第42話 揺らぐ鏡面(弐)


 彼は都よりずっと西のグルブ村で生まれた。兄のミシュアルとは五つ違いで、彼の家族は母親と兄のふたりだけだった。父親はない。商隊の下働きをしていた父親はミシュアルが生まれて数ヶ月経過った頃、砂原に湧いた虚ろ狼に飲み込まれて死体さえ帰って来なかった。

 そしてその後、兄のミシュアルが十五の誕生日を迎える寸前に、母親も過労で死した。

 兄のミシュアルが成人の儀を迎えたその日、村中が大騒ぎをした。平凡な家で生まれた男の眼が、鮮やかな翡翠に変容かわったからだ。無論、当人が最も動揺していた。

 その数日後には翡翠族ヤシュムの高官が兄のミシュアルを訪ねて村を訪れた。村の者たちは己の村から三珠が現れたと歓喜したが、その翡翠族ヤシュムの高官と、兄ミシュアル自身はどん底に落とされたように昏かった。

 翡翠族ヤシュムの高官からすれば、下賎の者に頭を下げねばならぬ故、苦痛でならなかったのである。そしてそれを直に感じていた兄は元より気弱な気象もあって、高官の悪態にびくびくと怯えていたのである。

 まだとおを迎えたばかりの弟は村長が預かると申し出たが、弟は自ら断り、兄についてゆくと名乗り出た。翡翠族ヤシュムの高官はそれも酷く厭がったが、兄の身の回りは己がやると申し出るとすんなりと了承した。詰まりは、下賎の者の世話などしたくなかったのである。

 とおにして生まれ育った村を出て、数日掛けて都を訪れた彼は、砂色の中にあるその華やかさに目を奪われた。白星の近くであればあるほど、こんなにも栄えるものなのかと驚かされたのだ。

 余程の辺境に住まう者で無ければ虚ろ狼を見ることはないが、きっと都に住まう者で見たことのある者はいないであろう。昊から降り注ぐ白星の熱線は灼ける程に熱く、土作りの建物を反射してさらに目映く街を照らし上げている。

 街の中でその都度、翡翠族ヤシュムの高官は耳にタコが出来るかと思われるほどに同じことを繰り返し兄のミシュアルへ言い聞かせた。

「眼を人人に見られぬように。そのような粗末な服装なり緑珠りょくじゅなど、恥ずかしくて堪らない」

 兄ミシュアルは己の眼を見られることに恐れと恥を感じるようになったのか、前髪を切らなくなった。貌を隠し、翡翠を晒さぬようになったのだ。無論、そのような風貌の者が宮の中を歩行き回れば、目立つに決まっている。弟は兄を孤独にしまいと、己も前髪を伸ばして貌を隠した。

 宮では、矢張り想定通りの待遇が待っていた。常に白い目で兄ミシュアルは睨まれるようになったのだ。後ろ指を指され、兄ミシュアルは余計に引き籠もるようになり、建国祭でも表に出ることはなかった。

 

「緑珠様、私たちも「異端」なんですよ」

 

 新しい白鏡の側付きがそう云ったとき、弟は目を見張った。その白鏡の側付きは白鏡とそっくりの貌をして金剛石を分かち合っているのだ。それを周囲には覚られぬよう、貌を、眼を隠して実の兄に付き従ってあるのだ。境遇は違えど、あの男は己と同じ、愛する家族の為に此処にあるのだ。

(白鏡の奴、弟に何でもかんでも説明させて恥ずかしい奴)

 白鏡が語を詰まらせる都度、代わりにその名乗る付き人が兄ミシュアルへ言葉を掛けていた。そのあまりの情けなさに、弟は辟易とした。己の兄ミシュアルはどんなに辛くとも、弟に代行させたりはしない。

(あれじゃあ、尽くしてる弟が哀れだ)

 同じ弟という共感もあり、一層その付き人へ肩を持ちたくなり、弟はつい度々白鏡を避難した。その都度兄のミシュアルに叱られるが、少しは自覚を持って付き人の労苦を減らしてやってほしいという願いもあり弟は止めなかった。――だが一方でその付き人を止めようとも思わなかった。家族の為に尽くしたくなる心持ちが何となしに解せたからだ。

 故に白鏡を装っているその付き人もまた高熱で身體が苛まれていると知っても、中々に止められなかった。眼前で仆れて初めて、もっと早く止めていればと後悔した。

「アウス!」

 聲を鳴らしたのは赤珠のドゥリーヤだ。己の眼の前で彼女は飛び出し、着物を脱ぎ捨てると直ぐ様鏡の泉へ潜った。普段の衣装は軽いといっても、水を吸えば重くなる。その上、アウスは高熱で身體の動きが鈍られてある。弟は蒼白になりながらも兄ミシュアルと共に鏡の泉へ駆け寄ると、丁度ドゥリーヤがアウスを抱えて泉から出てきた。ミシュアルはドゥリーヤへ寄ると慌てふためいた様子で聲を鳴らした。

赤珠せきじゅ様、アウ……白鏡様はご無事ですか?」

 途中で呼び名を変えたのは、騒ぎを聞きつけた者に聞かれぬようにする為だ。宮女たちが大騒ぎをして、医官を呼べと走り回っている。その騒ぎを聞きつけた青珠せいじゅカリーマと老兵のターハーが駆け付けるや、ドゥリーヤの代わりにアウスを抱えて云った。

「あたしが室まで運ぶ。ターハー、金剛石族アールマスの医官を連れて参れ!」

 アウスは小柄だと言えど男。それを軽々と抱えたまま、大股でカリーマは白の宮へ早足で進んだ。老兵のターハーは急ぎ本宮へ走るのを認めるとドゥリーヤも兄ミシュアルも彼女に続こうとした。その瞬間、ミシュアルの弟のみ立ち止まった。

(今の、は……?)

 鏡の泉の水面が風もないのに大きく揺らいだような気がしたのだ。弟は恐々おそるおそる泉へ振り返ると、泉から奇妙な影が伸ばされているのを目に留めた。それは一疋の狗のような形をした影だ。

(虚ろ…狼)

 その影は白の宮へ向かう兄たちの方角へ伸ばされている。弟は我知らず劈くような聲を響かせ、兄ミシュアルたちへ全力で飛び込み、割って這入った。

「兄さん!」

 その瞬間。弟の左足から全身にかけて、焼けるような痛みが駆け抜けた。弟に背を押された兄ミシュアルは前髪の奥で翡翠の眼を見開き、音にならぬ聲で弟の名を叫んだ。

 

 

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