祭りの夜

えんがわなすび

カジハミ


 郷土祭りを調べるようになったのは、ほんの興味本位だった。

 大学生活に慣れ始め、サークルにも所属せずにボロい安アパートと大学を往復するのに飽きてきた頃、構内の掲示板に『郷土祭』という文字が踊っているのが何故か目に焼き付いた。それからなんとなく図書館で郷土のことを調べるようになって、実際に現地に行くようになって、なるほどこれは面白いかもしれないと思い始めた頃にはもう頭の中は郷土祭りのことでいっぱいだった。

 そうして、ぼくはその山村に半ば導かれるように訪れたのだ。


「東京から人が来るなんて滅多なことでねぇから、なんにもできゃせんけど」

 楠木と名乗った村の一番偉い人――村長なんて大それたものではないと彼は言った――はお盆に乗せた緑茶と茶菓子をぼくの前に置いた。ヨレたシャツと作業着のようなパンツを履いた、白髪でしわくちゃの枯れ木みたいな人だった。

「とんでもないです。ちょっと祭りを見させていただくだけでありがたいのに、お茶までいただいて」

「いやあ、遠がっただろうに。カジハミは夜だせぇ、ゆっくりしてくだせ」

 そう言って楠木は縁側にぼくを残して居間の奥へと消えた。昔話に出るような茅葺屋根の彼の屋敷は他に誰も住んでいないのか、だだっ広いばかりで静かなものだった。

 縁側に腰掛け遠くを見れば、いくつもの山が連なり青空と緑がコントラストを生んでいる。庭は手入れをしているのかしていないのか、足の伸びた雑草がそこかしこに生えていた。それを見ながら出された緑茶を一口含み、先程楠木が放った言葉を口の中で転がした。

『カジハミ』

 この地方に伝わる古い祭りだという。正確な日付は決まっておらず、その年の秋の終わりに催されるらしい。秋祭りか収穫祭のようなものかもしれない。なにせここに来るまでにどんなに調べても、秋の終わりに村全体でカジハミを迎えお祭りする、としか分からなかったのだ。けれどカジハミが何なのか理解する前に、ぼくは次の休みにはもうここに向かう新幹線の予約を取っていた。


 夜を迎えるまで村内を見て回り――と言っても山奥過ぎて見るものもなかったが、漸く茜色が山の向こうに食われた頃、楠木がぼくを呼びに来た。何か準備があるのかと思っていたが、彼は手ぶらだった。

「なんせ村のもの以外を参加させるのは初めてだもんで。なんかあったらいきゃせん、どうか祭りのうちは声を出さんでくれ」

 そう言われてぼくは一瞬息の止まるような息苦しさを覚えたが、楠木の皺の寄った目を見て緩く頷いた。声を出すなとは、どういうことだろうか。以前行った他の郷土祭りで、神聖な儀式だから騒いだりしないでくれと言われたことがある。それと似たようなものだろうか。


 村の広場でやるからと案内され着いていくと、既にほとんどの村人が集まっているようだ。過疎地なので二十人もいない。ほとんどが年寄りで、ぼくは老人ホームの集会にお呼ばれしたような気持ちになった。

 見渡せば、みんな一定の方向に体を向けて目を瞑っている。広場に着く前に、ぼくは楠木にもう一つお願いされていた。

 着いたら目をつぶってくだせ

 これもよく分からないが頷いた。その地方には地方のしきたりのようなものがある。ぼくは郷土祭りを楽しみに来ているだけで、その地方の習慣を否定するために来ているのではない。そういうもんだろうと飲み込むのが手っ取り早いと知っていた。

 ぼくは楠木に案内され、集団の真ん中に立った。楠木はその隣に立ち、早速目を瞑った。ぼくもそれに習う。

 途端、暗闇が全てを遮断した。真っ暗な中、全く知らない土地で目を瞑る事に足元からじわじわと闇が這い上がってくるような気持ちの悪さを覚える。遠くの方で名前の知らない鳥がギャーギャーと鳴いている。風が後ろの山をぞわぞわと動かしている。ぼくはぎゅっと拳を握った。


 いつまでそうしていればいいのか。何分そうしていたのか。誰も音を立てないことにだんだんと不安になってきた。祭りはもう始まっているのか?だとしたら何をやっているのか。まさかこのまま何も見えないまま終わりだと告げられるんじゃないだろうか。そう思うといよいよ焦りが募り、ぼくは思いきってそっと目を開けた。


 村人全員が、ぼくを凝視していた。


 皺の寄った目が、死んだように虚ろな目が、何十の目がそこだけ小さな白玉を浮かせたようにこちらを見ている。「ひっ!?」喉から空気が漏れるような悲鳴がぼくの口から飛び出した。あまりにも異様だった。

「あ~、いぎゃんね。いぎゃん。よそものよ。口をききよったわ」

 感情を落っことしたような声で喋ったのは、ぼくの隣にいた楠木だった。彼も虚ろな目でぼくを凝視している。少し開いた口から涎が一筋垂れていて、しきりにいぎゃんいぎゃんと繰り返している。後退ろうとも、手を伸ばせば届きそうな範囲に村人が取り囲んでおり身動きが出来ない。

 その時、楠木の後ろで何かが蠢いた。


 ぼくはそれを見たとき、小さい頃母と一緒に行った祭りで群衆の中踊っていた獅子舞を思い出していた。

 体は普通の人だった。ちょっと古臭い民族衣装のようなものを着て、小柄な男性のように思えた。ただ、首から上は違った。鹿のような角が生え、わにのように耳まで裂けた口が顔半分を占めている。これが『カジハミ』なのか?

 そいつは楠木の真後ろに立ったかと思うと、次の瞬間にはその口を開けて楠木の頭を丸ごと食い千切っていた。一拍遅れて皺枯れた首から噴水のように血が吹き出し、支えを失った体が重力に負けてぐちゃっと倒れた。

「ひあああ!?」

 黒板を引っ掻いたような音が、自分の悲鳴だと気づくのに随分とかかった。

 一瞬にして血溜まりが出来上がり、目の前には口からぼたぼたと血液を垂らしている異形頭がくちゃくちゃと顎を動かしている。たたらを踏んで後退ると背中に何かがぶつかった。振り返ると知らない老人がぼくを虚ろな目で見下ろしていて、半分開いた口からは小さくいぎゃんと聞こえた。どこかで知らない鳥がギャーギャーと鳴いている。限界だった。


 突然、左腕をぐっと掴まれ、ぼくは心臓が爆発する錯覚を起こした。

「こっち、早く!」

 甲高い声に驚くと、左隣りで女の子がぼくの腕を掴んでいた。真っ白なワンピースに少しウェーブのかかった髪が小顔を隠すように垂れている。ぼくと年齢は変わらないように見えた。こんな若い子が村人の中にいたのか。

「え、あ ?」

「いいから!村の入口まで走って!」

 その体のどこにそんな力があるのか、彼女はぼくの腕を掴んだまま虚ろな目の村人を掻き分け走り出した。一瞬血溜まりに足を取られそうになったが、なんとか立て直して引きずられるように走る。押し分けた老婆から腐ったような臭いがぷんと鼻に付いた。カジハミはまだくちゃくちゃと顎を動かしていた。


 村の入口は一本の道しかない。外から来ると山道から細い側道に入り、そこから何十分も歩くようなところだった。そこへ向けて女の子とぼくは墨をぶち撒けたように暗い道を走る。街頭も何もないのに、彼女の足は正確に地面を蹴っていた。そして時折その小さな口から「やっぱり駄目だったんだ」という言葉が聞こえてくる。ぼくには意味が分からなかった。

「ねえ、ちょっと……!あのっ!」

「ここから出れば大丈夫だから!振り向かないで走って!逃げて!」

 何を聞かせてもらうでもなく、彼女はぼくの背中をどんと突き放した。反動で大きくよろめき、転がるように茂みに突っ込む。耳元で草ががさがさと擦れた。

 全身を擦りむき、地面についた手のひらがじんじんと痛む。はっとして体を起こして来た道を振り返れば、少し遠くに女の子のシルエットが佇んで見えた。ワンピースの裾が風で揺れている。

 かと思えば、彼女のシルエットの背が徐々に高くなっていく。――否、後ろから今まさにその小柄な頭を食い千切ろうと大口を開けた化け物が立っていた。カジハミだ。

 それを認識した瞬間、ぼくは全力で走り出していた。


 遠くの方で名前の知らない鳥がギャーギャーと鳴いている。風が後ろの山をぞわぞわと動かしている。

 側道への道が見えたとき、ぼくはその時になって漸く女の子が楠木のような方言ではなく、綺麗な標準語を話していたことに気がついた。

 後ろで何かが弾けたような音がした。

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