第43話 揺らぐ鏡面(参)


 数分前。

 白星の光に照らされた自室で、サクルは目を覚ました。全身が鉛のごとく重く、息苦しい。

(アウス……?)

 眼だけで室の周囲を見渡すが、同じ顔をした弟の姿はない。窓穴へ視線を向ければ、白星が既に天頂近くにある。

(朝の務め……未だしていなかったな)

 サクルは緩慢のろのろと身體を起こし、寝台から下りた。視界が歪んで揺らいで定まらない。酷く汗を搔いており、止め処無く汗が額や脇を伝う。呼吸が荒く、吐いているのか吸っているのかも分からなくなる。

 だがそれでも、務めは果たさねばならない。サクルは手脚の剥き出された白練りの夜着のまま簡単な羽織だてを羽織ってふらふらと室の戸を開けた。


「――アウス!」


 矢庭に鳴らされたドゥリーヤの聲に、サクルは足を止めた。酷く焦りのある聲だ。ということは、アウスはドゥリーヤと共に居るのだろうが様子が可怪しい。次第に他の者たちの聲もして騒々しくなっている。サクルは急ぎ重い身體を引き摺って、聲の鳴らされた方角へ足を進めた。

「あたしが室まで運ぶ。金剛石族アールマスの医官を連れて参れ!」

 今度はカリーマの聲だ。心の臓の鼓動が早まり、サクルは厭な予感がして堪らない。ようやく鏡の泉の近くまで辿り着くと、カリーマが白鏡の衣を纏うアウスを抱え、ドゥリーヤやミシュアルが駆け寄っているのが視界に飛び込んだ。――そしてその後方に、黒黒とした一疋の狼のようなものがにじり寄っているのが映し出された。


「兄さん!」


 ミシュアルの弟の聲と同時に、サクルは飛び出していた。鉛のように重い身體も、視界を歪めると目眩も、喉を焼くような荒い呼吸も忘れ、無我夢中で疾駆はしっていた。

 影で出来た狼がミシュアルの弟の左足を飲み込んだその瞬間、サクルは彼を抱き抱え、狼から離れるように転がり、勢い余って壁に叩き付けられた。羽織が良い盾になったのか大きな擦り傷は作られることはなかったが、打ち身で内部に出血を作ったのかもしれない。じくじくとした息の詰まる痛みでサクルはふらつきながら呻いた。

 それでもサクルはミシュアルの弟を抱き起こした。彼の左足はごっそりと失われ、千切れた箇所から神経絡みつく骨や血肉が剥き出しにされ血潮が噴き出されていた。意識はあるらしく、「痛い痛い」と叫んでいる。

「馬鹿!お逃げよ!」

 鳴らされたカリーマの聲でサクルはあの狼がそばにあったことを思い出し、急ぎ体勢を立て直した。まるで影を形にしたような狼だ。

 その狼はサクルに牙を剝きながらも、様子を窺っているのか中々に襲い掛かりはしない。ぎらぎらと虚ろな眼を光らせて、じりじりと距離を詰めてくる。サクルは脳裏で、剣を持ってくればよかったと後悔した。夜着のまま外へ出た故、丸腰なのである。

 すると矢庭に、聞き覚えのある女の聲が頭上より鳴らされた。


「失せな!」


 それと同時に、勢いよく狼の上に何者かが飛び降りた。その衝撃の所為なのか、狼は身體を弾け飛ばし、細やかな肉片を其処らに散らばせた。サクルは其処に降り立った者の姿を見て、眼を見開いた。

「ライラ?」

 其処には、ふたりの人影が立っていた。小柄で美しい少女と長駆で細目の男である。ライラとあの祭りの最終日にライラが連れていた者である。だがライラの細やかに波打つ豊かな髪も、あの男の項で束ねて下ろした長い髪も真玄に染まっていた。加えてライラの大きな眼も男の細長い眼も黒闇に塗籠られて、白目まで深淵を潜ませている。そして両人とも赤銅の肌を白く色を抜いている。

 ライラは貌に掛かった髪を掻き上げると、「ふう」と嘆息を溢した。そしてふとサクルと視線が合うとにやりと微笑んで見せた。

「お、サクルじゃん」

 サクルは茫然とライラの黒を見ていた。それはジャウハラにはない色だ。ライラはふとサクルの視線に気付いたのか、己の髪色を見た。

「あちゃ、そのまんま来ちゃったねヤト」

「まったく、慌て過ぎなんですよ。何て説明する算段つもりなんですか」

 ヤトと呼ばれた細目の男は頭を抱えて深々と嘆息している。周囲に駆け付けていた宮女や医官も唖然として真玄の両人を見詰めている。ライラは「ふむ」と呟くと、すっと姿勢を正し、ジャウハラの正式な礼をしてしんとした聲を鳴らした。


「初めまして、ジャウハラの人人。私は夜の民ザラームの「繋ぎ」、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせい。こっちの細目は、私の「守り手」、守司ノ夜刀もりづかさのやと


夜の民ザラーム?」

 とサクルは茫然としながらも語を反復する。ライラ――否、鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいと名乗る夜の民ザラームはからからと嗤って返した。

「黙ってて悪かったね。でもほら、素直に名乗り回ってたら騒ぎになっちゃうからさ?」

 妖しく微笑むとサクルからついと視線を逸らし、彼女は周囲を見渡した。

「しかし、間に合ってよかったよかった。が崩れたからヤバいと思ったんだよね」

「セイ、まったく間に合ってないと思いますよ……」

 と守司ノ夜刀もりづかさのやと鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせい守司ノ夜刀もりづかさのやとと同じ方角へ視線を移すと、丁度ミシュアルが己の弟の元へ駆け寄っていた。サクルも我に返り、己の手の中でぐったりとするミシュアルの弟を見た。

「しっかり。医官、早うこちらへ!」

 己の高熱も忘れて、サクルは叫ぶ。ミシュアルは茫然と段々と呻き聲すらも上げなくなった弟を見ていた。ミシュアルはあの狗が虚ろ狼であることを識っていた。――彼の父親は虚ろ狼に殺され、母親もまた、虚ろ狼に殺されたも同然である。そして次に、弟までも連れて行かれるのか。

 ミシュアルは虚ろに弟を見詰めながら、濃淡のない静かな聲を鳴らした。

「虚ろ狼は、夜の民ザラームと同じなんでしょう?」

鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは眉根を寄せると短く返す。

「正確にはちょっと違うけどね」

「同じようなものでしょう?どうして、私の家族を連れて行くのですか?どうして、弟まで……」

 ふらりとミシュアルは立ち上がった。何事かとサクルが見上げると、ミシュアルの翡翠は視点が定まっていないように思われた。サクルはミシュアルの翡翠ばかりに目を留められて、彼の手元を見ていなった。ミシュアルはふらふらとふたりの夜の民ザラームの元へ寄ると、矢庭に翡翠に冷たい光を灯した。

「私は辺境の生まれだから識ってるんです。夜の民ザラームには濃い血――とりわけ俺たちみたいな宝石持ちの血が毒になるってことを」

 不意にミシュアルが素早く腕を振り上げ、偶々そばにあった鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいへ襲い掛かった。その手にはひと振りの短剣があった。アウスが泉で血を捧げるのに用いたものだ。その剣身にはべったりとミシュアルのものと思われる血が塗り込められてある。

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは躱そうとしたが、思いの外、ミシュアルの動きは素早く舌を巻いた。――彼は目立たぬように振る舞っていただけなのだ。元々、若い頃から力仕事や警備の仕事をこなして日銭を稼いでいた故、身體を操るのは得意としていたのだ。だが、躱せない程にではない。

 鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは身を捩って往なそうとしたその矢先、突然に守司ノ夜刀もりづかさのやとが動いた。どうやら、間抜けにも守り手の本分を成そうとしているらしい。鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいは慌ててそれを留めようとするが、間に合わない。それなりの衝撃を覚悟した――その瞬間、何者かが割って這入って剣を

「きゃあああ!」

 悲鳴を上げたのは宮女である。ミシュアルの振り下ろした短剣は深々とアウスの首を貫いていたのだ。

 

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