12月23日【宇宙よりの帰還】


 ゆみこさんは、夢を見ました。夢の中で、ゆみこさんは、まだ幼い子供でした。

 頬と鼻先が薔薇色に染まり、吐息は白くもやになっていましたので、きっと、冬なのでしょう。ゆみこさんは、小高い丘の上から、自分の住んでいる町を見下ろしています。

 この町で生まれたたいていの人は、この町で育ち、この町で死んでいきます。でも、時々は、この町から引っ越していく人も、いるのです。ゆみこさんの幼馴染も、つい先月、遠くへ引っ越してしまいました。


 その子のお家は商店を営んでいて、ゆみこさんはよく、そのお店へお菓子や文房具を買いに行きましたから、その子とはとても仲が良かったのです。

 どうして引っ越さなければならなかったのか、ゆみこさんは大人たちの説明を聞いたはずが、結局、よく理解できませんでした。

 どうして、幼馴染とそのお母さんだけが、引っ越して行ってしまったのでしょう。お店はいつも通りに開いているのに、仲良しのあの子がいないことが、ゆみこさんにはたまらなく寂しいのでした。


 それが、ゆみこさんの記憶に残っている中で最も古い、おわかれの思い出です。



 夢の中のゆみこさんは、両手を大きく広げて、丘を蹴りました。すると、ゆみこさんの体は宙に浮かび、北風に乗って、家々の屋根の上を滑空します。

 町の上空を飛びながら、ゆみこさんは、幼馴染のお家を探しました。夢というものは曖昧なもので、いつのまにか眼下の町は、見知らぬ大都会になっています。そしてゆみこさんも、幼い少女ではなく、妙齢の女性になっているのです。


 ああ、あった。ゆみこさんの、口紅を綺麗に塗った唇が、そう呟きました。大都会の一画に佇んでいる、古びたアパートの一室に、明かりが灯っています。あの部屋が、引っ越して行った幼馴染のお家です。


 幼馴染が引っ越してしまったあとも、ゆみこさんは、お手紙のやりとりを続けていました。そして幼馴染が、街で知り合った女性と交際し、結婚したことも、お手紙で知ったのでした。

 胸がぎゅっと苦しくなって、ゆみこさんは急カーブを切りました。風はゆみこさんに味方して、ゆみこさんは右手に広がる海の方へ、飛んで行きます。


 自分の見知らぬ土地で、自分の見知らぬ誰かと暮らす幼馴染を思うと、心が苦しくなるのです。ですが、それ以上に苦しいのは、自分が、大好きな幼馴染の幸福を、素直に喜ぶことが出来なかったという事実でした。

 顔を歪めたまま、ゆみこさんは海の上まで飛んで行きます。鉛色の雲から、雪がちらつき始めました。寒くて、心細くて、だけれど沖の方には雲の切れ目が見えて、そこから、光の柱が差し込んでいます。


(綺麗だわ)

 ゆみこさんは風を切って飛ぶのをやめて、空中にとどまり、光の柱を見つめました。今にも天上から、何か神聖なものが降りてきそうな気配です。ゆみこさんは、自分の胸に手を当てました。胸の苦しみは、仄かな残滓を残したまま、いつしか消えていました。


 つらく苦しい気持ちも、大切に面倒を見ていれば、いつしか折り合いがつくものなのです。ゆみこさんは、幼馴染への気持ちを大切な思い出にして、新しい愛を見付けました。そうして授かった子供たちは、ゆみこさんの、何よりの宝物になりました。

 そのころには、幼馴染もまた子供を持っており、そのことをお手紙で知ったゆみこさんは、今度こそ、幼馴染の幸福を喜ぶことができたのです。



 満足感に包まれながら、ゆみこさんはきびすを返して、再び建物の上を飛び始めます。

 この街のどこかに、子供のころに別れたっきり、一度もあっていない幼馴染が、住んでいます。今からひとっ飛び、飛んで行って、会いに行けないかしら。ゆみこさんがそう思った、その時です。びゅうと、突風が吹きました。


 突風は雪混じりで、針で刺したように冷たくて、そして乾燥していました。ゆみこさんは風に煽られて、ビルの上まで吹き上げられます。バランスを崩して、くるくる回転しながら、ゆみこさんは思わず目をつぶりました。



 ようやく風がおさまり、回転も止まりますと、ゆみこさんは恐るおそる目を開きます。雑居ビルの屋上から、古びたアパートが、遠くに見えます。ゆみこさんの口から「ああ」と、溜め息のような声が漏れました。


 橙色の光が、空を焼き、雲を焦がしています。何が起こったのか、ゆみこさんは知っています。そして、ゆみこさんには、どうすることも出来ないのです。

 あまりの残酷さに、ゆみこさんは、ぎゅっと目を瞑りました。目を瞑って、何も見ないようにして、次に目を開けたときには、ゆみこさんは、自分のお家の中にいたのです。



 キンコーン。玄関のチャイムが鳴りました。ゆみこさんは、震える手で、玄関のドアを開けました。


 そこに立っていたのは、あんなに会いたかった、会いたくてたまらなかった、幼馴染です。なんて疲れた顔をしているんでしょう。

 二人とも、たくさんの時を重ねましたから、相応に老け込んでいるのは当然のことなのです。しかし、それにしても目の前の幼馴染は、あんまり疲れた、疲れ切った姿をしているのでした。そして、独りぼっちで、そこに立っているのでした。


 仲良しの幼馴染が、またこの町に帰ってくればいいのに。それは、ゆみこさんが何百回何千回と願ったことです。だけど、こんな形で、叶ってほしくはありませんでした。


 何か、してあげられることはないかしら。ゆみこさんは考えるのですが、悲しいほどに、なんにもないのです。ゆみこさんには、なんにも出来ないのです。


 ぽろりと、ゆみこさんの目尻から、涙がこぼれます。



「ゆみこさん」と、誰かがゆみこさんを呼びました。ゆみこさんは返事が出来ずに、うつむいて、涙をぬぐいます。


「ゆみこさん」

 また、誰かが呼びました。誰でしょう。

「ゆみこさん、泣いてるの?」



 そして、ハッと目が覚めました。まず視界に飛び込んだのは、みーちゃんのお顔です。不安げに眉を垂らしています。その後ろに、男の子もいます。やっぱり、とても不安そうな顔をしています。


 どうやら、ゆみこさんは寝坊をしてしまったようでした。ここ数日、たくさん働いて、疲れていたのでしょう。

 体が疲れると、心も疲れます。心が疲れると、意味もなく悲しくなったり、寂しくなったりしてしまいます。だから、あんな夢を見たのかもしれません。


 ゆみこさんは起き上がって、「平気よ」と笑いました。そしてすぐに、気が付きました。なんだか、良い匂いがします。

「ゆみこさんがお寝坊だから、みーちゃんたち、ごはん作ったんだよ」

 みーちゃんが、胸を張って言いました。起きて台所へ向かいますと、確かに、温かなコーンスープと、はちみつトーストが準備されているのです。


「おはようございます」

 と、石炭の局員さんとヨシオさんが、ゆみこさんに挨拶をしました。

「子供たちが、ゆみこさんのために、ごはんを作りたいって言うもんだから。ちょっと、台所を借りましたよ」

 火を扱う作業は、大人ふたりがやってくれていたようです。ゆみこさんは感激してしまって、お礼をたくさん言いました。そうして食べた朝ごはんの、美味しいことといったら。冷えた体に、心に、沁みわたるのです。


「なんだか、元気が出てきましたよ。さあ、今日も頑張りましょう」

 ゆみこさんが元気になりましたので、みんな、ほっとひと安心です。



 さて、今日やるべきことは、とにもかくにも再配達です。封筒はたくさん。仕分けはあらかた終わっているとなれば、あとは宛先へ配るだけ。

 配達といったら、ヨシオさんのトラックや、郵便局員さんのバイクのように、乗り物に乗ってあちこち回るイメージです。しかし、そんなもんじゃありませんよと、石炭の局員さんは、浮かれた様子で言いました。

「とっておきの秘策を、昨晩、考えついたんです。窓の外をご覧になってください」

 局員さんに促されて、ゆみこさんは、窓から外を見ます。


 昨日、すばるの子らが敷いてくれた光の道が、青白く伸びています。その道の真ん中に、お馬さんの姿がありました。真っ黒で立派な胴引きをつけており、胴引きから伸びる綱は、なんとゆみこさんのお家に結び付けられています。


「彼が、このお家を引っ張って行ってくれるそうです。そうして、町じゅう回って配達するんです。どうです、楽しそうでしょう」

「まあ。でも、それってお馬さんが、あんまり大変じゃないでしょうか」

 ゆみこさんが心配しますと、どこからか「大丈夫だよ」「平気だよ」と聞こえます。その声は窓の外の、光の道から、聞こえてくるのです。

「ぼくたちが、手伝いますから」

「お家もお馬さんも、光の波に乗せて、びゅーんとひとっ飛び」

「流星群になって、降りて行くから、すっごく速いよ」


 窓の外で、青白い光が大きく膨れ上がりました。それと同時に、ゆみこさんのお家が、ゆったりと揺れ動きます。光そのものになったすばるの子らが、ゆっくりと慎重に、お家を持ち上げているのです。「あれ、地震かな?」と、ヨシオさんが辺りを見回します。


 ゆみこさんは、転んでしまわないように、ソファに座りました。その隣に男の子が座り、男の子の膝の上にみーちゃんが座ります。

「では、出発しましょう」

 石炭の局員さんが言いますと、窓の外で、お馬さんがいななきました。そして、ぐいと力を込めて、お家を引き始めます。優しく波打つすばるの光が、お家と、お家を引くお馬さんを、宇宙の果てから運び出します。



 あっという間に、お家は、宇宙の果てから脱しました。窓の外で、星々が尾を引いて流れていきます。今、このお家は、とんでもない速さで宇宙を飛んでいるのです。

 星たちも、こんな速さで移動するお家なんて、初めて見るのでしょう。興味深げに瞬いて、時おり、お家について流れたりします。


 天の川さえ大跳びに横切って、すばるの光はどんどん流れ、お家は地上へ近付いていきます。

 ヨシオさんがお外を見ては、お馬さんやすばるの子らのお仕事に支障があるかもしれませんので、ゆみこさんはお家が移動している間、みんなでケーキを作ることにしました。窓の外を見る暇もないくらい、忙しくしていなければなりませんので、それはそれはたくさんの、飾り付けの凝ったケーキを作らなくてはなりません。


「スポンジを焼いて、クリームを泡立てて、果物を洗って、チョコレートを溶かして。やることはたくさんありますよ」

 悪いとは思いつつ、ゆみこさんは、ヨシオさんをめいっぱい、窓の外を見る暇もないくらい、働かせました。

 当の本人は至ってやる気で、てきぱき、言われた仕事をこなしていきます。彼は取りたてて器用というわけではありませんが、たいていのことは、それなりにこなせるようです。スポンジの生地を混ぜるのも、クリームを泡立てるのも、頼めば何でもやってくれます。


「ふうん。やるじゃん」

 ヨシオさんを褒めつつも、男の子は「おれの方が上手だ」と言わんばかりの表情で、得意げに、メレンゲを泡立てます。優しく、丁寧に。けれど早く、リズム良く。しゃかしゃかしゃか。ちゃかちゃかちゃか。一度こつを掴んでいますので、男の子は上手です。いばるだけのことはあります。


「上手いもんだなあ」

 ヨシオさんも、舌を巻いています。

「まあね」

 と、男の子は鼻高々です。そして、「おっほん」とわざとらしい咳払いをして、声も高らかに話し始めます。

「良いか。メレンゲというものは、白くて甘いもののうちで、いっちばんえらいのである。なぜなら、とっても白くて甘いからである」

 それが誰の物真似なのか、すぐに分かりましたので、ゆみこさんは思わず吹き出してしまいました。みーちゃんも、ただの子猫のふりをしつつも、「にゃふふっ」と笑いました。ヨシオさんだけが、きょとんとした顔をしています。

 分かっていない顔のヨシオさんに向かって、男の子はにやっと笑って、「メレンゲの王様だよ」と言ったのでした。



 ケーキ作りは、夜まで続けられました。スポンジを焼き、冷ましているうちにもうひとつのスポンジを焼き、スポンジが冷めましたらクリームを塗って、メレンゲクッキーの飾りを乗せます。

 作ったケーキも色々です。ショートケーキもあれば、チョコレートクリームのケーキもあり、フルーツタルトもあり、りんごのパイも焼きました。

 みんな、とても忙しくしましたので、宇宙の果てから遠く離れたことにも気が付きません。地上が近いのだと分かったのは、お馬さんがいななく声が聞こえたためでした。


「もうすぐ、着きますよお!」

 あっと思った時には、すばるの光は弾け、窓の外を覆い尽くしていたのです。青白く弾けた光は、四方へ飛び散り、流星となって地上へ降り注ぎます。それと一緒に、ゆみこさんのお家も、地上へ降りていきます。

「どうなるの?」

 ゆみこさんが、小声で、石炭の局員さんに尋ねます。

「流れ星と一緒に落ちていったら、大変なことになるんじゃないかしら」

 ゆみこさんの心配はよそに、局員さんは、平然としています。

「大丈夫。お馬さんが引いてくれているんですから、上手いこと、着地できるはずです」


 地上が近くなっていきます。すばるの子らが、楽しそうに笑っています。窓の外の青白い光が、どんどん弾けて小さくなって、星屑になって散らばっていきます。もう、地上はすぐそこです。慣れ親しんだ町が、窓の外、遥か下方に見えました。それが、ぐんぐん近付いて……



 そして、少し、ぐらりと揺れました。「今日は、地震が多いな」と、ヨシオさんがぼやきます。

「今、ちょっと揺れましたよね。あれ?」

 ヨシオさんが、窓のそばに近寄っていって、空を見上げました。

「おや、もうこんな時間か。さすがに、そろそろ帰らないとなあ」

 窓の外は、すっかり夜です。宇宙の闇ではなく、地上の、夜の闇が、そこにはありました。帰って来たのです。


「ずいぶん長居しちゃったな。ゆみこさん、お邪魔しました」

 ここはもう、宇宙の果てではありませんから、ヨシオさんも迷うことなく帰り付けるでしょう。

 ゆみこさんは、遠慮するヨシオさんに、ケーキをひとつ持たせました。生クリームといちごでデコレーションした、クリスマスのケーキです。

「お父さまとお母さまに、よろしくね。ご家族で、どうぞ楽しいクリスマスを」

「やあ、すみません。では、ありがたくいただいておきます」

 ヨシオさんはケーキを持って、表に停めてある配達トラックに、乗り込みました。


「じゃあね、ぼく。ちょっと早いけど、メリークリスマス」

 運転席の窓を開けて、ヨシオさんは男の子に手を振ります。「うん」と、男の子も、手を振り返しました。

「メリークリスマス、ヨシオさん」



 ぶるん、とエンジンが唸ります。さあ、出発するかと思いきや、ヨシオさんはブレーキを踏んで、また運転席の窓から顔を出しました。そして、「見て」と、夜空の一角を指差します。

「ほら、流れ星だ」

 青白い光が、夜空を横切ったのです。ひとつ、またひとつ。流れ星は、見上げている間にもどんどん流れます。


「すごいな。今日は、流星群の日だったかな」

「どうでしょうね」

 本当はゆみこさんたちは、あの流れ星と一緒に、宇宙から戻って来たばかりなのですが、もちろんそんなことは口にしません。それは、秘密のことなのです。


 青白い星のひとすじを見ていますと、すばるの子らの笑い声が、聞こえてくるようです。しばらく流れ星を見上げたあと、さすがに体が冷えてきましたので、「では、今度こそ、失礼します」と、ヨシオさんは運転席の窓を閉めました。

 それなのに、ちょっと進んだかと思いますと、またブレーキを踏んで、窓を開けたのです。


「ゆみこさん。トラックの中に、こんなものが」

 ヨシオさんが差し出したのは、真っ黒な馬のぬいぐるみでした。

「ゆみこさんのお家にあったものですよね。危うく、持って帰っちゃうところでした」

 ゆみこさんにぬいぐるみを手渡して、ヨシオさんは首をかしげます。

「それにしても、なんでぬいぐるみが、トラックの中にあったんだろう。子供たちがいたずらしたかな」

「さあ」と、ゆみこさんはぬいぐるみをしっかり抱いて、いたずらっぽく笑いました。

「もしかしたら、ぬいぐるみが本物のお馬さんになって、歩いて移動したのかも」

 ヨシオさんが、「ははは」と笑います。

「ゆみこさんは、本当に、ロマンチストですね」

 そして今度こそ、窓を閉めて、配達トラックは行ってしまったのでした。



 ゆみこさんの腕の中で、お馬さんが、「はあ」と溜め息をつきます。危うく連れ去られるところでしたので、無事にゆみこさんに回収されて、安心して緊張が解けたのでしょう。


 ゆみこさんはお馬さんを抱きかかえたまま、リビングへ戻りました。そして、宇宙からの帰還を先導するという大役を、見事に果たしてくれたお馬さんに、クリスマスケーキと温かな紅茶をご馳走したのでした。

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