第6話 契約と審判の車輪(3)

「……あんまりです!」


 ここに至って、大人たちはとうとう駆けだした。


「高官殿、これは非道です! 暴虐です! 統治法にも反しています! エルは、あなたの財布を見つけたではありませんか!」


 震える声で異を唱えたのは、生徒たちを工場から引率してきたギムナジウムの年若き教師だった。寮生たちもエルを囲み、嗚咽をこらえながら作業服の裾を握りしめる。


「なあ、どうしてこんなことができる? この子らがいったい何をしたっていうんだ?」


 ソーセージ屋の主人は少女を背に庇って大粒の涙を流し、刺繍の得意な老婆は「卑劣な若造が! 子どもの前に年寄りから斬ってみせな!」と凄んだ。


「黙れ属州のサルどもが! 総督府の執行妨害は即日センター行きということも忘れたか!」


 血が上ったままの男は、考えなしに集まってきた愚民を睨みつけた。


「貴様らの家族も友人もまとめて、地獄に送ってやるぞ!」


 再教育センター。一度入れば二度と出ては来られない、箱庭の中の牢獄。


 鳥籠に押し込められてなお誇り高く生きてきた人々は、そこがどんな場所であれ、自分ひとりなら降りていく覚悟があった。……だが愛する人を天秤に乗せられるのは、また別の話であった。


 クイーンの判断は早かった。


「下がって」


 横顔を向けたままピシャリと下された命に、渡すものかとしがみついていたたくさんの腕は、弾かれたように離れた。


 臣下のごとく従った自分の手を、キリルは驚いて見つめた。


 ――敵に打ち勝つすべは、ただひとつ。


 女性にしては大きな手は、エルの猫っ毛を気持ちよさそうに何度も撫でた。語る言葉はいつも歌のように美しく、かんばせは湖畔のような笑みを湛えて揺らがなかった。


 ――愛だけが道を照らす。どうか忘れないで、わたしのお姫さま。


(ママ。あたしこれでも、約束を守ろうとしてきたわ。嘘じゃない。……でも白状すると、今もわからないの)


 地獄にだって、愛はある。


 だがいくら地面を探しても、肝心の照らすべき道がどこにも見当たらないのだ。


 皆に距離を取らせたエルはかろうじて開く片目で男を見上げながら、――背中に隠した右手で、グッとこぶしを握った。


 近づいてくるテールコートの紳士の左頬に、狙いを定める。


 勝算なんてない。あるわけがない。そもそも人の殴り方なんて知らない。自信家だという自覚はあるが、へなちょこパンチで悪を倒せると夢想するハッピーな頭だと思われたら心外だ。


 要はただの、カッティングボードに乗せられたザリガニの最期の足掻あがき。


(でも! 一発くらいは、思いっきりやり返してみせる!)


 サーベルが夕暮れを反射してギラリと光る。腰を落としたエルが右手に力を込める。



 瞬間、皮膚に炎が触れた。

 シャツで隠された胸元に、まるで小さな陽光が出現したような熱。

 


 息を呑んで、一瞬胸元に目を落とした。「ぬおお⁉」と突っ込んでくる素っ頓狂な声に慌てて顔を上げたが、右手を突き出した紳士はなぜかそのままエルを通り過ぎ、石畳とキスをした。


 恰幅のいい身体がもんどり打つ。したたかに打ちつけられた頬がたわみ、衝撃で外れた金歯が飛んでいった。バウンドは二回。


 一連の流れは一から十まで何もかも、スローモーションのように展開された。


 エルは視力の良さには自信がある。たとえ片目が潰れていても、この場の誰よりよく見えていると断言できる。だからこの時も確かに一目で見て取れたのだ。白と黒の瀟洒なドレスシューズに蹴り上げられて宙を舞ったそれが、いったい何なのか。


(な、何アレ? ……何アレ⁉︎)


 だが識別と理解は、また別である。


 こんなものが煉瓦道に鎮座していたら誰だって気づく。あらぬところから突然、奇跡のように湧き出た伏兵――とはいえ神々しい比喩はあまりにもミスマッチで、エルは弧を描いて飛んでいく物品を、ただぽかんと見つめた。


 西日を反射してピカピカと眩しいそれは、黄金のバナナ。


 ……の、誰かが食べたあとの皮。


 怒りに燃える男の足を掬い、傲慢な顔に土をつけてみせたのは、かくなるものであった。

 


「何をしている!」


 唖然と口を開けた往来に、力強い叱責が響き渡る。一糸乱れぬいくつもの革靴が、通りの向こうから大股で接近した。


「クライノートの学徒は共和国の財産! 手荒に扱うなという通達を忘れたか!」


 夕陽を肩に滲ませた彼らは、黒い隊服をまとった一群。


 この黒尽くめの青年たちを知らない民はいない。そして、必ず傍らに控えるのことも。


 堂々と高官をなじったのは、たくましい体躯をした美しい青年だった。


 厳しい面持ちで睥睨した彼は、しかし、ヒイヒイ言いながら腰を抱える男を見て「……ん?」と瞬きをした。想定していた状況と、少々のズレがあったのだ。とはいえ見渡した結果、起きたことは危惧通りのものであり、結局はまなじりに険を宿した。


「……年端もゆかぬ女の子をいたぶるなど! 恥を知れ!」


 ベルチェスター人らしい桃色がかった白い肌と漆黒の軍服の対比が、沈みかけの世界に眩しく映えた。


「は、恥だと⁉ 犬の分際で偉そうに!」


「口を閉じろ外道」


 青年が革靴で地面を叩けば、鉄板を入れた靴底から硬質な音が鳴る。伏せライダウンの状態から即座に立ち上がった怪物が、獰猛な唸り声を上げた。


「ヒイッ!」


 ハウンド。それは全長およそ二マルトほどの、四足歩行する強靭な獣。


 頭蓋骨も手足も細長い姿は、歪なボルゾイとたとえるのが近い。長い毛並みに覆われた顔のなかで唯一見えるのは裂けたように大きな口で、長い舌の横には鋭い犬歯が覗く。人間の顔面などペロリと剥がせてしまえるであろう爪が、はやる食欲を抑えるように石畳を掻いた。


 ベルチェスターご自慢の不死の歩兵、汎用型猛獣兵器。


「な、何をしてるアレックス! さっさと出せ!」


 慌てて車に逃げ込んだ男は、裏返った声で副官に命じた。


「化け物が!」という捨て台詞と排気ガスの臭いのあとに残されたのは、点々と血が飛び散った地面、痛めつけられた少女、裸に剥かれた少年、悄然しょうぜんとした人々である。


(バナナ! バナナはどこ⁉︎)


 エルは片目で地面を探したが、確かに落ちていたはずの黄金の皮は、影ひとつなく消え失せていた。


「畜生! 酷いことをする!」


 青年は額にかかったダークブロンドをクシャリと掴み、気の毒そうに顔を歪めた。


 上等なブラックウールであつらえたマントジャケットとスラックス、黒革のロングブーツ。装飾を抑えたデザインでありながら、真紅の襟章と軍帽の金星が見事に映えた隊服は、連邦共和国の少年少女たちにとって憧れの的。


 ベルチェスター陸軍司令部所属治安維持部隊、通称ブレイク。


 士官学校卒のエリートから構成され、凶悪なアニマルウェポンを使役する術を身に着けたハンドラーたちは、その圧倒的な武力、本国上流階級の子息揃いという生まれをもってして、この箱庭クープにおいても総督府と評議会に並ぶ権力の頂点であった。


「ロス、てやれ」


「は」


 機敏な返事とともに、軍人らしく規律正しい足音が大股で近づいてくる。だんだんと暗くなりつつある視界に突如、大きな手が現れた。


 黒手袋を外した手指の肌は、支配者の色をした白磁。


「顔を上げなさい」


 正直、今すぐ意識を手放したいほど痛い。一ピトだろうと動きたくない。多大な努力を払ったエルがゆっくりと頭を上げると、──ガラスの奥の曇り空と目が合った。


 銀の髪に銀の目をした、大陸では珍しい色彩の青年だった。


 眼鏡の向こうでこちらを映す虹彩は、雨が降り出す前の重い空模様。額から頬にかけて傷跡の走る端正な顔貌かおは、元来線の細い文官が無理に武人ぶっているような、どこか不均衡な印象を与えた。


(似てる……)


 慕わしい面影に、エルは一瞬、痛みを忘れた。


「左の眼球が傷ついている。筋肉も断裂している可能性があるし、……鼻骨も無事ではない」


 血がつくのにも構わずグズグズの顔面を検分した灰色の双眸には、にわかに怒りが滲んだ。


「見下げ果てた蛮勇だ」


 火傷しそうに冷たい炎が、チリリと鼻先を掠めた。


「我々が通りかからなければ、総督府の木っ端役人に斬り捨てられていた。ブレイクは自殺志願者の尻ぬぐいをする組織ではない」


「ロス」


 金髪の青年は呆れたため息とともに制した。肩章の星は四つ、まさかの隊長である。


「その子は保健室で赤チンを塗れば済む怪我に見えるか? わたしはお前の嫌味にも皮肉にも慣れたが、状況を考えろ」


「申し訳ありません」


「さっさと病院に送ってやれ。そこの車を回していいぞ、隊長権限で許可する」


「不要です。20年版ノーフォークの燃料費は1リトロン430銀貨ターラー。ヴァルトの併合民ひとりあたり総生産を考えると、赤字です」


 エルの後ろから「クソ野郎」と小さく吐き捨てる声がした。キリルである。


「お前……その皮膚の下には青い血でも流れているのか? それとも機械油か何かが?」


「恐れながら隊長、無駄なことに費やす時間はありません。夜警の交代が迫っています」


「……はぁあ~まったく! この石頭」


 再び大きなため息を吐いた隊長は、ガシガシと頭を掻いた。


「申し訳ない、お嬢さん。これはわたしの名刺だ。困ったことが起きたら連絡してくれ。大した役には立たないが、訴訟の相談には乗れる。ああもちろん、きれいに治ることを願うばかりだ。女の子の顔だからな」


 エルは礼を言おうとしたが、気づけば顔面はすっかり動かなくなっていた。


 頭の奥から冷たい波が押し寄せてくる。ブレイクはハウンドを連れて遠ざかっていき、とうとう芯を失った小さな身体を教師が抱きとめた。


「エル、しっかりするんだ!」


 グンター・フリーデルは少女を背負うと、揺らさないよう全速力のすり足で走り出した。


「ごめんなあ。先生何もできなくて、ごめんなあ……!」


 年若い教師が、涙まじりに謝罪する。謝ることなんてないと返したいのに、まるで石でも貼り付けたかのように顎も唇も動かなくなってしまった。


 一歩ごとに脳天を抜ける激痛を無言でこらえながら、――顔を検分した時に銀髪の青年がそっと胸ポケットに滑り落としてきた小さなガラス瓶を、手の中で転がした。

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