第47話 無の砂原(参)


「よし、御前にしよう」

 同一に連なるものたちは、共有された意識の中で「輪郭を有した聲」を聞いた。その聲主は夜の地の中で漂っていた夜の民ザラームから、手で引き寄せた。

 そのは眼前にある「女」を視た。己を含む者たちと異なり、色を有する者だ。真玄の中で大きく波打つ長い髪や眼はそのままに、白い身體を有することで境界を保っている。

「御前はこれより私の守司もりづかさにする」

 するとそのひとりは白い土人形のようになった。周囲の連なる者たちと突然に分断され、それは慌てふためくようにきょろきょろとする。女は土人形の首根を掴んで持ち上げると、また彼に呼び掛けた。土人形の眼前で涼やかで形の良い眼がじろりと見詰めている。

「ほら、御前が見るのはこっちこっち。知識を共有してるから、喋れるだろ?」

 と云い終わるや女は土人形の頬を強く抓る。すると、それの頬から鋭い痛みが走り、思わず聲を上げた。

「痛い痛い!離してくれよ!――ん?痛い?」

 それは初めての感覚だ。連なる者であるうちは、あらゆる感覚は同一でただ流されるのだ。故に感覚というものは識っていても知らないのだ。それが驚きであんぐりとしていると、女はにやりと嗤ってそれを下ろし、語を次いだ。

「よし、感覚も良好だな。名はそうだな。夜の民ザラームの繋ぎたる私を守る手、それ即ち、「夜を守る刀」――夜刀ヤトとしよう」

夜刀ヤト?」

「そうだ」

 ヤトはにっこりと嗤う女を茫然と見た。与えられた名がさらに己を己とし、あらゆる感覚が定かになる。この小さくて歪な五本指のものは己の手、地を踏むひょろひょろとした双つのものは己の足。ヤトはただただ明瞭となる輪郭に茫然とした。女はヤトの頭を指で小突いて問う。

「器の形はどうする?流石にそのまんまってのもなあ。とりあえず私と同じでいいか」

「え?」

 ヤトの姿は見る見るうちに眼前の女と同じ形になった。年齢が二十前後の、上背のある美女だ。胸元には豊かな乳房があり、くびれた腰元から伸びた足はすらりとしている。ヤトは己の身體にまた驚かされ、言葉も出ない。女は大きく背伸びをすると、ヤトへ手を差し伸べて云った。

「じゃあ、行くか」

「何処へ?」

「決まっている――ジャウハラの地さ。私たちは「繋ぐ者」。相手を知るに越したことはないだろう?」

 ジャウハラ。それは夜の民と異なり、すべてに境界を有す代わりに連なりと循環を失った者。ヤトはそれを識ってはいたが、矢張り知ってはいない。ヤトは女の手を取ると、ふと浮かんだ問いを口にした。

「そういえば、あなたの名前は?」

 女はヤトと同じ顔で眼を瞬かせると、「あゝ、名乗り忘れていたな」と独り言つ。そしてヤトの手をぐいと引き寄せると、凛とした聲を鳴らした。

「私は玄星ゲンセイ。ジャウハラと夜の民ザラームを繋ぐ、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいだ。」

 それから、ヤトは砂の王国の各地を旅した。それまで個でなかったヤトにとってゲンセイの教えることはすべてが新しく、そして恐ろしくもあった。すべてが均一で同一であった頃と異なり、見た目の美醜や能力の優劣、家柄などで互いの差をつけ貶め合う。時には限りある命すら奪う。夜の民ザラームにはないものだ。

 旅路の途中立ち寄った安宿で、床に坐っていたゲンセイは貌を引き攣らせてヤトを見あげた。

「……夜刀、本当にその姿にするのか?」

「無論です。あなたの姿はこの地では好からぬ者を引き寄せ過ぎです。せめて私がそれを払わないと」

 それは、男の身體だ。上背のある、鍛え上げられたしなやかな体躯。路往く人人を怖気させるには十分なほどに刃のごとく細く鋭い眼。路の彼方此方で見掛けた者たちを元にのだ。

 己の身體の具合を確認しているヤトのかたわら、ゲンセイは実に不服そうに唇を尖らせ、語を続けた。

「見ていてツマらん」

「自分の貌でも眺めていてください」

「そうだなあ。この格好にも飽きてきたし。御前がその貌で警戒してくれんなら、攻めてみてもいいかなー?」

 等と云いだすと、ゲンセイはすっくと立ちあがる。くるくる舞うように廻ると、大きく波打っていた髪は緩やかになり、上背のあった身體は徐々に小柄なものになる。涼やかに伸びていた眼は大きくつぶらなものになると、ゲンセイは廻るのを止めてにっこりと嗤った。

「こんなのとかどう?結構イケてない?」

「……巫山戯てるんですか」

 ヤトの聲は低く、額には青筋が立てられている。ヤトが何故美しい女を止めて強面の男にしたのかと云えば、それはひとえに男への対策である。肉付きのよいが女は男たちの視線を集める。身分があれば手を出し難いかもしれぬが、夜の民であることを伏せて一介の旅人を振舞っている彼等にはそのようなものはない。

 ――なのに。

 ゲンセイの容姿は一層周囲の視線を集め易いものになっているのだ。年齢は十代半ば程度。傍目には非力な愛らしい少女である。人攫いからすれば、恰好の的である。ヤトが怒り心頭なかたわら、ゲンセイは凝々じろじろと水瓶の水面に映る己の貌を見詰めている。横顔にして鼻の輪郭かたちを見たかと思えば敢えて眉根を寄せてみたりと様々な貌を認めたのち、実に満足そうに聲を鳴らした。

「うん。気に入った。可愛い可愛い」

 最早何を云っても無駄であろう。自由気儘なゲンセイを横目にヤトは頭を抱えながら内心で「自分がしっかりせねば」と呟いた。

 きっとその程度で留めておけばよかったのだろう。だが次第にそれは使命感のようなものに変容していた。男の器を持ったが故の影響なのか、そもそも個というものを自覚した所為なのか。母であり同僚ともである彼女を美しい、と感じるようになり、そののち「己が彼女を守らねば」と思うようになったのである。

 故に、放っておいてもきっと彼女は危険を回避できたであろうに、彼女を守れる者になりたいという望みが先行して身體が勝手に動いた。――それがかえって状況を悪化させるものとは知らずに。

(彼女のために在りたい等と――なんとも愚かしいことをしたものだ)

 ヤトは閉じていた眼を開いた。眼前には寝台に横たえられているゲンセイと、琥珀を有する男のふたり。彼らは夜の地へ赴いているのだろう。

 ヤトはふと、琥珀を宿す男へ視線を向けた。白鏡の為に生きて死ぬ。彼は地でそれを行く男だ。それはまるで――嘗て、ゲンセイのためにそうありたいと無意味に息巻いていた己のようだ。

此奴こいつを見ていると厭なことばかりを思い出す)

 ふと入口の戸が開く音がして、ヤトは視線を上げた。振り返ればナジュムの姿がある。ナジュムは寝台へ視線を向けると、低く聲を鳴らした。

「ヤト、未だ両人は目覚めぬか」

 愚かにもゲンセイを殺めようなどとした緑珠と同じ三白眼を有する男だ。ヤトはじっとナジュムを睨めつけると、吐き捨てるように云う。

「まったく、貴方の兄上の所為で何もかもが滅茶苦茶です」

「――すまない」

 ナジュムは三白の眼を静かに伏せ、頭を垂れた。室の端には、一枚の絵が立て掛けられてあった。それは三十年前に描かれた肖像画だ。貌の右半分を覆う、若かりし頃のサクルは貌が削られている。その後方には三珠の姿。もっとも右端には、常と異なり髪を上げた緑珠の姿があった。三白眼の翡翠と精悍な貌を持つひとりの男の姿が。

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