第2話 夏から秋へ
夏休みが終わり、二学期が始まると運動会、学芸会、遠足と楽しい事が一杯ある。
でもひとつだけ、なければいいと思うのは参観日だ。うちの学校には大通に並んでる昔からある店の子が多いから、参観日には、この学校の卒業生でもある父さんや爺ちゃんが沢山やって来て、知り合いと会うと昔話を始めて、授業なんか見てなかったりする。うちの父さんは朝、青果市場に仕入れに行ってそのままやって来るから、青い前掛けで大きな番号札のついた帽子を被っている。いつも見てる格好だけど、背広姿でソフト帽をかぶった宏美のお父さんと並んでいるとやっぱり恥ずかしい。もちろん、そんな事言っちゃいけないくらいは分かってるんだけどさ。まあゲタ屋の親父みたいに「ほら、手を挙げろよ、お前こんな事も分んねぇのか!」って授業中に大声出さないだけましだけど。
そんな卒業生一杯の町だから運動会には町を挙げて熱くなる。生徒が描いた運動会のポスターはどの店にも、町会の掲示板にも、時には電信柱にも貼られている。当日親たちは店を休み、早朝からゴザを何枚も持って校門の前に並ぶ。門が開けば駆け込んで場所取りだ。そんな時にも「小学校の時からかけっこであいつには負けたことがない」なんて自慢して、開会式の何時間も前から盛り上がっている。そこに、お弁当を詰めた重箱持って母さんたちがやって来る。開会式の頃には応援席は大盛り上がりだけど、お昼のお弁当までは一緒になれない。校庭の向かい側に陣取った親たちを探して、手を振れば、最高の笑顔で振り返してくれる。
町を挙げての行事だから、運動会の演目には昔っから、町会綱引きや有志参加の地区別リレーがある。昼間から一杯機嫌の肉屋のおやじを風呂屋のおばちゃんが思いがけないスピードで抜いてったりして応援席は生徒も父兄も声援や爆笑で盛り上がる。
母さんたちの晴れ舞台は子供たちが応援席に戻って来る昼食休憩だ。昨日の晩から準備した重箱の中にはそれぞれの家の自慢のおかずや海苔巻が大量に入っている。それをあっちともこっちとも取り替えっこするのも楽しみの一つ。さすがに学校行事だからおおっぴらに飲酒は出来ないが、父さんたちは水筒にこっそり忍ばせた〝お神酒〟でしっかり出来上がっている。先生たちも運動会が終われば、PTA主催の慰労会で飲むもんだから、見て見ぬふりだ。花見みたいに、よく知らない子でも一人でいたらござに呼び込んで一緒に食べさせるから、親が来られない子だって心配はない。突然校庭に寿司屋の自転車が入って来て、もらうばっかりのやもめの旦那が頼んだ大量のかんぴょう巻を届けて、帰りは配達の兄ちゃんが寿司桶に色んな家の弁当のおかずをもらって帰ったりもする。
運動会の競技で一番の盛り上がりを見せるのは、やはり学年別リレーだ。各学年ごとにクラス対抗で競う伝統種目で、得点には関係ないのだが、組を紅白に分けて行う競技の詳細が運動会終了と共に記憶から消えるのに比べ、3年間変わらないクラス同士で競い合うリレーはどうしても勝ち負けに深い遺恨が残る。公園での自主練の時点からバッチバチで「5組になんか二度と負けない!」「1組は隠れて練習してる」と熱くなる。
克己は紅白の鉢巻を外し、リレー用の色鉢巻をギュッと締めた。2組の色は黄色、4組は問題外だし1組と3組にも負ける気がしない、テキは去年惜敗した5組、水色の鉢巻をもう後ろから見たくない。絶対に見るもんか。
入場門に整列して、小走りで入場する。低学年から競技は始まる。一年生のリレーでは熱くなった親が8ミリカメラをのぞいたままトラックに入ってしまって笑われるなど、まだまだのどかだが学年が上がるにつれて場内の声援は強く大きく真剣になっていく。
克己は第三走者、第二走者がコーナーを回った時点でやはり2組と5組の競り合いになった。トップでバトンを受け取って走り出すが、5組が内側から抜きに来た勢いで外へ大きく押し出された。会場がどよめく。なんとか転ばずに踏みこたえるその間に追い抜かれて4位になってしまった。火が付いた、というより怒りで耳がキーンとなった。足が今まで体感した事がない程地面を蹴る。三人全部抜いた。声援が轟音となって全身を包む。どうやら息をするのを忘れていたらしい、最後のコーナーを回った時、急に体がぎこちなくなった。動き方が分からない、瞼が下がって来る。横を5組が抜いて行く。
その時、騒音を割くように真っ直ぐ声が届いた「カッツン! ここだっ! ここまで来いっ!」声のする方に目を開ける、総一郎だ、アンカーの総一郎だ。あと少し、あともう少し、バトンを持った手を前に突き出した。頼りなく揺れたバトンがしっかりと受け止められた。
「カッツン、まかせろ」総一郎の背中を見ながらコースの内側に転がって入り大の字になって空を見た。カッツンかよ、幼稚園以来だな。幼稚園では〝カッツン〟〝ソウチ〟と呼びあっていたよな。低学年の3年間はクラスが違ってたからもうそんな呼び方忘れてたわ。
息が整ってくると同時に校庭を包むどよめきが聞こえて来た。四つ這いに起き上がると最後のコーナーを2組と5組が競り合って曲がって来る。目の前に来た時思い切り叫んだ「行けぇ~! ソウチ~!」少しだけほんの少しだけ総一郎の表情が変わって、声が届いたのが分かった。
二人の走者はそのままゴールした。克己の位置からでは結果が分からない。ゴールテープを持っていた二人の先生が本部テントに行って校長と話している。克己は促されて走者順に並ぶ2組の列の後ろに座る。
やがて、拡声器を持った先生が朝礼台に上がった。「学年別リレー5年生の結果を発表します。一位は2組……」わぁ~っと声が上がる
「……と5組の二組同着です。その為1組は3位…」拡声器の声も消える程の歓声と悲鳴とブーイング。走者列にアンカーが戻って来た。膝を抱えて座っている克己の後ろに座った総一郎が「カッツン ごめん」と言った。克は振り向かないまま、ただ何度も強く首を横に振った。こらえてもこらえても流れ落ちる涙を見られたくなかったから。総一郎が5組に勝てなかったから泣いていると、思われたくなかったから。
このあたりでは、小学校を卒業したらほぼ総ての生徒が地元の中学に進学する。一族揃って学習院だ慶応だという家の子は幼稚園、小学校からそちらにいっていて公立小学校には来てないし、何より都内で進学校と言えば公立高校が肩を並べて競い合っているのだから、優秀な子は公立コースから外れたりしない。ほんの一部、〝男女七歳にして席を同じゅうせず〟という考えの親または祖父母のいる女子が、学校の教育方針に〝良妻賢母の育成〟を掲げる女子校へ進学する位だ。彼女たちはそこで授業の一環として茶道や華道、和裁に調理、時には薙刀までを仕込まれるという。オガサワラ流という礼儀の授業もあると聞いてきた母さんが「克己、お前も行くかい?」と言った事があるけど。もちろんまっぴらだ。あたしは今の仲間たちみんなと一緒に中学生になるんだ。
中学では神田川の上流の住宅街にある中山小学校とうちとが合流する。こっちは店屋の子が多くて、あっちは勤め人ばっかり、こっちの祭りは諏訪神社だけど、あっちは穴八幡。こっちの方が境内も広くて屋台も多くて見世物小屋だってかかるけど、あっちの方が人が集まる有名神社だ。どんな連中が来るんだろう。まあ、今の友達と一緒なら何にも怖くないけど。
駅の前を横に真っ直ぐ伸びる早稲田通りの両側には店がずらりと並んでいる。駅に近い場所には三階、四階建ての鉄筋ビルが建ち始めて、銀行や喫茶店が入っている。駅から離れると一階が店舗、二階が住まいという個人商店が増えて来る。人通りの多い道路なのでどこもそこそこ繁盛しているがほとんどの店が改装などしていない。というのも、この辺りの大地主である山田家は借地の買取に一切応じない上に、店舗を新しく建て替えるには相応の挨拶金と地代の値上げとを要求しているからである。
だから、店主たちは店はそのままにして、支店を出したり、別に居宅を建てたり、学生向けのアパートを経営したりにもうけを使っている。克己の家も近所に建てた家で暮らしていて店の二階は休憩場所であり荷物置き場であり、放課後の遊び場になっている。
地図で見ると、その大通りと平行に神田川が流れているが、この間にはかなりの河岸段丘、つまり川に向かって、山から谷川に下るような坂道が何段かに分かれて続く。小学校は大通りよりかなり川よりの位置にある。克己には経験がないが、じいちゃんが通ってた頃には台風で川が氾濫し、小学校の正門の前の道路が水に浸かって池のようになり、ボートで被災者を救い出したんだという。今でも職員室の天井近くの壁には渡し船のような木製のボートが吊ってあるから、いつかすごい台風がきたらまた学校は沈んでしまうのかも知れない。
その年最大の台風は雨台風になった。学校は無事だったが、さらに川寄りの住宅は床上浸水になったと朝礼で聞いた。2組では博が休んでいた。「学級委員、博にプリントと宿題届けてやれ」と山口先生が言い。総一郎が預かった。〝ユカウエシンスイ〟見た事ないな見たいな、と思った克己は放課後総一郎の後を付いて行く。
「なんだよ、ついてくるなよ」
「だって、先生が学級委員行けと言った。あたしも学級委員だよ」
「いいよ来なくて、いつだって人に押し付けて帰るくせになんだよ」
〝ユカウエシンスイ〟が気になる。とは言えないから、黙ってついていく。
「来るなよっ!」総一郎が強く言って走り出した。負けるもんか、ついて走るとすぐに諦めたのか、また歩き始めた。学校からさらに下って川に出た。
小さな橋を渡る時、総一郎が立ち止まって振り返り真剣な顔で「ここで待ってろ」と言った。真剣で必死で少し哀しそうな顔を見て、足が止まった。
「ごめんな、ありがとう。すぐ帰るから」と言って、総一郎は背を向けると走り出した。
川は橋の下を左から右へ流れてから大きく左に曲がっている。総一郎は川沿いに曲がると姿が見えなくなった。
博はしゃれ者である。といっても、服装は皆と変わらない。どんどん成長するこの時期、ほとんどの子は数枚の服を体が大きくなって着られなくなるまで着せられるから、洗いざらしは当たり前、兄弟のおさがりもクラスでは普通の事だ。でっかすぎるのをベルトでギュッと締めてはいてる健の半ズボンがギャザースカートみたいになってても、からかう奴はいない。小柄な孝子は体格のいい同級生の宏美の着られなくなったワンピースを着ていると指摘されても「いいでしょ」と自慢して、むしろ宏美の方が恥ずかしそうだ。それでも博は襟の開き方に気を付けたり、坊ちゃん刈りの前髪をピンで斜めに留めたりしてるから、しゃれ者のイメージがある。
ただ待っているのにがまんができなくなった克己はゆっくりと橋を渡って、道沿いに角を曲がって覗き込んだ。
その先は、周りの宅地よりさらに一段下がった原っぱだった。元々家が建っていたのだろう地面から鉄管が突き出ていてその先に蛇口が付いている。総一郎はそこに立っていた。博も…… 博はしゃがんで蛇口から流れる水で横に積み上げられた泥まみれの皿を洗っていた。はのちびた大人のゲタをはいて、赤ん坊を背負っている。その向こうに家? 家があった。四方の壁も屋根も波型のトタン板を打ち付けただけの子供の工作のような家だ。原っぱには互いに寄りかかるように畳が二枚づつ立って干されている。くわえたばこの男がステテコ姿でホースを使い、家の壁面についた泥を落としている。それにまとわりついて叱られている幼児は博の弟だろうか。水に浸かったのは一段低いこの家だけのようだ。
総一郎は来るなと言ったのに…… とても悪い事をしたような気がした。目に飛び込んできた映像を消してしまおうと目をぎゅっとつぶった。それからそっと、橋のたもとまで戻って川を見ていたら総一郎が戻って来た。
「博、来週から学校来るって」「そっか」そのまま二人は黙って帰った。
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