第49話 終幕(弐)


「僕は」

 ラーミウは一度、息を吐いた。シハーブの切れ上がった眼がラーミウから離されない。ラーミウは薄暗い室の中で一度、眼を閉じた。

 眼に下ろされた天蓋裏に浮かぶのは、サクルの示した美しい光景――澄み切った群青の昊の下、豊かに栄える街と安穏とした人人。そして耳の奥には望みを叶えてほしいと云う、穏やかな聲。

 己の成したいことを未だラーミウは知らない――されど。ラーミウは徐々ゆっくりと琥珀を露わにして静かに聲を鳴らした。

「僕は、白鏡――サクル様の願いを叶えたい」

「私は反対です」

 矢庭に遮断さえぎるように聲を鳴らしたのはヤトだ。細長い眼を吊り上げて、ラーミウとシハーブを睨め付けている。ヤトはじろりとラーミウを一瞥すると、吐き捨てるように云う。

「それってどうせ、世界を元通りにして、その上で白鏡のもう片割れを呼び起こすということでしょう?私は反対です」

「ヤト」

 彼を止めようとシハーブが聲を鳴らすが、ヤトは止まらない。ヤトは細い眼の奥に潜む瞳を真玄にして、大きく揺らしている。其処には切実さがある。彼は強く拳を握り締めて、聲を荒げて叫ぶように云った。

「そんなことをしたら、今度こそ本当にセイが消えてしまうかもしれないでしょう?私は絶対に反対です!」

「ヤト、落ち着け」

 シハーブがヤトの肩を強く掴んだ。我に返ったヤトは眼の色をジャウハラのものに戻した。シハーブはじっとヤトを見据えると、語り掛けるように静かな聲を鳴らした。

「何も消えるなんてわかんないだろ。それに若し消えたとしても、俺たちは夜の民ザラーム。また連なって巡って、そのうちまた会える。――な?」

 其処には何時もの飄々とした調子はない。まるで母親が子を宥めるような柔らかな聲音だ。ヤトは唇を噛み締め、項垂れた。

 ジャウハラと異なり、夜の民ザラームには終わりはない。汎ゆるものから縛られることはない無限の連続である彼らは、常に共にある。――だが、それは個を持たぬ通常の夜の民ザラームの場合だ。

 繋ぎとして器を持った夜の民ザラームは器を失えば、個というものを無くして元の何者でもない連なりの一部と化す。器を持っていた頃の個が残るという保証はない。

 ヤトはシハーブと目を合わせていられなくなり、ついと視線を逸らした。

「でも、それは今のセイじゃない」

 その様子はまるで子どものようだ。否、ヤトにとって、シハーブ――玄星ゲンセイは同僚であるとともに、己に個を与えた母親なのだ。その不貞腐れたヤトの様子に、シハーブは吹き出して笑った。

「ははは、御前はジャウハラが嫌いなくせに、誰よりもジャウハラらしい。それだけ、器が安定しているとも言えるが」

 ヤトは眉根を寄せて、如何にも不服そうにしている。シハーブはやおらヤトの頬に手を添えて、己の方を向くように促した。

「ヤト、ずっと前にも言っただろう。俺はジャウハラが好きなんだ。このまま消えちゃうってのは俺も厭かな」

「……愉しいものと美しいものが無くなるからですか」

「わかってるじゃん」

 にやりと並びの良い白い歯を見せて嗤うシハーブに、ヤトは貌を歪め、掠れた聲で返す。

「わかりたくなくてもわかりますよ。何年一緒にいたと思うんですか」

 シハーブはただ微笑んでヤトを見詰めていた。ようやく手を離すと、姿勢を正して向き直り凛とした聲を鳴らした。

「ヤト。御前を次代の「鏡渡かがみわたし」に任命する。鏡渡ノ夜刀かがみわたしのやと。――夜の民ザラームとジャウハラを好く繋いでくれ」

 ヤトは聲を詰まらせて返せないでいる。シハーブは優しく彼の肩を叩くと、ついとラーミウたちの方へ向き直った。そして何時もの妖しい笑みを浮かべ、飄々とした口調で聲を掛ける。

「さてと、じゃあ世界を救いますか」

「相変わらず軽いですね」

 ラーミウは琥珀を据わらせてシハーブを見ている。シハーブはけらけらと嗤って、明るい聲で返す。

「だっていっそ愉しみたいじゃん?」

 それは嘗てサクルにも掛けたことばだ。そしてあの美しい景色を見せたきっかけでもある。ラーミウは思わず琥珀を緩めて微笑んだ。――彼があるお陰で、未だ砂の王国は形を保ってあるのかもしれない。

 シハーブはふと、嗤うのを終った。そして左の眼を夜の民ザラームの色に変容させ、しんとした静けさのある聲で云い放った。

「これより、無の砂原ルーフに干渉する」

 シハーブは嘆息すると、カリーマとドゥリーヤを見据えた。両人は各々の色鮮やかな宝石で彼を見詰め返している。艶やかな瑠璃と紅玉から目を逸らすことなくシハーブは尋ねる。

「そのためにはあんたらの力もいるんだけど……今さら厭だとか云わないよな?」

「愚問だね」

「わたくしたちは三珠。民のために動くのは至極当然」

 カリーマとドゥリーヤは宝石の眼を揺らすこと無く応じる。シハーブはにやりと嗤うと寄り、おもむろに腕を持ち上げると、腰元にあった短剣で深く傷をつけた。流された血は溜まり池を作り、簡易の水鏡となる。シハーブはカリーマやドゥリーヤ、そしてラーミウへ視線を向け、しんとした静けさのある聲で云い放った。

「三珠の血を」

 青珠せいじゅカリーマと赤珠せきじゅのドゥリーヤがそっとその血溜まりへ寄り、己の指を切って血を垂らす。ラーミウも己の指を切り、その上に血の滴を落とした。

 三色の血が混ざり合い黒色こくしょくを作り出すと、其処から大きな影のようなものが伸ばされる。シハーブは右の眼を除くすべてを夜の民ザラームの様相へと戻すと、宝石を有する者たちへ手を差し伸べた。

 カリーマとドゥリーヤはそっとその手に己の手を重ねた。ラーミウも口を強く結ぶと、己の手を彼らの手の上へ重ねる。その三色の宝石――瑠璃と紅玉、そして琥珀は爛々と鮮やかさを増し、その都度伸ばされた影が強くなる。ラーミウは室のみなへ視線を向けると、短く語を告げた。


「行って参ります」


 四者の姿が闇へ溶けて消えると、室には静けさが戻った。残された者たちはただただ、すべてが無事に終わることを祈った。

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