第2章

第8話 ともし火は闇の前(1)

「エル・スミスは最強にプリティー、エル・スミスは最強にプリティー、エル・スミスは最強にプリティー」


 洗面台に手をついて不可解な呪文を唱えるのは、ふわふわの淡い赤毛ジンジャーブロンド。南の格子窓から差し込む朝の光が、安価な綿素材のワンピース型の肌着に歪な階段状の模様を描く。


 目を醒ましたエルは簡易ベッドで眠るシャロンを起こさないよう静かにベッドから抜け出して、備え付けの手洗い場へ向かった。


 大きな鏡の前で深呼吸し、玉ねぎの皮のように何重にも巻かれた包帯を剥がしていく。目はまだ、固くつむったまま。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫。どんな顔になったって、あたしは銀河一強くて可愛い。なぜならここにいるのはレムリア大陸の至宝、クライノートのスーパースター。そう、これは確固たる事実にして永遠の真理。ドンビーシリアス! ユアザキング!」


 どうしようもないマインドコントロールで奮い立たせ、勇気を振り絞って正方形の鏡を覗き込んだスーパースターは果たして、――思いっきり、眉を寄せた。


「んんん? おかしいわね。……あれえ? もしかして、まだ夢の中?」


「どしたの~」


 眠いまぶたをこすりながら起き出したシャロンは、鏡にかぶりついている親友を認めた。


 夏の終わりの日差しを受けて、眩しそうに顔をしかめる。ガンをくれているとしか思えない眼差しでしばらくエルを見つめた森色の瞳は、ややあってまじまじと開かれた。


「……くっ!」


 身体がくの字に折られる。


「あはははは! あははははは! なっ、なっ、……治ってる!」


 大笑とともに指さされた顔面は、なんというかだいぶ、元通りであった。


「やっぱりそうよね? どう見ても治ってるわよね?」


 エルが指先を当てているところは昨夜、ズルリと剥けて肉が露出した頬だった。今朝は真新しい小麦色の表皮が形成されて、柔らかな稜線には早くも産毛が生えかけている。


 斜めに走った深い裂傷は淡い桃色の線だけを残し、潰されたはずの左目もパッチリと開いて、現実を呑み込めない一揃いのペリドットはしきりに激しくまばたきをした。


「……二カ月ぶりのスター覚醒?」


「ご冗談を。二十二時就寝六時起床のキッカリ八時間睡眠。さっすが人間ハト時計、転入したその日から揺らがぬ睡眠力」


「……」


 軽口にツッコミを入れる余裕はない。どう考えても、明らかな超常現象である。


「いやあ、めでたいめでたい! この顔が損なわれるなんて、レーベンスタット・クープの損失だもん!」


 ことの大きさを理解しているのかいないのかシャロンはマイペースにわしゃわしゃと赤毛を掻き回し、エルはスツールに行儀悪く片膝座りして頭を抱えた。


 もちろん、傷がなくなったことは喜ばしい。飛び上がりたいほど嬉しい。ベルチェスター本国の国家公務員となり最高の結婚相手をゲットするというを果たすにあたって、顔面戦闘力は鍛えておくに越したことはない。


 問題は、常識外の回復速度であった。


「これ、悪魔だと思われたりしないかしら……」


 ベルチェスターでは、まことしやかに恐れられる迷信がある。


 いわく、東の山脈の向こうに悪魔がいる。それは空を自在に飛び、疫病を操り、人間から猛獣に姿を変えることのできる、呪われた食人鬼である。悪魔はレムリア大陸を渡り、狭間のオリヴァー海峡を越えて、ベルチェスターの子どもを喰らいにやってくる。


 時は新世紀。大陸横断鉄道が走り、飛空艇が国々を行き来し、遺伝子系統図が過ぎ去った過去を明らかにする時代になっても、何百年も信じられてきた伝承は人々の意識から剥がれなかった。


 時折、壁の向こうに黒い煙が上がる日がある。


 外を知る大人たちは煙の方角を確かめると、暗い眼差しで呟いた。「またベルチェスターが悪魔を燃やしてる」


 箱庭の外に広がるのは、共和国併合領の中でも豊かなヴァルト州。そこでは入植した一等国民とヴァルト人が手を取り合い、正義と自由の国ベルチェスター連邦共和国として清く正しく平和に暮らしているはずなのだが、人を燃やしているという黒煙は、思い出したように西南の空に上がるのだった。


「よし、隠そう」


 あっさり決断を下したシャロンの手によって、クイーンは再びぐるぐる巻きの玉ねぎへと逆戻りした。


 ギムナジウムの学舎は寄宿舎の東、白い小花咲くリンデ林の小道を抜けた先にある。


 一限目の歴史学。教室に入ってきたグンターは最前列に準備万端で腰掛けている包帯人間にぎょっと目を見開いたが、すぐに痛ましそうに眉を下げた。


「まだ休んでいていいんだよ、エル。無理はよくない」


「いえ大丈……ゴホンゴホンッ! ふぁ、ふぁふぁっふふぁ~」


 昨日の今日で流暢に喋れたら不審なので、しばらくモガモガ語で過ごす必要があった。猿芝居を真に受けて「可哀想に……」と涙ぐむ先生にはとても申し訳なく思う。


 教室に並ぶのは、毛糸玉のように色とりどりの小さな頭たち。


 東の山脈向こうから連れてこられたトゥランの子らは、人間離れした色合いの毛髪、浅黒い肌、それから吸い込まれそうに鮮やかな翠の瞳を外見的特徴としていた。頭蓋骨は大陸西方の人々と比べれば奥行きのある長頭型で、彫りの深い物憂ものうい眼差しに細い鼻梁と顎は、神経質な妖精のようだと評された。


 比較的にしっかりとした骨格と暗髪ブリュネットの多いヴァルト人は、威厳のあるフクロウにたとえられる。年若い歴史教師グンター・フリーデルもまた、ヴァルト人らしい長身と優しい茶褐色の瞳を持つ青年だった。


「連邦共和国史、百二ページを開いて」


 いつもとは違う指示に、生徒たちはおやと片眉を上げた。だが皆心得たもので、そつなく教科書を開く。


「前回までで議会政治の発足、王政の打倒、共和制への移行を学んだね。今日は第一次東征戦役の続きから」


 読みやすい文字がスラスラと黒板にトピックスを記し、年号を書き入れた。


「1825年、ザグレタ山脈西エラド平原にて、ベルチェスター共和国軍とトゥラン王国の戦端が開かれた。トゥランの侵攻を恐れたパトレア市が共和国に助けを求めたからだ」


 おなじみの半球図が貼り付けられる。前脚を上げた大型肉食獣のような大陸がレムリアで、その頭上に位置する細長い島国がベルチェスター本国である。


 グンターは肉食獣の脇腹あたりに赤い磁石を置いた。ザグレタ山脈の西、エラド平原に接する町があった場所である。


「パトレア市がベルチェスターにくだったことを責め、トゥラン軍は共和国軍が到着する前に虐殺を行った。犠牲者は市の人口の三分の一にのぼったと言われている。この時、トゥランが使用した弾丸の名称を覚えているかい?」


「拡張破裂弾頭」すかさずキリルが答える。


「その通り。残虐極まることで、国際協定違反と定められた兵器だ。市民を人質に取られた共和国軍の士気は高く、その年の雨期が終わるころ、トゥラン西方軍の牙城イラスメイは落とされた」


 生徒たちの耳には、カツカツカツと忙しない革靴が近づきつつあるのが聞こえていた。ほどなくしてノックもなしに扉が開き、ひとりの男が入ってきた。


「おはようございます、学長先生!」


 元気のいい声が揃う。上等なウールのスーツを身に着けた小柄な中年男は、チョビ髭を整えながら「うむ」と頷いた。


 フェルディナント・ベーメンブルグ。クライノート・ギムナジウムの学長である彼は、ヴァルト帝国時代に遡れば下級貴族にも連なる血筋の持ち主だったが、青年時代にベルチェスターに留学して以来、筋金入りの本国贔屓であった。


「昨日、何やら騒ぎがあったようだが……」


 もったいぶってゆっくりと教室内を見渡す。フェルディナントは包帯頭に目を留めると、「エル・スミス! また貴様だな?」とヘーゼルアイで睨みつけた。


 エルは心外ですという顔をしてみせたが、あいにく片目しか外に出ていないので伝わらない。


「総督府の高等文官に無礼を働いたそうだな。貴様は身の程というものを知らんのか?」


「お言葉ですが学長。エルはスリだと誤解されたタシュを救ったのです」


 グンターは教壇から反論した。


「文官の財布は自家用車から発見されました。にも関わらず、タシュの腕を斬り落とそうとしたのです。非はどちらにあるか、見ていた者は皆知っています」


「きみに聞いてはいない、ミスタ・フリーデル。弁えたまえ」


 居丈高に撥ねつけられてグンターは口を噤んだが、ハシバミ色の瞳は憤りを消さないままフェルディナントを睨んだ。


 若年の歴史教師など意に介さず、「よく心得ろ、エル・スミス」と短い指が立てられる。


「我々ヴァルト人と貴様らトゥラン人は、共和国の加護があってこそ安楽に暮らしていけるのだ。壁の外の三等国民の暮らしがいかに惨めか、貴様らは知らんのだ。虫のように這いつくばって生きる親のようになりたくなければ、序列を守り身の程を弁え、共和国に忠誠を誓え。たとえ貴様らには白に見えようと、ベルチェスターが黒といえば黒なのだ。これしきの道理も理解できないというのなら、成人試験前に退学にしてやるぞ」


 子どもたちの眼差しに、反抗的な怒りが滲む。宗主国の中年男のしょうもないメンツを守るためには仲間の腕くらい差し出して然るべきと言われたのだから、よくこらえている方である。


(困ったわね~)


 口が回りさえすれば丸く収めることもできるが、この状態では難しい。顔を見合わせた首席と次席の少女たちは、ひょいっと肩を竦めた。完全に他人事である。


「なっなんだその態度は! バカにしているのか⁉」


 学長と小さな女王の相性は悪かった。


 フェルディナントからすれば、クライノート・ギムナジウムはどいつもこいつも節穴揃いというのが所見である。頂点は名実ともに自分であるはずなのに、どういうわけか教師も生徒もみなしごの赤毛頭をちやほやし、いつだって熱い視線を送っているのだから。万年首席という成績も腹立たしいところであった。この生意気なトゥラン娘は成績最優秀を示す金の星ピンを入学早々に与えられ、忌々しいことに年々胸元に増やしていた。自分は祖国でも留学先でも落ちこぼれとして大変苦労したというのに、神は不公平である。


「まったく貴様はいつもいつもふざけおって! 意図を説明しろ、エル・スミス!」


「い、意図なんて……ゴホッ! ゴホッ!」


 無理に喋らされた少女が苦しげに咳き込む。


「学長!」


 教壇から駆け下りたグンターは、怒りを露わにエルを背に庇った。本当は昨日こそこうしてやりたかったという悔しさが、温和な青年に拳を握らせる。


「あなたは教育者として、怪我をした子どもを思いやることもできないのですか!」


「説明ならおれがします」


 立ち上がったのはキリルだった。


「つまりそこにいる身の程知らずの、思い上がった、調子こきのバカ女は、白が黒になることもその逆もありえないって言ってるんです。そしてそれはシンプルな事実だ。発言者によって左右される真理ヴァルハイトなんてありえない。仮にあったとしてなんの価値もないゴミだ。違いますか?」


 エルの一学年上の首席であるこの少年のことも、フェルディナントは苦手だった。ベルチェスターの私学生プレップスクール時代、我が物顔で構内を闊歩してはすれ違うたびに肩パンしてきた帝王ジョックを思い出す。


 小さな手がすがるように、包帯人間のブラウスを掴んだ。「エルが退学なんてやだよう……」と、低学年ながら優秀さゆえにアルファクラスに参加するメルサが涙ぐむ。そのほかの緑の双眸もみな、いずれかの炎を湛えていた。


 憤り、軽蔑、涙。


 箱庭のなかで煮詰められてきた激情が、午前中の教室の中で渦を巻く。


「う……」


 開けてはいけない鍋の蓋を不用意に開けてしまったフェルディナントの足が一歩、後ろに下がった。


「学長。お電話が」


 教室の外から声をかけたのは、アガタ・アルトマイアーだった。「クープ評議会のローレンス議員から、至急かけ直すようにと」


「何⁉ は、早く言わないか!」


 弾丸のように走っていく小さな背は、逃げ出す理由ができて助かったと全力で語っていた。


 アガタは無表情の横顔を向けたまま、生徒たちに小さくウインクをしてから扉を閉めた。女子寮の寮監であり公用語教師でもある彼女は、この時間は隣の教室で初等ベルチェスタンを教えているはずである。


「エル。保健室に連れて行こうか?」


 グンターからの気遣わしげな問いに、エルは首を振った。血相を変えて怒ってもらったが、変な喋り方のせいでせただけである。気恥ずかしくて顔が見れない。


「わかった。では、授業を始めようか」


 笑みを返した歴史教師は、積み重ねた資料の下から一冊の本を取り出した。


はそのへんにけといて。五十八ページを」


 表紙をめくる前にページ数を告げたのは、彼の頭にはこの本の内容がつまびらかに収められているからである。


「まず、トゥランはパトレアに侵攻していない」


 年若き教師は、五分前におのれが教えたことをあっさり覆した。

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