第50話 終幕(参)


 其処はラーミウにとって見慣れつつある光景だった。あらゆる輪郭がない黒闇の空間。ラーミウは何処までも落下し、何処までも浮き上がっていた。

 矢庭に、両の眼がずきりと痛み、ラーミウは手で琥珀を覆った。

「……つう

 まるで眼の表面に焼鏝やきごてを当てられたような、激しい痛みだ。その痛みは眼窩の奥まで届き、脳裏を焼かれる。全身が強張り、ラーミウは力なく深淵の奥底へと誘われる。

 すると突如、世界は真白に変容した。ラーミウは何も無い宙に放り出されたまま、どぼりと目に視えぬ水のような場所に落とされる。

 息が出来ず、ラーミウは藻掻いた。水を搔こうにも身體も水も鉛のように重く、思い通りにはならない。加えて琥珀の痛みが熱を持つほどに強くなり、ラーミウは藻掻くことすらなせなくなっていた。

 不意に、何者かがラーミウを後ろから抱き留め、耳元で聲を鳴らした。

 

「掴まえた」

 それ何処かで聞いた覚えのある聲である。その聲主はラーミウを抱えたままへ上がった。

 また白い空間に投げ出されて、ラーミウは咳き込んだ。水はないのに、何かが絡みついた感覚だけはある。何度も咳き込んでようやく、ラーミウは先程の聲主を見上げた。

「シハーブ……じゃなくて、アウス様?」

 それはシハーブと同じ顔をした若者だ。否、年齢よわいは十五程度。小柄で、癖のない長い砂色を流している。そしてその右の眼には金剛石を宿している。

 アウスはラーミウの手を掴んで立たせると、静かな聲で応じた。 

「そうだが……既に二度会っているぞ」

 その眼は半眼にされている。ラーミウは「え」と頓狂な聲を発した。アウスは「ふむ」と呟くと、大きな手で顔の半分を覆って見せた。――その小柄な体躯な不釣り合いなほどに大きく細長い手には覚えがある。

 一度目はマウジ村で虚ろ狼に苦難している時。二度目は都の細路で目の痛みに苦悶していた時。ラーミウは琥珀を大きく開くと頓狂な聲を上げた。

「あ!あの時の……」

 アウスはふっと穏やかさのある微笑みを浮かべると、ラーミウの琥珀を指差して続ける。

「君の琥珀でに偶々出られたんだ。流石に貌を見られてはややこしくなるから隠していたが――」

 アウスは語を紡ぐのを止めた。静かに視線をラーミウの後方に向けると、其処にはふたりの女の姿がある。瑠璃を宿す者と紅玉を宿す者――カリーマとドゥリーヤである。ドゥリーヤはアウスの姿を認めるや、大きく紅玉を揺らして駆け寄った。

「アウス!」

 十五のままのアウスと異なり、ドゥリーヤは既に四十五。外見は母子ほどに離れてしまっても、尚も彼らは幼馴染の友なのだ。ドゥリーヤはアウスを抱き留めると、涙を堪えながら語を溢した。

「ようやく会えたな」

「はは……老けたな、ドゥリーヤ。サクルも、御前のようだったのだろうか」

 アウスは哀しげに目を細めていた。ドゥリーヤはアウスの胸の中で胸倉を掴み、絞り出すように聲を発する。

「なぜ、夜の民ザラームを庇ったりしたんだ」

 当然の疑問である。当時、アウスにとって、あの両人ふたり夜の民ザラームは赤の他者だ。命をかけて守ろうなど、常ならば思わない。アウスはドゥリーヤの震える肩を撫でると、静かに応じる。

「そうしないといけないと勝手に身體が動いたんだ――私も不思議だった。だが今思えば、相手が夜の民ザラームの繋ぎだったから、なのだろうな。ふたつの民を繋ぐ者を失ってはならない――民を守る白鏡の、本能のようなものなのかもしれない」

「……それで、死んでちゃあ話にならんだろう」

 まったくその通りだ、とアウスは苦笑した。ふと眼をドゥリーヤの向こうへ向ける、丁度カリーマもそばに寄り、啜り泣くドゥリーヤの背を擦っていた。アウスはカリーマの皺の寄った貌に浮かぶ瑠璃を見詰めて、静かに尋ねる。

「兄上は死んだのか」

あゝ……あたしも看取ってやれなかったけれどね」

「最後に、ジャウハラの地と――あなたを救ってほしいと」

 ラーミウの琥珀はじっとアウスを見据えていた。アウスはそっとドゥリーヤを身から離すと、目を伏せて独り言ちる。

「私がずっとそばで支えるのだと心に留めていたのに――これでは逆になってしまったな」

 項垂れるアウスの手をラーミウは優しくそっと握った。

「僕も、そうでした」

 十二の頃、幽閉されていたラーミウを救い出したのはサクルだ。その時から、彼のために在ろうと決め、彼のためだけに生きた。己の意思も捨てて、彼の命を果たすためだけに十年も各地を飛び回った。だが、気が付けば「己の成すことを探せ」と遺言を残されて生きるために背を押されている。

 アウスは苦笑すると、ラーミウの手を握り返した。その手には覚悟が表されている。死んだ兄の意志を共に継ぐという、確固たる色彩いろが宿っている。アウスはラーミウと共に、白と黒の空間の狭間にある玄星ゲンセイの姿を見据えた。

 それは、シハーブの姿ではない。ラーミウはその姿を認めたことはないが、三十年前、サクルと言葉を交わした際に用いていた姿である。

 小柄で、眼の大きな愛らしい少女。緩やかに波打つ豊かで長い黒髪が服の纏われていない彼女の白い肌を覆っている。アウスは低く静かな聲で尋ねた。

夜の民ザラーム。いいのか?」

「そのために此処にいるんだよ。みな、ヤトを――残された奴らをよろしく」

 玄星ゲンセイは何時もの妖しい笑みを浮かべている。彼は敢えて、ヤトに断言していなかった。僅かな望みを持たせることは残酷だと解してはいたが、それでも彼を泣かせたくはなかったのだ。

 カリーマとドゥリーヤは静かに頭を縦に振り、アウスとラーミウは明瞭はっきりと語を落とした。

承知わかった

 すると、玄星ゲンセイの身體が目映く白く輝いた。その白い光は次第に輪郭を解かせてゆき、ラーミウたちを包む。

 夜の民ザラームは元々、すべてを集め、黒色こくしょくをしている。故に己の情報を持たず淀み無く流れている。すべての中には、死して器を失ったジャウハラも含まれており、故に彼等の中にはジャウハラの生きて蓄えた知識や感覚も取り込まれている。

 新たな生命を形作るのは、無の砂原ルーフで揺らいだ夜の民ザラームだ。揺らぎは時には虚ろ狼のような半端者にもなりえるし、時にはジャウハラのように輪郭を有する者にもなりえる。

 この揺らぎは常では自然発生的に起き、何者にも起こしてない。だが例外がある。「繋ぐ者」だ。「繋ぐ者」は「揺らぎを作る者」と「揺らぎを受ける者」の対で構成されている。

 「揺らぎを作る者」である琥珀の保持者がジャウハラで夜の地を生成させて均衡を崩し、「揺らぎを受ける者」である夜の民ザラームの繋ぐ者に。その意図的に作られた揺らぎから、目的の輪郭の情報を抜き取るのだ。

 アウスは白い光の中で徐々ゆっくりと瞬きした。その左右の眼には金剛石が瞬き――その輝きはジャウハラの地のすべてを飲み込んだ。

 ふとラーミウの耳元に、聞き慣れたシハーブの聲が鳴らされた。

「あんたには、もう一寸ちょっと働いてもらうよ。これはまあ、八つ当たりだから」

 それは何時もの飄々とした調子の聲だ。ラーミウは目映い白光びゃくこうの中で苦笑いを浮かべた。この役目が終わっても尚、己は民を守る立場からは開放されないらしい。それも八つ当たりという下だらない理由で。ラーミウは目を閉じると小さな聲で返した。

「矢っ張り、屑ですね」

 

 

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