12月13日【どこでもない海】
ゆみこさんのお家は、ひと晩中、大海原を行きました。
海は穏やかに凪いでおり、オパールの人がたいへん上手に舟を操りましたので、夜の海でも、怖いことはひとつもありませんでした。
いつもと違うことといったら、窓の外に海が広がっていること。それから、耳に絶え間なく、ざあざあと波の音が響くことくらい。
朝、いつものように早起きをしたゆみこさんは、椅子に座ったまま、目を閉じます。ざざざ、ざざざと波の音。
やっぱりゆみこさんより早起きなオパールの人が、低い声で歌を歌っています。
舟はゆくゆく どこまでも
ななつの海の果てまでも
夢の終わりの夜までも
旅の終わりの朝までも
月の光の船頭さん
舟をこぐこぐ どこまでも
冬の終わりの夜までも
命の果ての朝までも
ゆみこさんは、その歌を、どこかで聞いたことがあるような気がしました。けれど、どこで聞いたのか、どうしても思い出せないのでした。
子供のころに、聞いた歌なのかもしれません。それとも、それよりずっと前、生まれてくる前に、聞いた歌なのかもしれません。
歌いながらオパールの人は、昨日しっかりと点検をした網を広げて、ほんの少し開けた窓から、海に向かって放ちました。窓の隙間から、海水が流れ込んできます。ゆみこさんの足首を、青白く透き通った海水が洗います。
海水には、小さな魚の赤ちゃんたちが混ざっており、テーブルや椅子の脚にぶつかって、三日月のような格好で水面の上へ跳ねました。魚は、あるものは跳ねたまま海へは戻らず、すうっと立ち上って、蒸気になって消えていきます。
「あれは結露の魚だ」
ゆみこさんが、あんまり不思議そうに魚を見ていたので、オパールの人が教えてくれました。
「冬の窓の結露は、跳ねた魚らがガラスにぶつかるために、起こるのだ」
オパールの人の言う通り、窓はもう結露で真っ白に曇ってしまっています。魚たちが、たくさん窓にぶつかったためでしょう。
ゆみこさんは、結露した窓を指でなぞり、真っ直ぐな縦の線を引いてみました。線の先からはしずくが落ち、海面に届くな否や、しずくは魚となって、元気に泳ぎ出します。
それが面白くって、ゆみこさんは子供みたいに、結露を指で集めてはしずくを落とし、魚たちをたくさん泳がせました。子供たちが起きてくるまで、ずっとそうして、遊んでいました。
昨日、ホットレモネードをたっぷり飲んだおかげでしょうか。迷子の朝霜の子は、ずいぶん元気になったようでした。朝ごはんを食べたあとは、子供たちと一緒に、オパールの人の漁を手伝っています。
オパールの人いわく、この海はどこでもない海で、どこでもない代わりに、どこにでも繋がっているのだといいます。つまり、どこにいったか分からなくなったものは、どこでもないこの海を探せば、きっと漂っているというのです。
「この網は、なんてったって大きいし、網の目だって細かいからね。どんな落とし物も捕まえるし、どんな迷子も逃さないよ」
オパールの人はそう言って、網を引き、網の中を確かめてはまた網を投げるのを繰り返します。子供たちの仕事は、網にかかったものを回収する役目です。
網には、あらゆるものがかかります。魚はもちろん、小鳥の雛、片っぽだけの靴、チェーンの切れたキーホルダー、蛇のぬけがら、サッカーボール、松ぼっくり。ほかにも、たくさん。
「これ全部、落とし物?」
リンゴほどの大きさの松ぼっくりを、網から外しながら、男の子が言います。
「みんな、不注意なんだなあ。こんなに落とすなんて」
「そうだな。生きているものは、みんな不注意だ」
オパールの人が、網にかかっていたタツノオトシゴを、ぽいと海へ投げ捨てました。
「私の落とし物も、きっとあの中に、たくさんあるんでしょうね」
子供たちが働くのを眺めながら、ゆみこさんが言いました。ゆみこさんも、結構、不注意でしたから。たくさんのものを落とし、そして落としたことにすら気が付かないまま、今日まで生きてきたに違いありません。
「仕方がありませんよ」
と、そう言ったのは雪雲さんです。
「何もかも持っていては、生きていくのに、重すぎますから」
ゆみこさんは、じっと、その言葉を噛みしめました。雪雲さんは、なんて優しいんでしょうと思いました。海に浸した足を、ゆみこさんはゆるやかに動かします。すると、波の間に白い真珠の光が、ぴかぴか光って、泡立つのでした。
お昼休憩を挟みまして、午後の暖かい時間を過ぎたころには、リビングは誰かの落とし物でいっぱいになっていました。オパールの舟も、落とし物の中に埋もれてしまって、身動きがとれないほどです。
「いかんいかん。ちょっと、やりすぎた。いったん、やめ!」
オパールの人が号令を出し、ひとまず窓は閉じられ、網は畳まれました。それからみんなで、落とし物の仕分けをします。大きいものは、部屋の隅へ。小さいものは、箱にまとめて。
たくさんの落とし物が集まりましたが、どうやら、朝霜の子のお友達は、ここにはいないようです。朝霜の子は、落とし物のハンカチのしわを伸ばしながら、ホウと白い溜め息をつきました。
「だいじょうぶよ。海は広いんだから、きっとどこかで泳いでるよ」
みーちゃんが、朝霜の子を慰めます。
「そうそう。明日も探せば、きっと見つかるよ」
男の子も、励まします。
けれど、前向きな子供たちとは反対に、オパールの人は、難しい顔です。
「この辺りにいないとなると、もっと遠くの方まで流されちゃったかなあ」
どこでもない海は、どこでもない代わりにどこででもあるので、途方もなく広いのです。「ぜえんぶ探すとなると、厄介だぞ」と、オパールの人が唸るのも、全くその通りのことなのです。
何か、手掛かりになるものがあれば良いのですが。
前向きに、希望を持って元気を出すのが子供の役目なら、現実的に、意見を出して問題を解決するのは、大人の役目です。
そこで、ゆみこさんと雪雲さん、メレンゲの王様、オパールの人は、顔を突き合わせて話し合います。朝霜の子のお友達を見付けるのに、なにかいい方法はないでしょうか。
「朝霜の子の手掛かりって、いったい何でしょう」と、ゆみこさん。
「それはやっぱり、寒さではないですか。霜は、寒い場所にしか降りませんから」と、雪雲さん。
「だけれど、今はみんな迷子になっているのだから、寒くない場所を、さまよっているのかも知れぬぞ」と、メレンゲの王様。
「海は何でもかんでも受け入れるけど、何でもかんでもさらってしまうから。どこでもない海に一度落ちたら、どこにだって行ってしまうよ」と、オパールの人。
要するに、手掛かりなんてないのです。
大人たちは、考えに考えます。この日、ゆみこさんは珍しく、珈琲を淹れました。普段はあまり飲まないのですが、今日ばかりは、その苦さと深みのある香りが、集中力と発想力を刺激してくれることを期待したのです。
そして、果たして珈琲の効果かどうかは分かりませんが、とうとうゆみこさんは、ひらめいたのでした。
「そうだ。探すのではなく、集めるのではどうでしょう」
迷子になってしまった子たちを探しに行くより、みんなに集まってもらった方が、良いのではないでしょうか。
迷子というものは、常に、目印を探しているものです。見覚えのある風景を探して、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。それが迷子というものです。ですから、朝霜の子たちにとって見覚えのあるものを用意してやれば、彼らはここへ集まってくるのではないかと、ゆみこさんは考えたのです。
「ふむ。それは良いアイデアである。ゆみこさん、褒めてつかわす」
メレンゲの王様が、えへんと胸を張りました。そしてさっそく、朝霜の子に訊いてみます。いったいきみたちは、どういったものに見覚えがあり、安心し、不安なときに近寄ってみたくなるのかね。と。
「吾輩は、甘い匂いに慣れ親しんでいるので、たいへん心惹かれるのである。迷子になったら、甘い匂いのする方へ、ふらふら寄って行ってしまうのである。そして、甘い匂いを辿っていった先に、この休憩所があったというわけだな」
そういえば、メレンゲの王様も迷子なのでした。あんまりえらそうで、迷子らしくないので、ゆみこさんも子供たちも、そのことをすっかり忘れていたのです。
メレンゲの王様に促されて、朝霜の子は、考えます。冬の朝に降りる霜は、いったいどういうものに見覚えがあり、どういうものに寄って行ってしまうでしょう。
「ぼくたちは……きっと、朝の光に。冬の寒さに。それから……ぼくたちは元々、常緑樹の葉に降りるはずの霜でしたから、大きな常緑樹を見れば、きっと、そっちの方へ行こうとするのじゃないでしょうか」
朝の光と冬の寒さ。それから、大きな常緑樹。
「やることが決まったな」
メレンゲの王様が、男の子の頭の上に、すっくと立ち上がりました。
「子供たちよ、椎の実を探すのである。松ぼっくりがあったのだから、きっと椎の実も、どこかにあるはずだ」
そんなわけで、子供たちは、さっき仕分けたばかりの落とし物をかき分けます。恐らく、小さな落とし物をまとめて入れておいた、お菓子の空箱の中にあるはずです。
「椎の実、椎の実……」
男の子の手が、箱の中をがさごそ探ります。
「しいのみ、しいのみ……」
みーちゃんの手も、箱の中を行ったり来たり。
ふたりで手分けして探しまして、やがてふたりは、見付けました。小さな椎の実が、ひとつぶ。つやつや茶色に輝いて、たったひとつぶなのにずっしり重く、健康的な椎の実です。
「あったよ、椎の実!」
「ではそれを、適当な場所に埋めるのだ」
メレンゲの王様は指示をしましたが、ふたりは、困ってしまいます。埋めるといったって、ここは室内。ゆみこさんのお家のリビングなのです。どこに埋めればいいというのでしょう。
みーちゃんは困った果てに、カーペットの端っこをつまんで、カーペットの下に、椎の実を転がしました。そして上から、カーペットをかぶせます。少し盛り上がったカーペットを、両手でぽんぽん、と叩きましたら、完了です。
そんなことで、埋めたといえるのかしら。誰もがそう思いましたが、しかし椎の実は、そうは思わなかったようです。
「あら」
と、ゆみこさんが声を上げました。カーペットの上に、ぽこんと緑の芽が出たのです。椎の芽です。
芽は見る間に成長し、苗になり、若木になりました。まだまだぐんぐん、成長します。天井について、天井を突き破って、きっと二階の部屋も屋根も突き破ってしまって、てっぺんが見えなくなってしまいました。
リビングには、電柱よりもずっとずっと太い幹が、ずうんと立っているばかり。子供たちは、大喜びです。
「これだったら、どこからでも見えるね」
「朝霜さんたち、椎の木をめざして、ここまで来られるね」
ゆみこさんは、喜ぶというよりも途方に暮れています。だって、ゆみこさんのお家の屋根が、椎の木に突き破られてしまったのですから。
だけど、ようやく希望が見えてきて、頬にわずかな笑みを見せている朝霜の子を見ると、まあいいや。と、ゆみこさんは思うのでした。まあ、お家がちょっと壊れたくらい、きっとなんとかなるでしょう。
今夜は、椎の木の根元に毛布を集めて、みんな並んで眠りにつくことにしました。明日の朝いちばんに、朝霜がこのお家に来たとき、すぐに気が付くことが出来るように。
リビングで眠るなんて、ゆみこさんは初めての経験です。体が痛くならないように、毛布を何枚も重ねて敷いて、毛布の中にうずもれると、なんともいえない幸福感に包まれます。
いつもは椅子で眠っている男の子も、いつもは籐のかごの中で眠っているみーちゃんも、雪雲さんもメレンゲの王様も、朝霜の子も、オパールの人も、みんな、今夜は、毛布の中。
おやすみなさい。誰かが呟きました。
おやすみなさい。誰かが返事をしました。そのあとは、寝息が聞こえるだけでした。
その日、ゆみこさんは海の夢を見ました。ずっと昔、まだゆみこさんが子供だったころ、海を見て何かを感じ、何かを思い、何かを願った夢でした。
その夢はもしかしたら、どこでもない海を漂っていた、ゆみこさんの落とし物だったのかもしれません。
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