12月3日【石炭の局員】
今日もゆみこさんの一日は、お湯を沸かすところから始まります。冷たいお水を薬缶に入れて、火にかけて、お湯が沸くまでの間にパンとジャムとを用意します。全ていつもと同じです。
いつもと違うことといったら、今日はゆみこさんが食べるよりも多めに、朝ごはんを用意していることくらい。
小さな猫の女の子は、いまだ毛糸に埋もれて眠っています。だけど一応、目が覚めたら何か食べさせてやらねばなりませんから、ゆみこさんは彼女のぶんの朝ごはんも用意します。
そして昨日この家に来た男の子。彼の食べるぶんも、必要でしょう。
男の子の足は、結局、まだ凍ったままです。どんなに温めても霜が落ちることはなく、ゆみこさんは大変心配しているのですが、男の子はあまり気にしていないようです。
「もう、寒くないの」
と、ゆみこさんが尋ねますと、男の子はパンを頬張ったまま「寒いけど」と言いました。
「寒いけど、でもこれ、美味しい。もっと食べたい」
けど、の前後で文章の意味が繋がっていないような気がしますが、それほど、食べるのに夢中だということでしょう。
ゆみこさんはパンをもうひと切れ切り分けて、ラズベリーのジャムを塗って、男の子に差し出しました。男の子は「ん」と言ってそれを受け取り、がつがつ食べました。
さて、朝ごはんを食べて、いつものようにお湯も飲みましたら、ゆみこさんは靴下を編み始めます。窓際の椅子に座って、色とりどりの毛糸を操るゆみこさんを、男の子は退屈そうに眺めます。
そうして、靴下を片方編み終わったころ、キンコーン。玄関のチャイムが鳴りました。やっぱりね。ゆみこさんは思います。今日は、どんな封筒が届いたのかしら。
「はいはい、今行きますよ」
一昨日や昨日と同じように、ゆみこさんは玄関を開けました。そして「あっ」と声を上げました。
玄関の前に、人が立っているのです。てっきり、今日も封筒が届いたのだと思っていたのに。
それに、なんだかこの人は奇妙です。顔には目も鼻も口もなく、皮膚は真っ黒で、所々つやつやと光っています。石炭です。人のかたちをした石炭が、ゆみこさんを訪ねてきたのです。
ゆみこさんはあんまり驚いたので、声も出せず、石炭の人を見上げました。なんて背が高いのでしょう。ゆみこさんが今まで出会った誰よりも背が高く、顔を見ようとすると首が痛くなってしまいます。
石炭の人はぐらりと揺れて、頭を少し下げました。それと同時に、深い緑色の角帽をさっと取りましたので、お辞儀をしたのだと分かりました。
「ごきげんよう、ゆみこさん。こちらに迷子のお手紙が届いていませんか」
とても丁寧な口調と声色で、石炭の人は挨拶をしましたので、ゆみこさんの緊張はほわっとほぐれて消えてしまいました。
ゆみこさんは、石炭の人をお家に招き入れました。石炭の人は帽子とコートと革靴を脱いで、ゆみこさんに深々とお辞儀をして、お家に上がります。
石炭の人がリビングに入りますと、椅子に座って凍った足をぶらぶらさせていた男の子が、ぎょっと目を見開きました。いたずらがばれた子供そのものといったふうです。
男の子が台所へ逃げ込む前に、石炭の人は男の子の首根っこを捕まえて「こらっ!」と一喝しました。ゆみこさんは慌てて「まあまあ」と、石炭の人をなだめます。
「何があったか存じませんが、そんなに怒らなくても。ほら、怯えてしまっているじゃありませんか」
石炭の人は「失礼」と言って手を離します。その隙に、男の子はゆみこさんの背後に身を隠しました。
椅子を勧めますと、石炭の人はまた「失礼」と言ってから座りました。ゆみこさんは、ちょっと迷ったすえに、カップに注いだお湯をお出ししました。石炭の人には口がありませんので、飲めるのかしら、と思ったのです。
石炭の人はお湯の入ったカップを見て、それからゆみこさんの方を見て、「お気遣い感謝します」と言いました。本来は口があるべきところへ、カップを持って行ったところを見ると、飲むという行為は可能なようです。
ゆみこさんは、失礼なことだとは分かっていつつも、石炭の人をしげしげと眺めずにはいられません。彼が着ているのは、どうやら郵便配達員の制服です。深緑色のジャケットに、同じ色のズボン。白いシャツに、えんじ色のネクタイ。
ということは、石炭の人は郵便局員なのでしょう。それで、迷子になったお手紙を探しにきたのです。
ゆみこさんは、足の凍った男の子のほかに、もう一通お手紙があることを伝えました。毛糸の入った籐のかごを、石炭の局員さんに差し出します。中ではもちろん、小さな猫の女の子が、安らかな寝息を立てて眠っています。
「これはこれは、よっぽど安心できたのでしょうね。ここで眠りについてしまうとは」
石炭の局員さんはジャケットの懐から、木製のスタンプを取り出しました。そして、膨らんだお餅のような形の木製の柄で、猫の女の子の頭をコツンと叩きました。優しく、ノックするように、二回。
「これでよし。明日には目を覚ますはずです。そのころにまた、伺ってもよろしいですか」
「ええ、もちろん」
ゆみこさんは寂しく思いながらも、うなずきました。迷子のお手紙は郵便局員さんに引き取られて、正しい宛先へ配達されるのでしょう。もちろん、それが一番いいのです。
「ではまた明日、今日と同じ時間に伺います」
石炭の局員さんはお辞儀をして、それから、椅子に座っている男の子へ手招きをしました。
「おまえは、迷子ではなく、逃げ出したのだからね。今すぐ、私と一緒に来なさい」
「やだあ」
男の子は駄々をこねて、台所の方へさっさと逃げてしまいました。石炭の局員さんの顔が、橙色に赤熱します。ゆみこさんは「良いんです」と言って、男の子の姿を隠すように、石炭の局員さんの前に立ちました。
「子猫ちゃんが目を覚ますまで、この子も、私が面倒を見ますわ」
石炭の局員さんは、困ったように唸りました。彼も、彼のお仕事を全うしなければならないのでしょう。
長考のすえ、局員さんは「分かりました」とうなずきました。
「この家は、よほど手紙たちにとって居心地が良いようですね。明日、私が来るまでは、あの子の世話もお願いします」
「ええ、もちろん」
台所の方を見ますと、男の子が険しい顔つきで、事のゆくすえを見守っています。ゆみこさんが微笑みますと、男の子の姿はドアの向こうへ消えてしまいました。けれど、とったとったとリズミカルな足音が聞こえてきましたので、彼が小躍りをしていることが分かりました。
「では、また明日」
念を押してから、石炭の局員さんは帰っていきました。
ゆみこさんは、ふうと息をつき、窓際の椅子に腰かけます。久しぶりのお客さんでしたので、少々疲れてしまいました。それに、なんだか胸のあたりに、隙間風が吹いているような気持ちがします。
籐のかごを覗き込みますと、今朝とほとんど変わらない姿勢で、子猫の女の子は眠っています。明日には目を覚ます、小さな生きもの。目を覚ましたら帰ってしまう、可愛らしい生きもの。
「ねえ、お腹すいた」
いつの間にか小躍りをやめた男の子が、ゆみこさんのすそを引っ張って言いました。
「そうね、お昼にしましょうか」
ゆみこさんと男の子は、缶に入ったコーンスープをお鍋に開けて温めて、クラッカーと一緒にいただくことにしました。だけれど、温かく甘いスープを飲んでいる間もずっと、ゆみこさんの胸には、冷たい北風がぴゅうぴゅう吹いているのでした。
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