第10話 ともし火は闇の前(3)

 一週間を経たころ。そろそろいいかとエルは包帯を外し――、「治ってるんだけど⁉」と、学び舎は再びおもちゃ箱をひっくり返したような大騒ぎとなった。


「ありえない! 鼻骨は骨折してて片目が潰れてた。何より顔面を一直線に十針も縫ったんだぞ! あの糸は、あの糸はどこに⁉」


 縫合処置まで施した記憶があるオフィーリアは、豊かなブリュネットを掻きむしった。「あんた本当にエルか? テセウスの船的なサムシングで、何者かと入れ替わってないか?」


「新陳代謝がよくって」


 そんなわけないのだが、事実はファンタジーよりも奇なりを押し通す。


「クソッ若さめ! あたしなんて二週間前の虫刺されもまだ残ってんのに!」


 ダン! とこぶしでデスクを叩いたオフィーリアを、「先生、それは年齢じゃなくて体質です。間違いないわ」とキラキラとしたペリドットが見上げた。


「だってこんなにお綺麗だもの! 保健室の薔薇、ポーカーとアルコールの化身。クライノートの美の至宝、オフィーリアお姉さま!」


「ああそのよく回る口、確かにエルのようだね」


 妙齢の保険医は、満更でもなさそうに片頬を上げた。


 驚異的な回復には、誰もが目を剥いた。だがこの上なく喜ばしいことだという事実には、疑念を挟む余地などなかった。


 つるりと復活した顔を目にしたタシュは、背後から膝でも入れられたようにガクリと崩れ落ち、「よかった、よかった」と涙声で何度も頷いた。


「エル、今日は本当にいい日だ。白状すると、きみの顔がどうにかなってしまったら……責任を取ろうと思ってた」


 潤んだ緑の瞳はおかしそうに笑っていた。「ぼくなんかがハイスぺイケメンだって申し出るのは、おこがましいけどさ」


 意図を理解したエルは、ふっくらとした頬を赤く染めた。


「……あ、ありがとう!」


 熱くなった肌を冷まそうと手を当ててはにかむ様は眩しいほど。


「でもあたし、目が一つになろうが鼻が三つに増えようが、自力で素敵な旦那さまをゲットする自信があるわ」


 プライドの高い少女は、すかさず照れ隠しの強がりを挟んだ。「だからお構いなく」とウインクまで追加されるに至り、手を止めて見守っていた生徒たちは肩を竦めて、機嫌よく授業の支度に取り掛かった。


 我らがクイーンの魂には、相も変わらず傷ひとつつかない。


「美しい日だ、便りが届いた」


 窓際でだれかが歌う。


「クラリネットもグロッケンも噛み合っている」


 また別の誰かが歌を継ぐ。万年筆で拍を取り、アルミのペンケースを鳴らし、普段使いするにはやかましいメジャーを伸び縮みさせて、楽器替わりの騒音が軽快に奏でられた。

 


 指揮者の髪には珊瑚の枝 鎖骨には真珠の粒

 給料はサンザシの飴でいい 底抜けに明るい歌だけが入り用だ

 時が来た 町中に響く鐘が鳴る

 帆船がまもなく港に着くぞ!



 お調子者の手によって、ヂリン! と警報機が鳴る。途端に大笑いが弾けた教室に、「新作も素晴らしいわ!」とエルは熱烈な拍手を贈った。


「フラれたね、タシュ」


「百も承知さ」


 シャロンに肩を叩かれて、涙混じりの少年は大きく笑った。一週間ぶりに、心から笑うことができた。


「ぼくらのクイーンのお眼鏡に適うのは、どんなやつなんだろうな」


 赤毛の少女は級友たちを眩しそうに見つめながら、胸ポケットの上から小さなガラス瓶をそっと撫でた。リップクリームほどの量しかない不思議な軟膏は、親友が惜しみなく塗りたくったためにすでに半分となってしまっている。


 自分は十四才の誕生日に、命知らずの代償を左の眼球で支払う運命だった。


 奇跡を起こしたものがあるとすれば、それはこの塗り薬に他ならない。


 ……奇跡と言えば、もうひとつ。


(忘れてたけどそういえば、妙なものが出現したような……?)


 不埒な第三国民の首を今にも落とさんとする男を転ばせた、黄金のバナナ。確かに見たとは言えるのだが、七日を経て自信もなくなってきた。


 サーベルを持った高官がずっこけた一幕は、皆が腹を抱えて飽き足らずに語る様子を見る限り、真実らしかった。だがその足元に金のバナナが現れたというのは、――きっと絶体絶命の脳が見せた、『かくあれかし』という幻だろう。


「エルは歌わないの?」


 膝に頭を乗せた下級生が甘えた声でねだった。「メルサ、エルの歌聴いてみたいなあ」


「そいつの詩は終わってるぞ。歌もド音痴に決まってる。間違いない」


「聴いたこともないのに断言しないでもらえます~?」


 自分に皆のような詩才がないのは確かだが、音痴だというのは濡れ衣だ。……たぶん。


「そうでなけりゃ、なんで目立ちたがりのお前が大人しく聴いてるんだ?」


 キリルの問いに、エルは困ったように笑って誤魔化した。

 



「では、六十三ページを開いて。トゥラン領邦第四十二代君主、クシャヤティヤの治世の続きから」


 相変わらずグンターの授業は指導要領を無視して行われた。教本は彼お手製、三百ページに及ぶトゥラン研究書である。


 授業をいくら逸脱しようが、史学試験は学期末に容赦なく行われた。基準点を下回れば追試、追試も通らなければ落第、落第が二回続くと、地獄と名高い職業訓練校行きとなる。ろくに教授されない共和国史を修めるために生徒たちは負荷の高い自習を余儀なくされたが、たとえ少しばかり苦労しようが不満はなかった。


 ベルチェスター連邦共和国が与えた史学教本が教えるところによると、トゥランとは残虐で野蛮な民族であった。大陸中に圧政を敷き、民の血肉をすすり、栄光の共和国軍の手によってやっと前世紀に滅ぼすことができた、過ぎ去りし悪。自分の先祖が犯したという悪事は目を覆いたくなるほどで、古代史から近代史までどこの章にもすかさず差し挟まれた。この世界が彼らに繰り返し言って聞かせる教えとは、つまるところこういうことだ。


 諸君らが家族から引き離されたのも、理不尽を呑み込んで生きていかねばならないのも、全てはトゥランのせい。


 その身に流れる罪をすすぐ手段はただひとつ。偉大なる連邦共和国に、魂を捧げることだけである。


 クライノートの小鳥たちからすればグンターの授業は青天の霹靂であり、同時に涙が出るような温かい時間だった。


 家族の元に帰れたら、一から百まで語ってあげよう。建国の神話、勇敢な氏族たちの戦い、慈愛深い王の壮大な治水事業、歌のように美しい言語、世界の真理を表そうとした幾何学紋様のことを。


 秘密の授業は検閲される手紙には書けず、ノートにメモを取ることもできない。だから彼らは瞬きすら惜しんで聞き入った。壁の外で待つ大事な人々のもとに、頭に詰めたたくさんのおみやげを持って帰るためならば、試験前の二徹を捧げることも惜しくはない。優秀者だけを集めたアルファクラスにおいては、さほどの負担でもなかった。


 耳を傾けていたエルが不意に手を挙げたのは、授業も半ばを過ぎたころ。


「先生。誰か来ます」


 秘密の授業において、見張り役は生徒の耳だった。トゥランの子どもたちの聴覚はなぜかやたらと性能がよく、廊下をやってくる足音などはずいぶん前から聞き取ることができるのだ。


「また学長か」


 グンターは片眉を上げながら教本を閉じた。


「いえ……。違うみたい」


 ジンジャーブロンドが訝しげに傾げられた。「やけにたくさん、こっちに来ます」


 ドアはいつものごとく、ノックもなしに開かれた。


 いつもと違うのは、我が物顔で教室を見渡す学長の後ろに、何人もの見知らぬ大人たちがいること。


 機敏な動作で室内に展開した黒い隊服の青年たち、そしてハウンドのあとから、身なりのよい人々がゆったりと入室する。一番後ろには公用語教師のアガタ・アルトマイアーが従っている。


「起立!」


 フェルディナントはいつになく意気揚々と号令をかけた。


「ヴァルト州総督、ハロルド・ウェリントン閣下のご来校である!」


 一糸乱れぬ動きで立ち上がった生徒たちは、右こぶしを左胸に当てたベルチェスター式の礼をした。


「うんうん。立派な学生さんたちですね」


 許可を得ずに貴人と目を合わせるのは無礼な振る舞いである。グンターも子どもたちも足元を見つめながら、信じがたい大物の登場に呆然と瞳を見開いた。


 ハロルド・ウェリントン。その名を知らない国民はいない。


 銀にも近い白髪に、澄んだ空色の瞳。上品で優しげなこの老紳士こそが、箱庭の政府たる評議会と総督府のトップにして、三十五万平方マルトに及ぶ広大なヴァルト州の主人である。


 併合民からすれば国王にも等しき天上の存在は、自らの髪と同じ色をした象牙の杖に両手を置き、杖など不要そうな姿勢のよい佇まいでゆったりと微笑んだ。

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