第48話 終幕(壱)
「は?」
傷は塞がっているが、刺し傷のような
ふと横へ視線を移せば、緑の装飾の施された椅子にナジュムが坐し、坐ったまま寝息を立てている。そのかたわらには床に坐り込んだまま同じく眠っているマージドの姿。絨毯も埃を被ってやや白くなっているが緑である。
「ようやく起きたんですか」
鳴らされたのはヤトの聲だ。室の入口でカリーマやドゥリーヤと共に立っている。髪色はジャウハラのものに戻したらしい。項で束ねた髪も細長い眼も砂色をしている。ふと彼の手元へ視線を移すと、その手にはスープやパンを乗せた盆がある。今から飯を食う
「シハーブは?」
「此処にいるけど?」
真後ろから聲がならされ、ラーミウは飛び上がり条件反射で拳を打ち込んだ。シハーブは寸前で躱し、貌を青褪めさせながら叫んだ。
「怖い怖い!本当にあんたは直ぐに手を出すなあ!」
彼もまた、頭頂から垂らしている髪や左の眼を砂色に戻している。ラーミウは琥珀を据わらせるとふん、と鼻を鳴らして返した。
「妙な処から出てくるあなたが悪いんです」
「そこで拳が出るのは可怪しいでしょうが」
「というか、なんで肚を刺してるんですか!」
ラーミウは己の肚を指差した。ラーミウはようやく記憶を戻しつつあり。夜の地へ行く寸前にシハーブに刺されたことを思い出していた。シハーブはからからと嗤いながら、
「血が必要だったのと、吃驚したほうが夜の地にすんなり行きやすいからさ。近くに
等と云う。肚を刺したとは思えぬ程にけろりとした様子だ。ラーミウはシハーブの胸倉を掴むと、琥珀を爛々と燃やして詰め寄った。
「だからって肚を刺しますか?殺す気ですか?」
「内臓は避けたよ」
「避けても痛いんです」
「起きたのか?」
突然に割って這入ったのはマージドだ。今の騒ぎで目を覚ましたらしい。マージドが剃髪の頭を掻きながら眠気眼でラーミウを見ている。椅子に坐していたナジュムも寝覚め、重たい一重目蓋の奥から三白の眼を覗かせていた。
ラーミウはシハーブの胸倉から手を離すと、慌てた様子で挨拶した。
「あ、おはようございます。マージド、ナジュム」
マージドはラーミウを見てきょとんとしている。すっあり落ち込んだ様相をしていると考えていたのだろう。ナジュムは三白眼でラーミウを見据えると低く聲を鳴らした。
「何だかすっきりした様子だな」
夜の地と言えど、大聲で泣いてすっきりしたのもあるのか、実際に何処か心が晴れたのである。ラーミウは照れ臭そうに頬を掻いた。
「……白鏡様に会いました」
「へえ。すごいじゃん」
とシハーブ。心より驚いたといった風の面持ちをしている。ラーミウは眼を点にした。シハーブもラーミウと共に夜の地へ行っていたゆえ、シハーブも会っていても可怪しくはない。
「あれ?シハーブは会わなかったんですか」
「たぶん、私の方が先に戻ってたからなあ。あんた、三日も起きなかったんだぜ」
「え」
ラーミウは
「まったく、その間あたしとドゥリーヤがこき使われたよ」
研ぎ澄まされた刃を思わせる眼光だ。ラーミウは小さくなりながらも、「すみませんでした」と聲を鳴らした。すると不服そうにシハーブが聲を上げた。
「なんか私が起きた時と違くない?私は起きた瞬間に拳下ろされたんだが」
「……なんかシハーブの一人称慣れないです」
思わず、ラーミウは呟いた。ラーミウの中でシハーブは矢張り男なのだ。
「そう?じゃあ俺に戻しとくよ」
「適当ですね」
「愉しいかそうじゃないのか、美しいかそうじゃないのか。重要なのはそっちだ」
「屑だったこと忘れてました」
「
けらけらと嗤うシハーブを余所に、ラーミウはカリーマやドゥリーヤ、そしてナジュムへ視線を向けた。
「ひとつ伺ってもいいですか?」
つとシハーブも嗤うのを止め、ラーミウへ意識を向けている。ラーミウはつい先程まで「感じていた」記憶を頼りに、現在欠けている三珠のひとりである、
「緑珠だったミシュアル様は三十年前のあと、どうなったんですか?」
「事が起きたその日に自害なさったと聞いている」
応じたのはマージドだ。真逆マージドが応じるとは露ほども思わず、ラーミウは貌を顰めた。
「……なんでマージドが知ってるんですか。年齢的に五歳くらいの頃の出来事ですよね」
「私の祖父がカリーマ様の鍛錬によく付き合わされていてな。その関連で色々と話が入るのだよ」
カリーマは
「御前さん、ターハーの孫か」
ターハーとは三十年前までカリーマが度々連れ回していた老兵の名である。ナジュムも同様に驚いたように三白の眼を見開いてマージドを見詰めている。マージドは手を合わせるとカリーマへ向けて深々と頭を垂れて云った。
「亡き祖父が世話になりました」
ターハーの死を初めて知ったのか、カリーマとナジュムは貌を昏くした。ナジュムの足の処置をしたのは、ターハーの呼んだ医官である。ナジュムは失せられた左足を擦ると、静かに聲を鳴らした。
「知っての通り、兄上より後の緑珠は現れていない。
カリーマは室の端に立て掛けられた肖像画を見た。それは若かりし頃の己たちだ。その中には無論、哀れな最期を遂げたナジュムの兄の姿もある。
(まあ、サクルはこの絵を気に入らなかったようだけどね)
其処には無論、アウスの姿はない。本来はふたりでひとつの白鏡だ。アウスの
ラーミウもその絵に描かれた貌のない白鏡を
「そういえば何故、宮を出たのですか?」
カリーマは苦笑すると、ラーミウのある寝台に寄り、シハーブの頭を小突いで応じた。
「
ナジュムもシハーブへ三白眼を向けると、カリーマへ続いて語を次ぐ。
「私は兄に代わり罪を償うためだな。私自身もアウス殿には世話になっていたし……その礼も含めている。ジャウハラ側の「繋ぎ」の代理になったのは、ヤトに情報を渡すため」
暫しシハーブはナジュムの三白眼を見詰め返していたが、ふとラーミウへ視線を向けた。其処には何時もの妖しい笑みを浮かべられている。
「で、あんたは結局どうすんの?」
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