く。
「花が咲き乱れ獣が駆け、優しい人々が水とともに暮らした大地の色だ。彼らの営みを三千年間映し出してきた、果てしない空の色だ。どれほど世界が踏みにじろうと、きみたちは今日まで負けなかった。昨日も負けなかった。明日もその先も、ずっと負けないでくれ。……それでいつかぼくに、息を吹き返したナルガルの滝を見せてほしい」
ヴァルトの青年の瞳とトゥランの子どもたちの瞳は、まっすぐにお互いを映した。
「アハハ! なーんて、柄じゃないな!」
首の後ろを掻くグンターの照れ笑いには少しだけ涙が滲んでいて、生徒たちも同じ温度の眼差しで笑った。
彼らは七歳からクープで生かされてきた。それまでは親と一緒に、ヴァルト州のどこかのブロックに住まわされていた。トゥランの大地はおろかザグレタの山影を
だが、自分たちの故郷はそこにあるのだと信じた。
目を潤ませていた子どもたちが、猛禽の気配を得たウサギのようにピンと背を伸ばしたのはその時。耳がそばだてられ、次々と顔が扉の方を向く。
代表してエルが教壇に向けて高々と掲げたのは、『粗悪なファンタジー小説』……ベルチェスター連邦共和国史学教本第十五版。
いつもは口で告げている知らせだったが、グンターは即座に心得た。絵を資料の隙間に差し込んで隠し、教本を取り換える。
「さてみんな、切り替えていこう」
果たして、セカセカと気忙しい革靴が足早に戻ってきた。
「議員は電話などしていない、わたしの勘違いだと⁉ クソッ、どういうことだ!」
真っ赤になったフェルディナントは、ポマードで撫でつけた前髪を落ち着きなく何度も撫でた。せっかく息せき切って学長室に走り、受話器を両手で持って丁重にかけ直したというのに、電話口の相手にはただただ迷惑そうにされたのだ。恥をかかされたうっぷんを晴らすように、「いいか貴様ら!」と短い指を立てる。
「とにかく立場を弁えないと、全員退学にするぞ! わかったな⁉」
生徒たちもグンターも、いたく神妙な面持ちで目を伏せた。
「……というわけで、トゥラン同君連合を打ち倒した共和国は晴れて連邦共和国となり、人類の進歩と調和に向けて舵を切った」
歴史教師は、史学教本を閉じながら連邦式の礼をした。「連邦に自由と栄光あれ」
同じポーズを取った生徒たちも凛々しい顔で繰り返した。「連邦に自由と栄光あれ!」
フェルディナントは頷いた。とても従順な様子である。職分をはき違えた若造にも反抗的なクソガキどもにも、自分の指導がようやく通じたらしい。留飲を下げた学長は満足そうに、頼りないヒゲを「うむ」と撫でた。
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