12月12日【朝霜の子】


 ゆみこさんは、早起きです。

 毎日、町が起き出す前に目を覚まし、夜と朝の間の静けさに、お湯の沸く音を聞く。それが、ゆみこさんの楽しみです。


 ところが今朝は、ゆみこさんよりももっと早起きの人がいました。オパールの人です。

 ゆみこさんが起きた時にはもう、彼は舟の中にあぐらをかいて、魚をとる網の点検をしているところでした。破れやほつれがないか、丁寧に、確かめているのです。


「おはようございます」

 ゆみこさんが朝の挨拶をしますと、漁師さんは「うん、おはよう」と、顔を上げずに言いました。今、ゆみこさんが何か言いましても、きっとまた「それどころじゃない」と言われるのでしょう。見事な集中っぷりです。


 何時ごろ、漁に出るのかしら。気になりながらも、ゆみこさんはいつものようにお湯を沸かし、朝ごはんを作りにかかります。朝ごはんが、船出に間に合えば良いのだけれど。



 幸いなことに、子供たちが起きる時間になっても、オパールの舟はまだリビングにありました。


 男の子は相変わらず、お気に入りの椅子の上で、体操座りをして眠っています。目を覚まし、手足を思いっきり伸ばすと、凍った両足から霜が落ちます。

 みーちゃんも相変わらず、籐のかごの中で眠っています。最近は、毛糸の残りが少ないので、みーちゃんはお気に入りの靴下をかごの中にたくさん持ち込んで、靴下に埋もれて眠りにつくのです。


 男の子が先に起きた時は、みーちゃんの鼻先をつんつんつついて起こします。みーちゃんが先に起きた時は、男の子の頬に頬擦りをして起こします。

 そうして、ほとんど同じ時間に目を覚ましたふたりは、リビングに、オパールの舟を見るのです。



「おはようございます。今日も、魚をとるの?」

 男の子が尋ねますと、オパールの人は「いいや」と低く答えました。

「今日は、昨日とったのを売りに出すんですよ」

 売りに出すって、それはいったい、お魚屋さんでしょうか。それとも、ブローチ屋さんでしょうか。子供たちとオパールの人との会話に、朝ごはんを作りながら、ゆみこさんは耳をそばだてます。


「それって、魚を? それとも、宝石の飾りを?」

 男の子も、同じことを考えていたようです。質問しますと、オパールの人は「さーてね」と、うそぶきました。

「それは、受け取るものによるから、分かりませんね」

 男の子は首をかしげ、みーちゃんを見ました。みーちゃんも意味が分からなかったようで、首をかしげています。


「そんなことより、子供たち。今日も仕事を手伝ってくれるかい」

 オパールの人が、点検の終わった網を畳みながら、言いました。子供たちは、もちろん彼のお仕事にたいへん興味がありましたので、「もちろん!」と、頷いたのです。


 ふくふくの頬っぺに、好奇心だけを乗せまして、子供たちは期待の目でオパールの舟を見ています。そこで、慌てたのはゆみこさんです。

「売りに出るって、どこまでお行きになるんでしょうか」

 果たして子供たちだけで行かせていいものか、ゆみこさんは心配になったのです。ですがオパールの人は、「心配ないよ」と平気な顔をしています。

「だって、今日はここで、商売をするんですから」

「ここでって、このお家で、ですか」

「そう。この休憩所で」

 初耳です。さすがのゆみこさんも「でしたら、許可を取っていただかないと」と文句を言いますと、オパールの人は「じゃあ、今取った」なんて言うのです。どうやら彼は、ずいぶんと調子の良い性格をしているようです。



 仕方がないので、ゆみこさんは大慌てで朝の支度をすませ、みなさんで朝ごはんを食べてから、お仕事の準備をすることにしました。

「準備といっても、売り物があれば、大丈夫。あとは、お客さんが来たら、いらっしゃいませを言うだけですよ」

 オパールの人はそう言って、昨日とったばかりのブローチを、カーペットの上に並べました。するとさっそく、キンコーン。玄関のチャイムが鳴ったのです。


「いらっしゃいませえ!」

 大きな声で、オパールの人が言いました。大きな音が苦手な雪雲さんが、ぶるぶるっと体をふるわせて、リビングの隅っこへ逃げていきます。

「こら、もっと静かにしないか」

 と、メレンゲの王様が怒りました。オパールの人は、「呼び込みをしなければ、商売にならない」などとごにょごにょ言っておりましたが、さっきよりずいぶん小さな声で「いらっしゃいませ」と言いました。


 でも、いったいどなたがいらっしゃったのでしょう。ゆみこさんは玄関へ行き、ドアを開けました。


 玄関ポーチに、封筒が置いてあります。封筒は、ガラスか氷か水晶か、とにかくそういったもので出来ているような、透明な光を放っていました。拾い上げると、少しひんやりしていて、堅い手触りをしています。

 透明な封筒を持って、ゆみこさんはリビングへ戻りました。そして「いらっしゃいませ」と呟きながら、封筒を開きました。



 封筒の中から出てきたのは、ひとりの人でした。背丈は、男の子と同じくらい。つまり、どうやらまだ子供です。

 その人は、いつかの秋の便りたちのように、光そのもので出来ているようです。しかし秋の光たちのような、温かな色合いの光ではありません。もっと白くひんやりとしていて、鋭くて清廉な、冬の朝日の光です。


「おや、一人ですか」

 オパールの人が、不思議そうな声を上げました。

「おれが店を出したら、いつもだったらもっとたくさん、お客が来るはずなのにな。いやいや、そもそもあなた、お客なんですか。それとも、迷子なんですか」

 冬の朝日の子は、きょろきょろ辺りを見回して、戸惑っているようでした。ゆみこさんは知っています。こういう仕草をするとき、大抵の人は、道に迷っているのです。


 迷子となると、ここはゆみこさんの出番でしょう。

「まあ、ひとまずお座りになって」

 椅子を勧め、何か飲みたいものはあるかと尋ねます。冬の朝日の子は、ふるふると首を横に振りました。それどころではないといった様子です。

「でも、まずは何か飲んで落ち着かないと。それで、事情を聞かせてくださらないかしら。何か、力になれるかもしれませんから」

 ゆみこさんが辛抱強く説得しますと、ようやく、冬の朝日の子はうなずきました。そして、「さっぱりするものを」と言いましたので、ゆみこさんは、ホットレモネードをお出しすることにしました。


 白いマグカップに、カナリア色の液体をなみなみ注いで、はちみつに漬けたレモンの輪切りを浮かべます。

 冬の朝日の子は、両手で包み込むようにマグカップを持ちまして、ひとくち、ふたくちとホットレモネードを飲みました。そして、ぽつりぽつりと話し始めます。



 彼らは、朝霜です。冬の寒い朝、地面や植物の葉や屋根の上なんかを真っ白に覆い尽くす、朝霜なのです。朝霜はその白さと、朝日を受けて輝く光の信号で、厳しい冬を生き抜くすべてのものたちに、冬の便りを届けます。

 朝霜は、霜柱の橋を渡って、おのおのの覆うべき場所まで、移動するのだそうです。今、ここでホットレモネードを飲んでいる彼は、どこかの山の常緑樹の葉を、白く染め上げるはずでした。


 ところが今年は、あんまり冬が暖かいもので、霜柱の橋が、途中でぽっきり折れてしまったのです。そして、そのときちょうど橋を渡っている最中だった、たくさんの冬のものたちが、投げ出されてしまったのでした。


「それでぼくは、気が付くと、このお家の前にいたのです」

 朝霜さんは、心細げに目を伏せて、氷の涙をぽろぽろこぼします。

「一緒に山へ向かっていた友達も、みんなどこかへ行ってしまいました。きっと今ごろ、迷子になっているでしょう。

 みーちゃんが、小さなお手手で、朝霜さんの涙をぬぐってあげます。雪雲さんは、なぐさめるように、彼の頭の上に雪を降らせます。メレンゲの王様は、彼の肩を優しく叩きます。


「レモネード、とても美味しかったです。ありがとう。でもぼくひとり、こんなにありがたい思いをしていては、いけない気がします」

 そう言って、朝霜さんは、飲みかけのホットレモネードのカップを、テーブルに置きました。


 ゆみこさんは、胸が張り裂けそうな思いです。周りの誰かにつらいことが起こったとき、自分だけ幸福を感じるのはとても悪いことのような、そんな気がするのです。その気持ちが、ゆみこさんにはとてもよく分かるのです。

 かけるべき言葉が何も見つからず、ゆみこさんはレモンの輪切りを、じっと見つめます。


 その時です。

「探しに行こう!」

 と、男の子が言ったのです。

「探しに行こうよ。落っこちた朝霜たち、みんな探そう」

「探すったって、どうやって?」

 ゆみこさんが尋ねますと、男の子はオパールの舟を指差しました。

「舟を漕いで、探しに行けばいいよ

「舟だって! とんでもない!」

 そう言ったのは、オパールの人です。

「あの舟は、おれの商売道具なんだからね。貸し出しやしないよ」


 それを聞いて、とうとうぷっつんと、ゆみこさんの堪忍袋の緒が切れました。

「あなたね、昨日はうちの子供たちが、あなたのお仕事を手伝ったでしょう。今日だって、うちにお店を出すことを、許したじゃありませんか。少しくらい、人のお願いも、聞いたらどうなの」

 優しいゆみこさんが怒りましたので、男の子とみーちゃんはびっくりして、互いに顔を見合わせました。そして珍しいものを見るような目つきで、事の顛末を見守ります。


「それにね、あなたはどうやら大人じゃありませんか。こんな小さな子が、かわいそうに、怖い思いをして迷子になって、お友達のために泣いているのに、あなた、助けてあげようとは思わないの」

「わ、分かった、分かった。舟を漕いで、探しに行こう。分かりましたったら」

 ゆみこさんのあまりの剣幕に、とうとうオパールの人は降参しました。それを見て、男の子とみーちゃんは、くすくす笑いました。



 さて、それでは舟を漕いで、迷子になった朝霜の子たちを探しに行きましょう。そう決まったはいいものの、困ったことがあります。オパールの舟は、そんなに大きくありませんから、ひとりかふたり乗ったら、もう満員なのです。

「全員は、乗れませんよね」

 と、念のため訊いてみますが、もちろん「当たり前でしょう」という答えが返ってきます。だけれど、オパールの人は平気な顔をしています。

「ですからね、この舟ではなく、この家を漕いで行くことにしましょう」

「この家って、この家ですか」

「ほかに、どの家があるっていうんです」

 そう言うやいなや、オパールの人はオパールの舟に乗り込みました。そして、いったいどこから取り出したのか、オパールの櫂を手に持って、カーペットの上を大きく漕ぎました。


 すると、ざぶん。波音と共に、お家がぐらりと揺れたのです。よろけてこけそうになったゆみこさんを、すんでのところで、雪雲さんが支えました。「失礼! 大丈夫だったかね」と、櫂でカーペットを漕ぎながら、オパールの人が謝ります。

「進み始めは、どうしても揺れるんですよ。でも大丈夫。沖まで出てしまえば、揺れなくなりますからね」


 雪雲さんの助けを借りて、ゆみこさんは揺れる家の中を進み、ようやくソファに座りました。男の子もみーちゃんも、ゆみこさんのそばに寄ってきて、隣に座ります。

 そこで三人は、信じられないものを見ました。窓の外が、海、海、海なのです。


「海だあ!」

 みーちゃんは、揺れるお家の中を器用に走って、窓のそばに寄りました。窓に波がぶつかって、白く泡立って弾けていきます。お庭も、お隣のお家も、道路も、電信柱も、ゆみこさんの住む町は、もうどこにも見当たりません。

 オパールの人が舟を漕ぐと、それに合わせて、お家がざぶんと進みます。このお家は、今、海の上を行く舟なのです。

「お嬢ちゃん、窓を開けちゃいけないよ。海水が入ってきて、水浸しになっちゃうからね」

 オパールの人の忠告に、みーちゃんは「はあい」と返事をして、ソファの方へ走って戻りました。



 なんだか、大変なことになりました。けれど、この家ごと舟になったんだったら、いくら遠出をしても、お家に帰れないなんてことにはなりませんから、安心です。

 しばらく海を行きますと、オパールの人が言ったとおり、あまり揺れなくなりました。ゆみこさんは立ち上がって、お鍋に残ったホットレモネードを、もう一度温めます。


「ほら、きっともう、大丈夫ですよ」

 目をまんまるにして驚いている朝霜の子に、湯気の立つマグカップを渡して、ゆみこさんは言いました。

「もう大丈夫。温かいものを飲んで元気になって、お友達を探しましょう」

 朝霜の子は頷いて、マグカップを受け取りました。そして今度こそ、ホットレモネードを一滴残らず、綺麗に飲み干したのでした。


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