第3話 秋から…

 トタン造りの建物は駅の向こう側でも見た事がある。狭くて汚い飲み屋が十軒ほど向かい合って並んでいるところだ。店の入口側は一応モルタル壁になっているが裏に回ればトタン板がむき出しだ。戦後の闇市に店を出していた者たちがそのまま居座って、昔はもっと沢山建っていたけれど、一軒立ち退くごとにそこは更地にされ、今、飲み屋のまわりはすっかり原っぱになっている。


「あそこは役所の土地なのにさ、いくら言っても居住権があるって立ち退かないんだってさ、あれはね、全部不法占拠なんだよ。やだねえ」とばあちゃんが母さんに言っていた。だったら、博も〝ふほーせんきょ〟なんだろうか、〝きょじゅうけん〟はあるんだろうか。あたしは見てないよ、なんにも。


 ちなみに、克己が中学2年生になったある夜、〝ふほーせんきょ〟の飲み屋は火事で全部燃えてしまった。周りは空き地だったから、そこだけきれいに燃えたんだそうだ。翌日克己が見に行ったら、空き地には杭が打たれて焼け残った店の取り壊しが始まっていた。

「なんたって、もうすぐオリンピックだもんね」と近所のおばちゃんが訳知り顔に言っていた。オリンピックが来るから町はきれいにしなくてはいけないそうだ。


 明日は二学期の終業式という日、忘れ物をして克己は教室に戻った。もう誰も残っていないはずだったのに黒板の前に総一郎がいた。元々左利きの総一郎は両手で文字が書ける。今も両手にチョークを持って〝5年2組〟〝三津谷総一郎〟と同時に書いている。右手は普通に、左手は鏡文字になっている。その背中がどこかいつもと違って見えて、一瞬声をかけられなかった。気配に気付いて総一郎が振り返った。

「あれ、どうした?」

「忘れ物だよ」あんたこそどうしたの? となぜか続けられなかった。

 聞いてはいけない事があるような直感があった。

「そっか」と言いながら総一郎は黒板消しで書いた文字を丁寧に消し始め、ふと手を止めると後ろ向きのままで、ぽつりと言った。

「俺さ、明日で死ぬんだ」

「えっ?」なにそれ? どういう意味? 言葉が競い合って飛び出す直前、教室の扉が開いた。「総ちゃんごめん、全部済んだよ」女の人の声だ。お母さんだろうか。「うん」一番前の机に置いていたランドセルを背負って、こちらを一度も見ずに総一郎は出ていった。


 翌日は終業式。校庭で校長先生の話を聞いて、教室に戻って通知表をもらう、広げて互いに見せ合う者、胸に抱くようにして隠す者、いつもの風景だ。克己は昨日の総一郎の言葉が気になって落ち着かない。先生の冬休み中の注意も耳に入ってこない。気になるのに総一郎の方が見られない。やがて先生が一段と声を張り上げた。

「はい静かに。三津屋」と総一郎を手招きする。総一郎がゆっくりと立ち上がり担任の横に立った。

「え~、三学期から三津屋総一郎君は別の学校に行く事になりました」

「え~っ」と教室がどよめく「なんでぇ~」「どこに行くの?」「5年生終わるまでいようよ」

「東京都北多摩郡小平というところに引越す事になったんだ。三津屋くんのお父さんがそこに新しい家を建てたから、ご家族は新居でお正月を迎えるんだよ、みんなとも…… 」

 先生の声が聞こえなくなる。なんだよ、いなくなるって! うそだろっ! どおすんだよ、学級委員、リレー、お前いなくなったら私、どうしたらいいんだよっ!

 無言で睨みつけていたけど、総一郎はそっぽむいててこっちを全く見ないまま席に戻った。先生が用意した総一郎に渡す色紙が教室を回る。克まで回った時にはクラスの大半が書いていて隅っこしか空いていなかった。〝元気でね〟とか〝ありがとう〟〝さようなら〟と書かれた色紙を前にすると、現実はもう動かせないんだと思い、腹が立っていたのが収まってきたら急に胸が締め付けられるように苦しくなった。書く事が浮かばない〝さよなら〟なんて絶対書きたくない。

 克己はリレーのバトンの絵だけを描いて横に名前を添えた。


 正月が終わり、もしかしてしれっと登校してきてないか、という期待は簡単に消えて、年度末の学校は何もなかったかのように動き始めた。


 それから一か月程たった頃、家のポストに克己宛の大きな厚紙の封筒が届いた。宛名には住所を手書きしたシールが貼られていた。文字を見ただけでは分からなかったが胸騒ぎがして開けてみると、普通の板チョコと製菓会社からの印刷された手紙だけが入っていた。

『アメリカには2月14日に 親しい人や大切な人にチョコレートを贈る習慣があります。そこで私どもでは皆さんにこの習慣を知って頂き、親交を深めて頂くお手伝いをしたいと思い 新宿でお知り合いの住所を書いて頂けばその方に弊社からチョコレートをお送りするという催しを致しましたところ、お知り合いの三津屋様からご依頼を頂きましたのでお送りいたしました。今後とも…… 』

 文面では〝三津屋〟だけが手書きになっているから、シールの住所と名前だけ書いたのだろう。〝大切な人〟という文字から目が離れない。私の住所覚えてたんだ。私はあんたの新しい住所知らないのに。これがほんとの最後な気がするから嬉しいのになんかさみしいよ。


 板チョコは3日間机にしまって、2月14日に雪乃と銀紙ごと半分こして食べた。

「ずっと前に姉ちゃんがぶん殴った子だよね」と雪乃が言った。

「あの時 うちの住所書いてって言われたんだよ。書けないから泣いちゃった」

 そっか、あの時もう引っ越すことは決まってたのかもな

チョコは甘くて少しだけ……くて   美味しかったよソウチ。               



 

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昭和オールバック 真留女 @matome_05

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