第7話 契約と審判の車輪(4)
片道一時間の道をグンターは歯を食いしばって汗だくで駆け、二十分余りでギムナジウムにたどり着いた。力尽きて崩れ落ちた教師の肩からずるりと
「エル……! ごめん! ぼくのせいでごめん!」
ギムナジウム中が詰めかけたせいで、人口過密にも程がある保健室のベッドサイド。自分も
「泣、かないで、タシュ」
顔中が腫れてうまく喋れない。鼻が潰れたせいかひっきりなしに喉の奥へ血が流れ込んでくる。
少年の頭を上げさせようと手をやったが、頑なに張り詰めた身体は安易な許しなど受けられないとばかりに、肩を振って拒絶した。
「下手を打ったのはぼくだ! ぼくが同じ目に遭うべきだった! 女の子の大事な顔をこんな、こんな、……ひどすぎる!」
声が震え、大粒の涙がボタボタと床に落ちた。「せっかくのバーステーをぼくは、最悪の日にしちまった!」
「……」
華奢な右手が空をさまようと、心得たシャロンがペンとノートを寄越してくれた。
顔面以外は至って元気で、字を書くには何の支障もない。エルは一文をサラサラと記すごとにノートを傾けて、タシュへ見せた。
『殴られる痛みに、女も男もない』
濡れた若草色は、呆然と文字を追った。
『人前で裸にさせられるなんて間違ってる。やってもない罪で腕を切り落とされるなんて間違ってる。そもそもコソ泥の言いがかりをつけられるのも、弁解を聞いてもらえないのも全部、全部、間違ってる。この壁の中は、間違ってることを間違ってるって言ったら生きていけない、クソッタレの場所』
癖のある文字の後ろに、大きくバツをつけた。
『でも今日はひとつ、悪口を言い返してやったわ』
バツを上から掻き消すように、大きな丸を描く。円周にくるくると螺旋を巻き付け、口を開けて笑う顔をちょんちょんと描き入れれば、明るく笑う大輪の花になった。『悪くない気分』と喋る吹き出しをつけると、包帯の隙間から唯一覗く右目は、器用にニッコリ微笑んだ。
『ほんとは服を脱がされる前に助けたかったけど、せめて腕を守れてよかった。だからあなたが笑ってくれたら、いい誕生日になる。最高とは言えないけど、悪くない誕生日に』
「……勘弁してくれよ……」
頬に幾筋も涙をつけた少年は、無茶なお願いを読んで途方に暮れた。
だが鼻から大きく息を吸うと、憔悴した気力を振り絞るようにして、震える口元で弧を描くのを試みた。それは成功したとは言い難い表情だったが、確かに笑おうとすれば、この張り裂けそうな罪悪感にも前の見えない圧倒的な暗闇にも、どうにか飲み込む
声のない言葉を求めて、生徒から生徒にノートが渡されていく。天井のフィラメント電球はどこもかしこも故障したままの校舎内、古めかしいガスランタンの頼りない灯りだけを頼りに、読みやすいとは言えない文字を一心に追う。
書きつけられた言葉を読んだ緑の瞳はいずれも長い瞬きをして、唇を噛み締めながら、ぐるぐる巻きの包帯人間を静かに見つめた。
「……数えろ、
嗚咽をこらえた声で、子どもたちの誰かがかぼそい旋律を口ずさむ。
「数えろ、
また別の誰かが歌を引き継ぐ。
それは教師たちに聞かれたら鞭打たれるはずの故郷の言語だったが、いま身体の奥でかき鳴らされるメロディーをこらえるくらいなら、ミミズ腫れが数本増えることを全員で選んだ。細く深く息を吸う無数の呼吸が立ち、
もっと掘れ深く掘れ 朝が来る前に 警棒を持つ看守が来る前に
鞭打ちなんか恐れない 方舟だって先に行かせてしまえ
やつらは知らない 両手いっぱいの種がまだ 残ってることを
奪える者などひとりもいない
ぼくらの魂が降らすこの雨を
ギムナジウムの中だけで知られた事実として、トゥランの子どもたちには笑みや涙をこぼすように自然と詩を生み出し、美しい旋律をつけて歌にすることができるという素晴らしい才があった。たとえ落第スレスレの劣等生であっても例外なく。
残念ながらただひとり、機嫌よさそうに耳を傾けているこの包帯人間だけは、絶望的にしょうもない詩才の持ち主であった。
「チッ。……だから嫌いなんだよ」
カーテンを背にしたキリルは、忌々しげに舌打ちした。
人目を惹く容姿、高い能力、誰に対しても堂々とした態度。それらの美徳はこのクイーンの要件ではなく、ギムナジウムの支配者たる所以ではない。
つまるところ、ただの女の子のくせにどんな相手の前にも割り込んでいく無謀さが理由だった。たとえそのせいで残酷な目に遭わされても、『世界など恐るるに足らず』と懲りずに主張して憚らない尊大さが答えだった。
無謀で尊大なその魂こそが、怯えた箱庭に熱い血潮を巡らせて、小鳥どもに小さな女王を戴かせたのだ。
「おらおらガキども、まさか朝までたむろしてるおつもりかい?」
クライノート・ギムナジウムの白衣の女神が、ぶっきらぼうに口を挟む。
「子どもたちの
オフィーリア・ローゼン……名前だけは麗しの姫君のような保健医は巻き煙草を片手に、長く紫煙を吐き出した。禁じられたトゥランの歌唱が校舎の一階に響き渡っていたことは、今晩だけ聞かなかったことにする。蹴散らされた子どもたちは名残惜しそうな眼差しを置きながら、それぞれの寮へ帰っていった。
「ねえ、なんでそんなに命知らずなの?」
ひとりだけ看病を許されたシャロンが、枕元の水差しを取り替えながら尋ねる。遠い南の空に、ニッパーで切ったあと飛んで行った爪のような細い月が昇っていた。
「ふぁふぁんふぁい」
「わかんないかあ」
モガモガ語を即時理解して気の抜けた笑いを漏らすルームメイトに、エルはポケットに入れたままのガラス瓶を手渡した。
「何これ?」
「ふぁ」
「あ~喋んなくていい。もしかして、さっきのブレイク隊員?」
「ん」
シャロンは勘が鋭い。いつも眠たそうにしているように見えてよく見れば、長いまつげの奥の深緑色の瞳でじっと周囲を観察している。
ろくにノートも取らない上に試験前もたっぷり九時間睡眠だというのに成績は華々しき次席で、教科書にかじりついて首席を維持しているエルとしては、彼女に本気を出されたら負ける自信でいっぱいだ。
青い蓋をしたそれは、どこにでもある大量生産品の小瓶だった。透明な容器のなか、淡橙色のクリームがたっぷりと詰まっているのが外から見える。
キュッと反時計回りに回せば、蓋と容器の隙間から澄み切った香りが溢れた。薬草が生い茂る湖畔の風を詰めたような香りは、殺風景な寄宿舎の保健室を夏の夜風が吹き込むうららかな避暑地に変えた。
鼻が潰れたエルには関係のない話である。
「ひょっとしてこれ……
シャロンの瞳が興味深そうに瞬いた。「塗ってみていい?」
「ふえ~?」
「本国のエリートがこっそりくれたってことは、なーんかすごい効能あったりするかもよ」
「んん~?」
二秒だけ迷い、エルはあっさり頷いた。たとえ少々かぶれて顔中がピンクの水玉模様になろうが、ここに至れば些事である。
「エル。バタバタしてて言ってなかった」
包帯を外した左顔面に長い指先でクリームをそっと塗りながら、シャロンは囁いた。
ランタンを照り返す双眸は、月光が差すエメラルドの森のよう。
「ハッピーバースデー。バカみたいに命知らずのあんたを見てると、心臓がいくつあっても足りないよ。けど……あたしもバカだから、それも気に入ってるんだ。長生きしてよ、親友」
掛けられた言葉をゆっくりと咀嚼して、エルは瞳を潤ませた。
モガモガ語では到底、お返しの気持ちを伝えることなどできない。キスのひとつもしたいくらいだったが、あいにく首から上はクリーム塗れとなっている。とりあえずウインクをすると、悪戯っぽく片目を閉じた綺麗な顔が返ってきた。
薬草畑の香りをしたクリームは、塗ったそばから耐え難い痛みを連れ去って、あとにはしんしんと雪が降るような快い冷たさだけを残した。
痛みのあまりずっと強張っていた身体からはいつの間にか力が抜け、シャロンが包帯を巻き直した時には、命知らずの小さな女王は、平和で優しい眠りの船に守られていた。
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