第45話 無の砂原(壱)


 ラーミウは突然に意識を取り戻した。


 其処は、黒染めの空間であった。ラーミウはひとり、上も下も右も左もないちゅうに漂っていた。身體を起こそうとすると、ぐるりと回転して立つことも坐ることもできない。感覚も無く、何処からが己で、何処からが己でないのかも判別つかない。

(この感覚……)

 その奇妙な感覚には覚えがあった。夜の民ザラームのいた夜の地である。ラーミウは貌を顰めると、またぐるりと身體を回転させながらも周囲を見渡した。

「お、ようやくお目覚め?」

 何時の間にか、直ぐ側には恐ろしい程に顔貌の整った若者の姿があった。馬の尾の様に垂らした髪も、猫の目のようなアーモンド型の左眼も空間と同じ黒に変容しているが、シハーブである。ラーミウは琥珀の眼でぎろりとシハーブを睨め付けると懸命に手を伸ばしてシハーブの胸倉を掴んで云った。

「で、ここ、何処なんですか。先程さっきから妙な記憶のようなものが流れてきて訳が判りません」

「はは、夜の地はすべてが連なってるから筒抜けなんだよね」

 胸倉を掴まれながらもシハーブは飄々と嗤う。ラーミウは眉間の皺を増やすと、ふとまた周囲を見渡した。ヤトへ誘われた夜の地と比べても、此処は何もなさすぎる。ラーミウの内心を察してか、シハーブはにやりと嗤って云った。

「この間行った処は他所様を招くために、私が整備した場所なんだよ。夜の地の大半はこんな感じ」

「……自分で整備したということは、あの酔ったのも演技なんですね」

 ラーミウは無論、忘れてはいない。シハーブが頻りに気分が悪いと云っていたことを。シハーブは目を瞬かせると、からからと肚を抱えて嗤った。

「ああやっとけば、何か合ったときに参加しなくても不審に思われないでしょ?」

 その作戦は実によく効いていた。虚ろ狼がマウジ村を襲撃した際、姿を見かけなくとも、気分が悪くて動けないのであろうと踏んでいた。ラーミウが眉をひくひくとさせていると、シハーブは強く何度もラーミウの肩を叩いて「悪かったって」と嗤う。まったく悪かったと思っている様子ではない。シハーブはひょいとラーミウから離れると高い位置まで漂って云った。

「さて、「連なり」との繋がりも悪くなさそうだし。視たんじゃない?」

 それはサクルが白鏡となったその日から、サクルの弟が死んだその日までの記憶である。すべての光も音も匂いも混ざり合ってラーミウの中に押し寄せて絡まり合い過ぎ去って行った。ラーミウは琥珀を伏せて貌を曇らせた。

「……ということは、もうひとりの白鏡様ももう……」

「待て待て、早まるな」

 ラーミウの語を遮断さえぎるようにシハーブは大きく聲を鳴らした。ラーミウが怪訝な面持ちをすると、シハーブはまたひょいとラーミウの前に降り立った。

「だったらサクルが探させたりしねえよ」

 すると矢庭に、騒々ざわざわとあらゆる情報が波となって押し寄せ、ラーミウとシハーブを飲み込んでさらって行った。







「私の覚悟とは、何だ?」

 サクルは鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいを見据えた。

「あんたの弟の死を待つか、半端者にして形がまた固まるのを待つか、だよ」

「半端者?」

此奴こいつと私を混ぜて、一種の虚ろ狼と同じ状態にする」

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいの言葉に、守司ノ夜刀もりづかさのやとは荒げた聲を鳴らした。 

「セイ、何を云っているんです!」

「御前は黙ってろ。本来は死を待つのを進める。けれど、このままだと欠けた白鏡だけでこの地を支えなきゃならなくなる。そんなの、長く保つ筈がない。そのうち全部崩壊して、ジャウハラ皆、めでたく私たちの仲間入り」

 玄の少女が両手を広げて戯けたようにして見せる。細眼の男は口を噤み、項垂れた。そもそも、彼がしくじらなければ起き得なかったことゆえ、強く云えないのだ。サクルは怖々おずおずと尋ねた。

「新しい白鏡は……」

 完全な白鏡が新たに現れれば、「欠けている」状態も改善される。それは即ち、サクルが宝石の眼を失うということを意味しているが、宝石持ちというものはそういうものだ。次代の宝石の覚醒とともに先代は力を失い次代と交代するものだ。

 現に、サクルの先代は生きて今やまつりごとに混じっていると聞く。――気不味さもありサクルは直接言葉を交わしたことがないが。サクルのかたわらで、少女は「ううん」と唸って小首を傾いだ。

「色々と歪んじゃったからねえ。望みはあるかもだが、あるとも断定できない。そもそも、双つに割れた時点で色々可怪しくなってんだよ」

 サクルは暫し沈黙して、赤銅の肌を段々に土色にしているアウスを見詰めた。頭を縁取る砂色の髪も瑞々しさを失せて、土気ている。サクルは己の拳を強く握ると、静かに尋ねた。

「虚ろ狼と同じ状態にする、とはどういう意味だ」

「そのまんまさ。夜の民ザラームとジャウハラの中間に位置する者にする。夜の民ザラームは連なって循環しているから、あらゆる概念を保たない、一種の不死のような存在。虚ろ狼ってのは半分夜の民ザラーム、半分ジャウハラだから、概念の一歩手前みたいな存在。ジャウハラは輪郭を固めていて、限りはあるけどあらゆる概念を保っている存在」

「つまり、いったん中間にして、ジャウハラに戻るのを待つということか?」

「そゆこと」

 ふと、サクルは少女のやや形の崩れた手を見た。おそらく、白鏡であるアウスの血によるものだ。サクルは視線を少女に戻すと、問いを加えた。

「でも、夜の民ザラームは濃い血に弱いって……そこは問題ないのか?」

「血ってのは概念の詰まったもんだからな。夜の民ザラームにとっては異物の猛毒。中途半端な虚ろ狼も大量摂取すりゃ効く。とくに宝石持ちは他のジャウハラよりも色彩の情報を持つから「濃い」んだよ。でも、アウスは既に形を崩しつつあるから、「濃い血」には該当しない」

「でもその手……」

 サクルの視線はまた少女に戻されていた。少女はその視線に心付くと、手を持ち上げてひらひらと振って見せる。

「これは、まだあんたの弟が死んでないときに被った血の所為だよ」

 詰まりは、試すとしてもアウスの許の血は影響しないということ。サクルはそれでも迷った。己であればまだしも、弟をそのような路の外れた者としてよいものなのか。サクルは眼を大きく揺らしながら、聲を絞り出す。

「うまく、行くと思うか?」 

「さてね。でもまあ、失敗しても私くらいには留まるかもしれないよ?」

 少女の言葉に、サクルは眼を瞬かせた。少女はにやりと嗤うと細目の男の胸倉を掴んで引き寄せた。

「実を言えば、「繋ぎ」である私やヤトも似たようなもんなんだよ。ジャウハラと意思疎通するために、器を有してる」

 サクルは一瞬、両人を見比べた。今は珍しい髪色をしているが、砂色にしているときは然程目立ちはしない。――否。この少女は愛らしさもあり注目を集めていたが。サクルは一度だけ咳払いをすると、頷いて応じた。

「そういえばそうだな。器の見た目は任意なのか?」

「適当に見掛けたジャウハラを参考にするんだが、私は色々といじってる。美人だろ、この器」

「そうだな……」

 少女は胸を張って威張って見せている。そのかたわらでいい加減離してはくれぬかと細目の男が目を一層細めて眉間の皺を増やしている。ようやく男から手を離すと、少女はアウスへ視線を向ける。その口許の笑みはあやしさはなく、慈しむような優しい笑み。少女は眼を伏せて、穏やかな聲を鳴らした。

「私は結構ジャウハラ気に入ってんだ。それも器に留まってる影響かもしれないけどさ、楽しいもの美しいものってのは実に心を豊かにする」

 サクルが黙していていると、少女はサクルの鼻先を指で弾いて云う。

「まあそれはさておき。賭ける?賭けない?」

「――御前はどうなる」

「さあ?いなくなるかもしれないし、残るかもしれない。元々、夜の民ザラームは不定のもんなんだ。気にすることはない」

 サクルはアウスの冷たくなった手を握った。若し、もう一度弟が目を覚ませば、彼は己の路を生きられるかもしれない。サクルに縛られぬる人生を歩行ませてやれるかも――と切なる願いを込めて、サクルは聲を鳴らした。

「――弟を、お願いしたい」

 

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