第46話 無の砂原(弐)


 それは奇妙な光景であった。

 真玄の少女が、冷たくなって動かぬ砂色の若者の手に己の手を重ねたその瞬間、少女の輪郭が崩れ始めたのだ。

 初めは、黒の眼だ。どろりと眼球が溶けて涙のごとく流れ出し、それに伴って眼窩が、口や鼻が形を失せて落とされていく。同時に足の爪先が、脚や胴が崩れて繋がれた手へと繋がれていく。

 それらは次第にアウスの腕を伝った。そして口や鼻、眼の隙間など、ありとあらゆる穴を伝ってそのは流れ混んでゆく。

 すると、アウスの身體も輪郭を無くし、すべての色を混ぜた黒の泥土のようになり突然にしんとした静寂が下ろされた。

「如何なったんだい?」

 先んじて沈黙を破ったのは、静観していたカリーマである。そっとサクルのそばへ寄るが、サクルは黒の泥土となったアウスばかりに気を取られており、応えない。

 ドゥリーヤのかたわらで、ミシュアルの弟が目を覚ました。医官の処置が間に合ったのである。ミシュアルの弟は己の失われた左脚を見、そして少し離れた位置で坐り込むミシュアルを見た。ミシュアルは愕然としてサクルの前に横たえられているアウスを見詰めながら、小さく語を零していた。


「私が、殺めてしまったのだ」


 すると、ぴくりと黒の泥土が震え――互いに合わさって人形になる。衣服を纏わない肌には傷も入れ墨もなく、滑らかな陶器のようだ。男でも女でもなく、正しくジャウハラを真似た擬い物。それはアウスのようで、アウスではない何かになったのだ。そしてその艷やかな頭部で緩慢ゆっくりと眼が開かれた。真玄の身體で、右のみが金剛石の輝きを放っていた。


 

 ラーミウは目を覚ました。


 気が付けば記憶の波は去り、また真闇の中を漂っていた。ラーミウに伝わる記憶という情報には。散らばった情報に過ぎず、形を有していない。故に何があったのかは、その散逸した光や音、匂いから推測するしかないのだ。――故に、アウスの貌もミシュアルの貌もミシュアルの弟の貌も分からない。無論、この当時のサクルやシハーブの貌も。

 ラーミウはくるりと身體を宙の中で回転させ、周囲を見渡してシハーブを探した。だが、其処にはシハーブの姿はない。致し方なくラーミウは訝りながらも宙を漂い、シハーブが現れるのを待った。


「ラーミウ」


 矢庭に鳴らされたその聲に、ラーミウは琥珀を見開いた。それは押し寄せてきた情報よりも深みを持ち、己が十二の頃よりずっと聞いてきた聲。ラーミウは振り返ってそこ聲主を探した。

「此処だ、ラーミウ」

 肩に触れられたような、そのような感覚を持ち、ラーミウはかたわらへ視線を向けた。其処には、シハーブと同じ貌をした若者が居た。年齢よわいは十五程度の小柄な若者だ。左に金剛石を有し、長い砂色を靡かせている。だがそれでも、鳴らされた聲が彼がラーミウの知るサクルであると知らせている。ラーミウは震える聲を押し鳴らした。

「白鏡様……?」

「あゝ、良かった。そなたには何も云えずに逝ってしまったから」

 サクルは眼を優しげに細めた。ラーミウの記憶の中のサクルは眼窩の落ち窪み痩せ細った姿だったゆえ、肖像画の中でしか、サクルの健やかだった時の姿を知らない。だがその絵も抽象的なもので、姿そのものを捉えてはいない。故に、彼がこんなにも美男子であったことは知らないのだ。

 ラーミウは涙を堪えながら、両手を合わせて一礼した。

「私も直ぐおそばに」

いや、いけない」

 その語調には厳しさがある。サクルはラーミウの両頬に手を添えると、児を諭すように徐々ゆっくりと語りかける。

「そなたは未だはならない。そなたは生きて、私の代わりに、私の成したかったことを成せ。そしてその中で、本当に己の成したいことを、見い出せ。何時までも傀儡であるな。己の望みを叶えた時こそ、私の元へ来い」

「成したいこと……?白鏡様の望みは何ですか?」

「私の弟を救ってほしい。そして世界の輪郭を私たちの知る美しいものに戻してほしい」

 サクルはラーミウから手を離すと、前方へ視線を向けた。其処は真闇な空間ではなく、群青の下に浮かぶ、壮大で豊かな街並みである。砂色の大きな街を南北にガイム河が貫き、その周囲を溢れかえる砂色の人人が往来している。椰子や睡蓮の花々が彩りを添えており、平穏を謳歌している。

 これは、サクルの守りたかったもののうちのひとつだ。己に自身がなく、己より優秀な弟の存在に落胆したその時、この景色を眺めることで、それが些細なことだとしても、この景色を守る助けになれたのだと誇れたのだ。

 サクルが目を伏せたその時、その色鮮やかな景色は揺らぎ、ふつりと暗闇に溶けて消えた。気が付けば、つい先程までと同じ何処までと続く黒の空間だ。

 サクルはそっとラーミウの目元をなぞり、穏やかな聲を鳴らす。

「きっと、私の願いを代わりに叶えられるのは、黄色おうしょくの宝石を有する者だけ。だからどうか、叶えてくれまいか」

 ラーミウは琥珀を大きく揺らした。徐々にサクルの姿も闇になじんで消えつつある。サクルは哀しげな面持ちをして小さく「もう時間か」と呟いた。その悲哀に満ちた愛しい者の貌を見てラーミウは内心で

(彼を哀しませてはならない)

 と噛み締めた。ラーミウは嗚咽の鳴りそうなのを堪えながらも、深々と頭を垂れた。


「御意、必ずや叶えて見せます」


 サクルは薄れる輪郭の中で微笑を浮かべた。安堵した貌だ。そして消え入るその寸前、彼は父親としての言葉を遺した。

「それと繰り返すが、必ず己の成したいことも必ず見出すのだぞ。これは父としての願いだ」

 ラーミウは何も無い空間の中で、哀哭あいこくした。その聲は木霊することなく、黒闇に溶けて掻き消えた。

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