雨後の彼方
あきかん
第1話
くわえた煙草をゆっくりと吸いながら、男はこちらをみつめている。日に日に早くなる日暮れの赤光が窓からさす、午後4時過ぎの部屋の中、リビングの椅子に座って彼は、ふたたび煙草に火をつけて大きく吸って煙を吐いた。
「結婚、おめでとう」
男は裸のわたしから目をそらすように言った。
「そんなことより、換気してくれない?」
と、私は心ここにあらずで聞き流した。脳裏では、久しぶりに会ったこの男シュンの姿を幾度も反芻していた。ひょろりと痩せて、わたしより少し背の高い、その姿。雨に濡れた髪を梳かしながら肩をすくめて煙草を吸っていた。
「臭いから止めてって言ったよね」
と、出会いがしらにわたしは言った。
「今さら止められるかよ」
今年で四十歳になる、どうしようもない無職の男は言った。昨夜から続いている雨の中、男はそうっと顔を見上げてはにかんだ。時代遅れの男に似合っている紙煙草を、床に落として踏み潰すと、まるで幼い子供を扱うように右手を差し出した。昔よりもガサガサした肌で、会わなかった時間の経過を掌に感じた。
私がこの男と別れたのは、18歳だった。あたらしいものに、希望を見出す気持ちがあった。軽蔑と、言葉にならない、わずかばかりのいとしい気持ちを抱いて、振り返りもせず、男を見捨てて出て行った。
「結婚式の前に風邪をひくなよ、香奈」
シュンは部屋に投げ捨ててあったワイシャツを投げてよこした。
「私のを取ってよ、シュン」
怒られて、男はうざそうに私をみた。ボクサーパンツを履いて、上着も着ないで、わたしのことなど気にもせずに、窓を開けた。
「飯にするぞ。シャワーを浴びてこい」
男はそう言って、私の頭をくしゃくしゃ撫でる。ふるびた、煙草臭いみじめな男からは、この5年前と変わらない、雨が降る前の湿った空気の匂いがした。それは、この男と初めて出会った日の匂いなのだと、今ならわかる。顔を見上げて、ぶすっと拗ねて見せると、男は昔と変わらず困った顔をしてキッチンへと逃げて行った。その顔を見るたびに、こころが黒く淀んで、指と肌が軽く触れるだけで、からだは、勝手に喜んでしまう。この喜びはいまここで感じているものではなくて、はるか昔の、遠い過去の、それこそわたしが生まれる前に生まれた、沈殿したヘドロのあぶくのようなものだった。小さいころのわたしは男と手をつなぐために手をあげて、その手が徐々に下がっていって、いつしか自然に手をつなげるようになった。
二人で、目的地もなく、並んでぶらぶらと歩き続けた。ずっと続くとおもっていた。そんな日々はすぐに終わりを告げた。
シャワーから戻ってきてもシュンは何も言わないので、私は小さくつぶやいた。
「明日、本当に結婚するのね」
「してもらわないと困る」
と口にするだけで、まずそうな顔をし黙って食事を続ける。この男はいつもそうだ。私もそれにならい、黙って食事をする。長いあいだ一緒に暮らしていたけれど、私と、この男は、今までもあまり会話というものをしなかった。好奇心と興奮に満ちた時期なんて記憶のかなたのはるか昔のことで、その時期ですらこの男のわたしを見る目は、苦虫を噛み潰したような顔をして。残ったのは、この人にはわたししかいないという、信仰にも似た、確信。この男は、いったいどんな顔をして、あの日、あの時、親族連中から押し付けられた、泣くこともできなかったわたしを引き取ったのだろうか。
試すように何度も問題を起こしたわたしを、決して見捨てようとはしなかった、この男が見せる、悔恨にも似た、私にだけ見せるあの顔を見るにつれて、私も離れられなくなったのだ。
「明日、本当に結婚するんだな」
珍しく男が食事中に口をする。私は軽く微笑んで答えた。私の男は、目の下にしわを寄せて、唇の端をゆがめて、すこしだけ笑っていた。
雨後の彼方 あきかん @Gomibako
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