12月5日【開設準備】


 今日は、ゆみこさんはいつもより少しだけ早起きでした。いつもだって充分早起きなのですが、それよりももっと、早起きでした。

 なぜって、可愛らしい寝顔を見るためです。

 毛糸にくるまって眠っている、小さな猫の女の子。それから、いくらお布団を勧めても頑なに断り、椅子の上で体操座りのまま眠っている、男の子。


 ふたりとも、ぐっすり眠っています。まだまだ、起きる気配はありません。お日さまだってこれから目覚めるのですから、まだ眠っていて良いのです。



 ゆみこさんはまず、暖房をつけてお部屋を暖めました。そしていつものようにお湯を沸かして保温ポットに注ぎ、それから、いつもはしない仕事に取り掛かります。


 未開封の紅茶缶を出してきて、封を切ります。華やかな紅茶の香りがふわりとたちのぼり、ゆみこさんのお鼻をくすぐって、台所の空気に溶けていきました。

 それからテーブルの上に、薄力粉に卵、お砂糖とバターを準備します。まずお砂糖とバターを混ぜて、それから卵を加えて、最後に薄力粉。ボウルの中で、よく混ぜます。混ざりましたら、ボウルにラップをかけて、冷蔵庫へ。これで、とりあえずは、おしまい。


 ゆみこさんのお家は、北風郵便局の分室となりました。そこでゆみこさんは、分室というからには、中途半端なことは出来ないわ、と思ったのです。

 お湯ではなく、お茶をお出ししましょう。お茶菓子もあるとなおよいでしょう。それから、朝ごはんを食べたら、看板も作りましょう。看板がなくては、ここが郵便局の分室だと、分からないかもしれませんから。



 子供たちが起き出す時間になりましたら、ゆみこさんはいつものようにパンを切り分けて、ラズベリーのジャムを添えて出しました。いつもと違うのは、今日はお湯ではなく良い香りのする紅茶が、カップに注がれて出されたことです。男の子は興味深そうに匂いを嗅いで、ちびちびと、紅茶を飲みました。


 それから、子猫の女の子は本当に体が小さいので、ゆみこさんは彼女のために、ジャムの中から柔らかなラズベリーを一粒、つまみました。ひと切れのパンを半分にして、それを更に二回ほど半分にしたものに、ちょんと乗せて、小さなジャムパンの出来上がりです。

「ありがと」

 子猫の女の子は、お利口さんにお礼を言って、ぺろりとたいらげました。それから、陶器のティースプーンから、紅茶もごくごく飲みました。



 さて、朝ごはんを食べ終わりましたら、今日は毛糸の靴下を編むより先に、やらなければならないことがあります。ここを、北風郵便局の分室として機能するように、開設準備をしなければなりません。

「あなたたちにも、手伝ってもらいたいの」

 男の子と子猫の女の子は、互いに顔を見合わせました。そして、まず子猫の女の子が「いいよ」と言って、それから男の子も「いいけど」と言いました。


 ゆみこさんは、ふたりの子供たちに指示を出します。まず、二階の奥の部屋から、毛布をたくさん持ってくること。迷子になって疲れた手紙たちが、暖かく柔らかな場所で足を延ばしたり、ひと眠りしたりできるように。

 ゆみこさんは、膝が痛くて二階には上がれないので、子供たちにお願いすることにしたのです。


 それから、看板を描いて、玄関に置くこと。

 毛布が置いてある部屋には、子供がひとりで持ちあげられるくらいの大きさの、黒板があるはずです。その黒板は、昔、ゆみこさんの子供が使っていたものでした。学校の時間割や提出物のメモ、ゆみこさんへの伝言、時々は泣き言なんかがつづられた黒板は、今はまっさらのまま埃をかぶっているでしょう。

 それを持ってきて、埃をはたいて、「ここが北風郵便局の分室ですよ」と分かるような看板を描くのです。


「分かった」

 男の子は元気よく返事をして、さっそく軽快な足音を立てながら、二階へ続く階段を駆け上っていきました。子猫の女の子も、それに続こうとしましたが、階段の段差は彼女には高すぎて、思うように上れません。

 女の子は、階段の下から、にゃーにゃー助けを求めました。その声を聞いて、階段の上から、男の子が顔を覗かせます。そして、「しゃあねぇーなあ」と言って、子猫の女の子を抱っこして、一緒に階段を上りました。



 二階の奥の部屋では、たくさんの思い出たちが埃をかぶって、ひっそりと眠りについていました。思い出の一部が空気にしみだして、深呼吸をするだけで懐かしくなるような、そんな匂いがします。

 毛布は、綺麗に洗ったあとで押し入れにしまってあると、ゆみこさんは言っていました。押し入れがどこにあるのかはすぐに分かったのですが、男の子は、長いこと押し入れの前でじっとしていました。閉じている押し入れというものは、中になにか潜んでいるかもしれないという想像力を、必要以上にかきたてるのです。


 やがて意を決して、男の子は押し入れの襖を開きます。中には、おばけや怪物なんてものはもちろんおらず、見るからにふわふわで暖かそうな毛布が何枚も、きちんと畳んで積まれてあるのでした。


 毛布はそれはそれはたくさんありましたので、男の子はそれを運ぶのに、階段を何往復もしなければなりません。子猫の女の子は、毛布を一枚持っただけで布に埋もれて歩けなくなってしまいますので、ここは彼が頑張るしかないのです。



 男の子が毛布を運んでいる間、子猫の女の子は、黒板を探すことにしました。ゆみこさんいわく、黒板は「どこかにあると思うけど、どこだったかしらねえ」だそうです。


 子猫の女の子は、部屋のあちこちを探しました。まず、押し入れの上の段。お布団や枕しかありません。押し入れの下の段。クッキーの空き缶がありました。黒板は、いくら小さな黒板だとしても、さすがにこの缶の中には入らないでしょう。

 箪笥の中も、上の段から順番に見ていきます。お洋服、タオル、着物、靴下。アルバム、観光地の記念キーホルダー、フィルムケースがたくさん。クレヨンで描かれた絵、作文用紙、裁縫道具に習字道具。


 それらをひとつひとつ、出して確かめては、また同じ場所に戻します。思い出が舞い上がって、子猫の女の子は「ぺくしゅん」と、くしゃみをしました。

 そしてくしゃみをしたついでに、見付けました。箪笥と壁との隙間に、立てかけてあるもの。それこそが、探していた黒板なのでした。



「運んだよお」

「あったよお」

 子供たちは満足気に、ゆみこさんに報告をします。

「まあ、まあ。ありがとう」

 ゆみこさんは、子供たちの頭を、たくさん撫でました。男の子はにやにや笑い、子猫の女の子は、尻尾をぷりぷり振りました。


「ありがとうね、大変だったでしょう。こっちの準備は、もう少し時間がかかるから、その間に看板を描いてくれる?」

 チョークを手に取って、男の子は首をかしげます。このチョークも、黒板と一緒に見付けたものです。白とピンクと黄色があります。

「なんて書けばいい?」

「北風郵便局の分室ですって、書いてちょうだいな」

「むずかしい。ぶんしつって、分かんない」

 そうか。とゆみこさんは思います。この子くらいの歳の子に「分室」と言っても、たしかに、分かりにくいかもしれません。それに、ちょっとお堅い響きでもあります。

「そうね。そうしたら、休憩所って書きましょうか。お手紙たちが、ここでひと息つくんですからね」

「分かった」


 黒板の埃を拭い、男の子は文字を書き始めます。白いチョークで力強く、

『北風』

それから、少し困ったような顔をして、また書きます。

『ゆうびん』

 郵便という漢字が分からなかったのです。でも、平仮名で書いた方が、優しい印象になります。男の子はそれで納得して、更に書き進めます。

「きゅう、け、い、しょ……」

「入んないね」

 隣で見ていた子猫の女の子が、残念そうな声を出しました。男の子の文字は大きすぎて、『きゅうけいしょ』の『きゅうけ』までしか、黒板の中に収まりきりません。

「ねえ、入んない」

 男の子はゆみこさんを呼び、白いチョークを差し出しました。

「漢字で書けば、三文字よ」

「漢字わかんない。書いて」

 そこで、『休憩所』の三文字は、ゆみこさんが書きました。



 そんなふうに、看板は出来上がったのです。とても元気で弾けそうな勢いの『北風ゆうびん』と、とても丁寧で優しい線の『休憩所』。それを玄関の前に立てかけましたら、いよいよ、全ての準備が完了です。


「ふふふ」と、立てかけられた看板を見て、男の子が笑いました。彼は『ゆうびん』という文字の横に、猫の絵を描いたのです。それは猫というか犬というかたぬきというか、そういうよく分からない生きものに見える絵だったのですが、彼はその出来栄えに、とても満足しているようでした。

「ふふふ」と、男の子の頭の上に乗っている、猫の女の子も笑いました。彼女は、『ゆうびん』という文字の横に描いてある絵が、へんちくりんだったので、笑ったのでした。


「子供たち、クッキーが焼けましたよお」

 お家の中から、ゆみこさんの声が、ふたりを呼びました。ゆみこさんは、ふたりが一生懸命働いている間、甘いご褒美を焼いてくれていたのです。

「クッキーだって」

 男の子が言いました。

「クッキーだって!」

 子猫の女の子も、言いました。そしてふたりは急いで、お家の中へ戻っていきました。



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