昭和オールバック

真留女

第1話 春から夏へ


 雨上がりの木の枝からポツリとしずくが脳天に落ちたように、ドブ川の底で溜まりに溜まったメタンガスがこらえきれずに水面にポカッと浮かび上がるように、脳みその一番高い所に突然何かが生まれて高原克己は足を止めた。

 そういやぁ あたしももう5年生か毎日毎日この道歩いて、もう何回通ったろう? 正味で4年と3か月、年300日として1200回、往復だからえっと、2400回になるのか……

 考えている間に脳のてっぺんからゆっくり降りて来た思いが鼻の奥をくすぐって、克己は人差し指で鼻の下をこすった。すると〝思い〟はふわりと口から飛び出した。

「もうこの道飽きたなあ」

 昨日までは何とも思っていなかった。けど、気付けば同じ時間に同じ道をいやという程歩いてきた、もう飽きたわ。


 突然、後ろからランドセルを叩かれてつんのめる。

「克っちゃん、遅刻するよ!」

 ゲタ屋の昭子が走り抜けて行く。なあにあいつになんか負けるわけがない、あたしは、学年別でも紅白でも地区別でもいつだってリレーの代表なんだから。だんだんと数が増えていくランドセルの間をすり抜ける風のように昭子を追って克美は走る。ゴールの校門に飛び込むのは絶対私が先だ。


 昭子をぶっちぎって5年2組の教室に飛び込む。ほーらみろ、あたしの勝ちだ。「おはよっ」と言い合いながら自分の机に向かう、二つがひとつにくっついた形の机の隣は下津昭、いつも刈りたての坊ちゃん刈りに正ちゃんキャラメルの男の子みたいな学帽を被っている昭は机の真ん中の線にきっちり合わせて教科書を出している。それ見るとなぜだろうイラッとする。ランドセルの荷物を机に移して椅子にランドセルをかけてると、カス子がじわっと寄って来た。「かっちゃん、給食休みにブランコ取っといたよ。乗る?」って言って眼鏡越しに上目遣いでこっちを見てる。

 給食休みとは、給食当番が給食を配る間、邪魔にならないようにそれ以外の子供たちが校庭で遊んで待つ時間のことで、一番人気のブランコを朝からハンカチを結んだり、靴を置いたりして取っとく奴がいる。もちろん先生に見つかったらアウトだけど、校庭の一番奥にあるブランコは職員室から死角になるからチャレンジはたいてい成功する。

 それにしてもカス子いや和子がなぜそんなリスクを? 克己はすっかり忘れていた昨日の出来事を思い出した。


何人かで宏美んちで遊んだ夕方、和子が家に電話すると言い出した。こないだ和子んちにやっと電話がつながったからそんな事言いだしたんだと思った。うちは商売してるから電話は前からあるけど、クラスにはまだまだ電話のない家も多い。なんだか、めんどくさいなと思ってたら、和子の第一声で全員びっくりした。だってクラスで宏美んちと和子んちだけがパパママと呼んでいると言ってたのに「もしもし、あっおかあちゃん?」て言ったんだもの。みんなはゲラゲラ笑ってたけど、なあんでそんなウソをずっとついてたんだと思ったら、克己は笑えなかった。みんなにからかわれて笑いながら、和子はじっと克己を見ていた。


きっと和子は勝手に怖がって、朝から機嫌取りに来たんだ。またまたつまんねえことするなあと思ったけど、「乗るよ、ありがと」と言ったらほっとしたようにニコッとしたので、まあいいかと思った。


克己はクラスではちょっと特異な存在だった。成績はいい、気性ははっきりしている。それでも子分を作って親分になろうとはしない、もちろん誰かの子分になんかならない。担任の山口先生は克己をヒイキしてて学級委員とか班長とかをすぐ任すからクラスじゃ一目置かれてる。


教師のヒイキは普通の事だった、親が社会的にまたはPTAなどで力のある子、先天的に甘え上手な子(これは男女を問わず存在する)等がその恩恵にあずかる。ただ、そういう事を良しとしない教師もいるから、これは人と人との相性みたいなものでクラス替えのたびに彼らの立場は変遷する。

 ただここにもうひとパターン、どんな教師にでもヒイキ、まあそう見える程便利使いされる子がいる。教師の指示や意図を的確にキャッチして、今クラスがどの方向に行けばよいのかを判断できる子。いわば牧羊犬のような子である。

克己は実に有能な牧羊犬だった。そしてクラスにはもう一匹いや、もう一人優秀な牧羊犬がいた。それが、三津谷総一郎。その二人がやらかした。


 それは一斉下校の時、だらだらと下校していた克己を追いかけて来た女子が息を切らして「かっちゃん大変だ、雪乃ちゃんが……」と校門の方を指差した。みなまで聞かずに克己は駆け出す。小学二年生の雪乃は克己の妹だ、一年生の時肺浸潤を患って数ヶ月学校を休んだせいか、色が白くて体も小さい、引っ込み思案で大きな声も出せない……

 校門の前にある空き地に総一郎の背中が見えた。そばにはいつもの博と元太。その間からこちら向きの雪乃の顔、怖がってる。

 走り込んでそのままの勢いで総一郎の頭を殴りに行く。足音に気付いた総一郎は振り向きながらひょいと頭をずらした。こぶしは空をきる。ところが、腕に通していた草履袋が勢いよく総一郎の顔面を捉えた。

「うっ」と言って、顔をおさえてしゃがみ込んだ総一郎の指の間から血が流れだした。その血を見た雪乃が大声で泣き出し、博や元太と克に付いてきた女子達が罵り合う。


 数十分後、二匹の牧羊犬は教室で憮然とする担任の前に並んで座っていた。総一郎は鼻の穴に綿花を詰めている。克己派の女子達が廊下の窓から口々に克己は雪乃を守ったんだと鳥の巣を突いたように騒いでいる。

「うるさい、悪いようにはしないからお前たちは帰れ」と担任に言われ「かっちゃん、雪乃ちゃん家まで送ってくからね」と言い残して外野は去った。

「さてと、なんで三津屋は二年生を脅かしたんだ?」

「脅かしてません。ちょっと、聞きたい事があったから……」

「でも、雪乃は怖がってました」

「どうだ?」

「……そうですけど」

「まあ、親御さんには」

 二人はビクッとする。理由の如何を問わず、克己が男子をぶん殴ったなんて言われたら、父さんにもじいちゃんにも叱られるし、母さんは泣くだろうし、母さんはばあちゃんに叱られる。総一郎だって女子にぶん殴られて鼻血を出したなんて父さんの耳に入ったら、まず今晩の飯は抜きだろう。

「黙っておいてもいいぞ。二人がもう二度とこんな喧嘩はしないと約束して、ここで握手するならだ」

 利害は一致した。二人は渋々だが握手をする。これで終わりのはずだったのに、帰り際「高原、妹思いもいいけど、もうプロレスはやめとけな」と担任が言ったばっかりに、克己はそれからしばらく男子から〝克道山〟とよばれるようになる。この話をもらしたのは総一郎以外にない。


 子供たちには子供なりの仁義があるから、既に当事者と担任の間で手打ちになった話を親には聞かせない。だが生徒間では口から口へと伝わって、話は克が草履袋を長島選手がホームランを打った時みたいにブン回して、総一郎が塀まで飛んだというところまで大きくなってしまった。そりゃあ、カス子もビビッて機嫌を取りに来るわけさ。


 自分がこんな風に言われるのも、いつも男子と間違われるこの名前のせいだと思っている。戦争中に病気で亡くなったという父さんの大好きだったお兄ちゃんの克哉という名前を、父さんは生まれて来る自分の子供にそのままつけると決めていた。けど、生まれたのは女の子。で戸籍の届を出しに区役所に言ったけど、〝克〟と書いたきり後が続かない…

 で、克己? おかしくないか? 父さんは大好きだったかも知れないけど、あたしは会った事もない、しかも病気で死んじゃった人の名前つけるって。

「戦争にも行かないで、病気で死んじゃった人の名前なんてやだ!」

って一回だけ言ったら、父さんに思いっきりひっぱたかれたから、もうなんにも言ってないけど。

 妹には母さんが〝雪乃〟ってつけた。あああ、あたしも二人目がよかったなあ。


 和子の取っておいてくれたブランコに乗った。学校のブランコはここらへんで一番鎖が長いから大好きだ。思いっきり漕いだら靴の先が空まで上がる。ブランコが下がり始めたら、その靴と靴の間に総一郎が仁王立ちしているのが見えた。両側に博と元太もいる。総一郎が横綱の土俵入りみたいに手をパンと叩いてから、左手を腰に当てて右手をチョキで突き出した。「あっ」奴らの魂胆が見えたけど、体はドンドン後ろへ行ってしまう。やっぱり、三人揃って指を丸くして目に当て、双眼鏡の形をしてる。

パン ツー 丸見え……

 後ろの最高点からブランコが前に進み始めた「うりゃぁあ~」前に行く勢いのままブランコから飛び降りる。三人が三方に逃げ出した。迷わず総一郎を追う。もう少しというところで、昇降口で給食当番が給食のおかずバケツのふたをお玉で叩いて「できたよぉ~」と叫ぶ。後ろには山口先生が立ってる。休戦だ。

 その時は大丈夫だったのに、下校するころ足首が痛くなった。少し引きずりながら帰ってたら、総一郎が足を指差して「痛いのか?」と聞いたから、思いっきり〝フンっ〟としてやった。


 夏休みの楽しみは〝片目のジャック〟に会えること。皇太子さまの結婚パレードをばあちゃんが見たいと言ったおかげで、うちにもテレビはあるけど、番組は夕方までお休みだし、家にいたら八百屋の店を手伝えと言われるから、いっつもゲタ屋の昭子と裏通りで遊んでる。宏美はいいよなあ、病院は手伝えって言われないもん。

ジャックがリヤカーをつけた自転車こいで、その裏通りにやってくる頃、表通りに並ぶ店の裏口に金ダライが並ぶ、その中には先に買ってある券が入ってる。一枚なら氷一貫目、二枚なら二貫だ。

 そのお兄さんがジャックと呼ばれてるのは〝片目のジャック〟という映画があったから、ジャックはいつも片目に黒い皮の眼帯をしている。ものもらいが出来た時のみたいに両耳にかけるのじゃなく、ひもが斜めにかかってる。背が高くて力持ち、ランニングシャツから出てる腕も半ズボンの足もスーパーマンみたいに筋肉モリモリだ。すごく暑い日は、後ろにヒラヒラの付いた兵隊さんの帽子を被ってるから、きっと片目は戦争でなくしたんだろう。

ジャックは、金ダライをのぞいて、券をポケットに入れると、リヤカーに戻り、荷物を覆っている麻袋をめくる。そこにあるのは大きな氷の塊。それを片刃ののこぎりで一貫目分四角く切り出すと、氷の切りくずが飛び散る。その頃には他の子供も集まってくる。ジャックが大きなカギばさみに氷の塊を引掛けて金ダライまで運んで行くと、子供がワッとリヤカーに群がって氷くずを手に取る。手に乗せればすぐに消えてしまうけどその一瞬がたまらない。冷たくなった手でほっぺたをはさむ、食べてるやつもいる。そんな子供たちをジャックは叱らない、いやジャックはいつだって一言もしゃべらない。克己はジャックの声を聞いた事がない。優しそうだけどどこか寂しそうで、目をなくしただけじゃなく、何かとってもつらい事があったような気がしている。


この町には戦争で体をなくした人が他にもいる。〝蕎麦屋のじじい〟には左手がない。腰は直角に曲がっていて、ブラブラする袖はベルトの左側にはさんで、右側にはなぜか箸箱をさしている。元々蕎麦屋の道楽息子で、親に叱られると「こんな貧乏くさい蕎麦屋なんか継げるか、俺は満州で一旗揚げる」といって飛び出したきり消息不明になってしまい、蕎麦屋は次男夫婦が継いでいたら、終戦後ずいぶん経ってから舞い戻って来たという。親はすでになく、片腕では仕事も出来ず、弟一家の居候になって暮らしている。時々、蕎麦屋が飼料として卸す、鰹節の出し殻を裏通りでむしろに広げて、雀や蠅を追いながら乾かしている。それを見ると、絵本で見た〝安寿と厨子王〟の盲目のお母さんが雀を追っている絵を思い出すのだが、〝じじい〟はそんなに可愛くない。いつも不機嫌そうで、ちょっかいかけにくる子供を鳥追いの篠竹振り回して追い払っている。

そういえば、じじいも人としゃべらない。戦争に行くとみんなあんな風になるんだろうか。


昭子んちの兄ちゃんも「ゲタ屋なんかつぶれるに決まってる。俺は継がない」と言って、今神戸で洋菓子を作る修行をしているらしいけど。大丈夫かなあ。ゲタ屋ゲタ屋とみんな言うけど、今は靴も置いていて、靴の修理もやっている。ここら辺りの小中学校の決まった上履きはこの店だけで売ってるから、新学期には行列だってできてる。

……潰れないよね。


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