第44話 揺らぐ鏡面(肆)


 崩れ落ちるアウスの姿に、サクルは茫然とした。その寸前まで彼を抱えていたカリーマは唖然と己の手を見ていた。彼女に抱えていたアウスは突として意識を取り戻し、ミシュアルが密かに持つ己の短剣に心付いたのだ。

 其処からはすべてが一瞬であった。ミシュアルが夜の民ザラームへ刃を振り下ろしたのも、駆けつけたアウスが代わりに刃を受けたことも。

 アウスの血がべっとりと付いた己の手を見て、ミシュアルは絶叫した。既にアウスの意識はなく、揺さぶっても多量の血が抉られた傷から溢れ出るのみ。

 サクルはよろけながらもアウスへ寄り、己と同じ顔を蒼白にした弟を見た。突然のことに、聲すら出ない。医官がようやく駆け寄ったがその血は止まらず、数分後には医官が手を止めた。

 医官のそばに横たえられたアウスの胸元は最早もう、動いていなかった。サクルは茫然としながらも、聲を溢した。


「アウス……?」


 返事はない。そっとアウスの頬へ手を伸ばして触れると、既に冷たくなり始めていた。するとサクルのかたわらに鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいが寄り、小さく頭を垂れて云った。

「悪かった。こちらの不手際に巻き込んだ」

「は?ジャウハラの自業自得でしょう」

 とすかさず守司ノ夜刀もりづかさのやとが反論すると、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいが珍しくも怒りを露わにして聲を張った。

「ヤト!」

 その聲の激しさに守司ノ夜刀もりづかさのやとが怯むと、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいぎろりと大きな黒目で睨め付け、荒い語を次ぐ。

「御前は救ってもらったんだからつべこべ云うな。成り立てといえ、守り手の癖に無用に突っ込んで来たのは何処の誰だ?」

「……すみません」

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは嘆息すると、アウスのそばで茫然としているサクルを押し退けた。 

「どいて」

「ライラ?」

 サクルが鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいを呼ぶと、呼ばれた当人は淡々とした語調で返す。

「悪いね。知ってたと思うけどそれは偽名。まあ、好きな方で呼んで。ライラでもシハーブでも、セイでも」

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいはアウスの冷たくなった身體に触れていた。閉じられた眼を押し上げて眼球の様子を確認し、傷口の具合や心の臓の具合など見ている。ようやく手を止めると顎に手をやり、ひそりと独り言つ。


「未だ形を失ってないから間に合うな」


「何を……?」

 サクルは貌を顰めた。鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいはアウスの彼方此方あちらこちらに触れた所為か、彼女の手は朱殷に染まっている。それに加え――その手が僅かに溶けたように崩れていた。

(そういえば先程さっき、ミシュアルが濃い血は駄目だって)

 アウスは白鏡だ。その「濃い血」に彼の血も含まれているのではなかろうか。サクルは我に返り、急いで彼女の手を拭おうとしたが、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせい自身がそれを留めた。

「あんた、夜の民ザラームって何か理解してる?」

いや……」

夜の民ザラームってのはいわば生命の集合体さ。すべてが連なり、循環している。無の砂原ルーフとも言われるが、これは滞って淀んだものも含まれている。先程さっきの狗なんかは後者にあたる。虚ろ狼って聞いたことくらいあんだろ?」

「あれが、虚ろ狼……。何故、急にあれが出たんだ」

 虚ろ狼は白星の光が弱まった場所に現れるとされている。故に昊から離れた場所にごく稀に現れると謂われている。奥まった場所や日の短い北など。だが此処は昊に近い宮殿。しかも南に位置する。鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは顎で鏡の泉を指し示した。

「泉があるだろ。ああいう、昊を映すものはジャウハラのように形を持つ世界と私たち夜の民ザラームのように形を持たぬ世界の境界になり得るんだ。それが歪むと、虚ろ狼みたいな半端者が行き来出来るようになってしまうんだ。普通、光の届かない場所で歪みは起きやすいけど今回は特殊。本来は三色の混ざった白鏡の血でもってこの歪を正しているんだが……」

「……混ざった?」

白色はくしょくってのは、赤や青、緑の光が重なって生じる色だろう?三珠がこの地に生じて初めて、白鏡たる者の血が生まれるんだよ。新たな白鏡の血は三珠の一部の欠片……欠片って云っても肉片とかじゃないよ。ルーフの一部。あんたらジャウハラもまた、輪郭を持っているけれど、根本は繫がってんだ」

「根本?」

「次から次へと聞くなあ。まあ魂……心の奥底とでも思ってくれ。生まれながらに持っている知識とかあるだろ?人間はあんまりねえみたいだけど、そういう所謂「本能」ってのはこの根っこに繋がった処から獲得してんだ」

 獣の母親は教えられなくとも仔の育て方を知り、鳥の仔は教えられなくとも生まれた場所へと戻ってゆく。恐れも悲しみも成長とともに己で獲得してゆく。だが、その一部は生まれながらに有している。それはすべての魂魄ルーフが連なり、その一部が器を持ったに過ぎないから。

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは嘆息すると、視線をアウスへ戻した。  

「兎に角。普段は白鏡の血で歪みを正しているのに、今回は弱った血を捧げて歪みが戻らない状態で水面を乱した。御前の弟が落っこちたろう?本当は体調悪いやつがやるべきことじゃあない。こういう事故が起きてるからね」

「アウスが……?」

 サクルは眼を見開いた。そもそも、アウスが何故、白鏡の装いをしているのかも知らないのだ。

「なんだ、代行してるの知らなかったのか。まあ、指し詰め病のあんたの代わりをしようとしたんだろーな」

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは頭を抱えた。サクルはただただ、茫然とした。即ち、己が身體を壊した故に、不調であった弟が無理をしたのだ。彼は常日頃、サクルを第一に動いているきらいがある――それに気付かずにいた、己の責任である。

 すると、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいがサクルの肩を軽く叩き、低く云い放つ。

「まあ起きちまったものは嘆いても仕方ない。ここから先は御前が選べ」

「何を?」

 サクルは左の金剛石を大きく揺らして黒闇こくあんの少女を見た。彼女は建国祭の時の飄々とした様相はなく、冷ややかな眼でサクルを見据えていた。少女は瞬きすることなく、徐々ゆっくりと語を次いだ。


「弟の運命をだ」


 その少女の聲は冷たく、鋭い刃のようであった。サクルはごくり、と固唾を飲み、冷たい汗が額を伝った。

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