12月4日【北風郵便局・分室】
ゆみこさんは、いつになく沈んだ気持ちで目を覚ましました。
沈んだ気持ちのまま朝の支度をして、沈んだ気持ちのままお湯を沸かし、沈んだ気持ちのままパンを切ります。
ゆみこさんが暗い顔をしていることに、男の子は目ざとく気付いているようでした。何か言いたげに、けれど何も言わずに、ゆみこさんの周りをうろちょろします。
せっかくの美味しい朝ごはんですのに、ゆみこさんは「いただきます」の後に「はあ」と、ため息をつきました。
今日、ゆみこさんのお家に届いたお手紙たちが帰ってしまうことを思うと、どうしても悲しくなってしまうのです。
お手紙たちが正しい宛先に届けられることは、良いことのはずなのに。
こんなふうに思っちゃいけないわ。と思えば思うほど、悲しさは綿雪のようにしんしんと、ゆみこさんの心に積もっていくのです。
はあ、ともうひとつため息をついて、ゆみこさんは暗い表情のまま、ようやく顔を上げました。
そうしますと、テーブルの向かいに座っている男の子が、ひょっとこのような変な顔をしておりましたので、ゆみこさんは思わず笑ってしまいました。男の子も、へへっと笑います。
「あなた、優しい子ね。ありがとうね」
ゆみこさんが言いますと、男の子はまた、ひょっとこの顔をしました。今度のひょっとこは、頬と耳が真っ赤でした。
「ねえあなた。あなたどうして、郵便局から逃げ出したりしたの」
ゆみこさんが尋ねます。さよならをする前に、ほんの少し、彼のことが知りたくなったのです。
男の子は唇をとんがらせたまま「だって、どうせ受け取ってもらえねぇーし」と言いました。
「おれ、宛先は分かってるんだけど。いっつも、受け取り拒否。でも、受け取ってもらえるまで、何度も何度も配達されるからさ。だから、やんなって逃げ出した」
「受け取り拒否ですって。どうしてかしら」
「知らない。おれのことなんか、忘れてるんじゃない」
事情はいまいち分かりませんが、ゆみこさんはまたまた、昨日までよりもいっそう、この男の子が気の毒になりました。
受け取り拒否をされる手紙というのは、どんなに寂しく、拠り所のない気持ちになるでしょう。この子が郵便局に戻ったら、また配達されて、また拒絶されて、また郵便局に戻るのです。その繰り返しなのです。
「送り主のところには、帰れないの」
「帰れないよ。遠くに行っちゃって、今はどうしてるかも分からないから」
それから男の子は、きゅっと唇を引き結んで黙りました。泣いているわけではありません。耐えているのです。
その表情を見て、ゆみこさんは決めました。この子を、しばらくうちで預からせてくださいと、石炭の局員さんに頼んでみよう。
キンコーン。玄関のチャイムが鳴り、ゆみこさんは玄関へ向かいます。昨日と同じように、玄関の前には背の高い石炭の局員さんが立っており、ゆみこさんに深々とお辞儀をしました。
「あの子を、しばらくうちに置いてくださいませんか」
ゆみこさんがそう言ったとき、石炭の局員さんは、さほど驚きはしませんでした。もしかしたら、玄関先に出てきたゆみこさんの、その瞳を見た瞬間に、彼女が何を決意したのかを悟っていたのかも知れません。
「理由をお尋ねしても構いませんか」
「あの子から、あの子の境遇を聞きました。何度も受け取り拒否をされて、何度も郵便局に戻されているって。それじゃ、あんまりですわ」
「手紙というのは、そういうものです」
石炭の局員さんは、真っ黒に光る顔を、窓際の籐のかごへと向けました。かごの中では、昨日よりいくらか寝返りを打つ回数が増えた、小さな子猫の女の子が眠っています。
「ゆみこさん。お気づきかもしれませんが、彼らはただの手紙ではありません。彼らは、実体を持たないものから実体を持つものへ向けて、人知れず出された手紙です。
実体を持つものが、実体を持たないものからの手紙を受け取るためには、それ相応の準備が必要になります。そしてその準備をすることは、人によっては、とても難しいことなのです。ですから、手紙たちが受け取り拒否をされるのは、珍しいことではないのです」
局員さんの言っていることが分からず、ゆみこさんは首を傾げます。局員さんは「たとえば、」と言って、窓の外を指差しました。
「季節が移りかわるとき、あなた方は言うでしょう。『春の便り』とか、『冬の便り』とか。それこそが、実体を持たないものからの手紙です」
春の便りとは、雪解け水のせせらぎであったり、膨らみ始めた新芽のつぼみであったりします。冬の便りとは、冷たく乾いたこがらしであったり、こがらしに乗った枯れ葉が道路を泳いで立てる、かさかさといった音であったりします。
これらは確かに季節からのお手紙なのですが、受け取りの準備ができていないものにとっては、ただの音や風景でしかありません。実体を持たないものからの手紙は、全ての人に受け取ってもらえるわけではないのだと、局員さんは説明しました。
「では、あの子の宛先の方は、まだ受け取りの準備が整っていないのですね」
「そうなのでしょうね」
「準備は、いつ整うのでしょう」
「分かりません。もしかしたらこの先ずっと、整わないかもしれません」
そんな。と、ゆみこさんは絶句します。そんな悲しいことがあるでしょうか。お手紙というからには、何か伝えたいことがあって、出されたものなのでしょうに。それが、永遠に宙ぶらりんになってしまうなんて。
「では、いよいよ、この子はうちで預からねばなりません」
きっぱりと、ゆみこさんは言いました。
「この子には、ぬくもりが必要です。そのぬくもりは、大人が与えねばなりません」
石炭の局員さんは、困ったふうにうつむいて、うーんと唸りました。
「よわった、よわった。そういうわけにはいかないんです。私の仕事は、手紙を届けることもそうですが、迷子の手紙を探して見付けてかき集めることも、やっぱり仕事のうちなんです。仕事をないがしろにするわけには、いきません」
うーんうーん。と、石炭の局員さんは悩みます。ゆみこさんだって、局員さんを困らせたいわけではありません。局員さんと一緒に、うーんうーん。と悩みます。
大人ふたりが悩みに悩んでおりますと、台所からリビングの様子を窺っていた男の子が、「じゃあ、ここを郵便局にしちゃえば?」と、口を挟みました。
「ここが郵便局だったら、おれたち、郵便局にいるってことになるじゃんか。名案、めーあーん」
きっと男の子は、大人をからかうつもりで言ったのでしょう。そういう口調と表情でした。けれどそれは、本当の本当に、名案だったのです。
「そうか、その手があった!」
石炭の局員さんが、急に立ち上がって大声を出しましたので、男の子はびっくりして「ひい!」と言いながらテーブルの下に隠れました。ゆみこさんも、「きゃっ!」と言って椅子に座ったまま飛び上がりました。
「これは失礼。しかし、名案です」
局員さんはすぐにきちんと座りなおして、言いました。
「今日からここを、北風郵便局の分室としましょう。そうすれば、手紙たちがここに集まってきても問題ありません。私は数日に一度ここを訪れて、手紙たちの様子を見に来ればいいのです。もちろん、ゆみこさんさえよければ、ですが」
「まあ」
なんて素敵なアイデアでしょう。「そうしましょう」と、ゆみこさんは手を叩いて喜びました。どうやら自分のからかいを叱られたわけではないと分かった男の子は、ふうと胸をなでおろしました。
お部屋の空気がようやく柔らかくなった、その時です。
「うーん」と、さっきまで大人たちが悩んで唸っていた声とよく似た、けれどもっとずっと可愛らしい声が、リビングに響きました。
みんなが、窓際の籐のかごを見ます。声は、そっちの方から聞こえたのです。
ゆみこさんは、よっこらしょと椅子から立ち上がりました。そして、毛糸でいっぱいの籐のかごを、覗き込みました。
そこで眠っていた小さな猫の女の子は、右に左に寝返りを打って、また「うーん」と唸って、それから大きな背伸びをしました。両手をグーにして、腕をぐーんと伸ばします。腕がいっぱい伸びますと、体をぷるぷる震わせまして、それから両手がパーになりました。
「おちびさん、おはよう」
ゆみこさんが囁きますと、彼女は「ううーん」と寝ぼけた声を出してから、ぱちり。お目目を開きました。
その瞳は、飴玉のようにまんまるで、琥珀色のセルロイドのようにつややかです。朝露のように澄んでいて、つららを通り抜けた光のようにきらめいています。
彼女は目をくりくりさせながら辺りを見回し、こてっと首をかしげました。
「ここ、どこお?」
女の子が言いましたので、ゆみこさんは答えます。
「ここは、北風郵便局の、分室よ」
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