第41話 揺らぐ鏡面(壱)


 建国祭の終わったその翌朝、ドゥリーヤはミシュアルとその弟とともに鏡の泉のそばで花を摘んでいた。室に生ける花を集めようとドゥリーヤが提案したのである。ようやくドゥリーヤにも慣れたミシュアルは時おりこうして過ごすことも多くなっていた。

 ドゥリーヤは花を束ねながら、中々に現れないサクルを不審に思った。毎朝早くの時間に、欠かさず泉に血を捧げに訪れるはずなのだが、白星はもう間もなく天頂に届く頃となっている。

 ふとミシュアルが面を上げると柱廊へ向けて手を振り、聲を鳴らした。

「あ、遅かったですね。白鏡様」

 ドゥリーヤもつられてミシュアルの視線を辿る。今日は日差しが強い所為か、深く丈の長い被り布ヴェールを被って身體をすっぽりと覆った白鏡の姿がある。彼が鏡の泉のそばれ辿り着くと、ドゥリーヤはつかつかと歩行き寄った。

「遅かったではないか。如何し……」

 ドゥリーヤは語の途中で言い淀んだ。被り布ヴェールの下にあったのはアウスであった。傍目には短い髪と常と逆の白銀には気付かれないが、ドゥリーヤの目は誤魔化せない。ドゥリーヤはアウスの胸倉を掴むや、忍び聲で叫んだ。

「何で御前がその格好をしとるんだ!」

「兄上は風邪だ」

「風邪だとう?あのたわけ、何をしとるんだ。というかそなたも随分と大胆に出たな!怖いわ!」

 ドゥリーヤは頭を抱えながら唸った。今朝方、サクルは突然に高熱を出したのである。恐らく気を張り詰め過ぎたのであろうと判じたアウスは、兄を寝台から出さぬため、役割を代わったのだ。

 アウスの右の眼は、サクルの左の眼と同じ金剛石。白鏡たる証だ。故に、やろうと思えば白鏡の務めはアウスにも担える。加えて、アウスとサクルは余程親しい仲出ない限り見分けの付かぬ双子。片方にしか白銀を有さないことを知る者は数少ないゆえ、長さの異なる髪と腕に入れた墨さえ隠してしまえば誰も気が付かない。

 アウスはからからと笑いながら、ドゥリーヤの肩を叩いて宥めた。

「意外と細かいところは誰も見ていないから、問題ない」

 何時までも忍び話をしているのを訝ったのか、ミシュアルとその弟もアウスのそばへ駆け寄った。膝を付いて唸るドゥリーヤを見るや、多くの方が貌を引き攣らせた。

「何やってるんですか……」

 つと、弟はアウスを見て貌を顰めた。サクルは度々ミシュアルを訪ねている上、サクルの白銀が左にしか無いことを知っている故、流石に一瞬で見抜いたのだ。

「……何してるんですかアウス殿」

「し!」

 何故か身體を張って口を塞ぐドゥリーヤに、アウスは苦笑した。ミシュアルは怖々おずおずと前髪の奥で翡翠をアウスに向けながら尋ねた。

「白鏡様はどうなさったんですか?」

「単なる風邪です。今は大人しく寝かせておりますから、明日明後日には回復しますよ」

 アウスの返答に、ミシュアルは「よかった」と胸を撫で下ろしたが、彼の弟は貌を歪ませた。

「本当に、弟に尻拭いばかりさせる駄目な兄ですね」

「耳が痛いよ、弟」

 ミシュアルががっくりと肩を落とすと、弟は眉を顰めて語気を強めて返す。

「流石に兄さんの代行したりしませんよ。愉しいんでぬか?兄の尻拭いなんて?」

「兄を支えるために己があるのだと思っているからな。君も、兄が好きだから此処にあるんだろう?」

 弟は言い返せずに口を噤んだ。彼もまた、愛する兄のために泥水を掛けられても尚、宮殿にいるのだ。だが言い返せないことが気に入らず、弟は「ふん」と鼻を鳴らしてその場を立ち去ろうと踵を返す。だがその瞬間、誤って小石に足を取られ、つんのめったミシュアルの弟は頓狂な聲を上げた。

「わ!」

 咄嗟にアウスが彼の腕を引き寄せ、顔面強打は免れた。ミシュアルの弟は冷たい汗を額に伝わらせながらも小さく息を吐き、アウスへ礼を云おうとした。

(ん?)

 ミシュアル弟は、己の腕を掴む手がやけに熱いことに心付いた。元々体温が高い者はあるが、それにしても高過ぎる。はっとしてアウスへ視線を向けると、頭布ヴェールの下で、アウスは酷く汗を搔いている。

「おい、アウス殿」

 と呼び掛けた途端、アウスが指を立てて「しっ」と云った。黙っていろ、ということであろう。ミシュアル弟は他の二者に聞こえぬよう聲を一層忍ばせて尋ねる。

「あなたも具合、悪いんじゃないですか。何で代わってるんです」

「兄上は休みが滅多に取れないからな。これを機に少しは身體を休めてほしいんだよ」

「……このこと、白鏡様はご存知で」

「伝えていたら、兄上が交代など許してくれる筈ないだろう」

 ミシュアル弟は閉口した。アウスは額の汗を拭うと、己の体調を覚られぬよう、確かな足取りで鏡の泉の前へ行き、腰元に携えた短剣を取り出す。何時もサクルが行うようにその刃を指にあてがって横に引き、ぷつりと傷口から零れ落ちる真朱まそほの雫を泉の水面へ落とす。

 アウスは高熱で歪み揺らぐ水面をじっと眺め、尾を引いて水の中へと溶けていく真朱まそほを見る。――突然、ぐらり、とアウスの視界が大きく傾ぎ、視界の端で黒い靄のようなものが揺らいだ。

「アウス!」

 後方で鳴らされたのはドゥリーヤの聲である。悲鳴に近い。気が付けばアウスは鏡の泉の中へ落ちており、大きく揺らぐ鏡面の昊を見た。大きく歪み、白星が割れているようにも視えた。









「――あ、不味いね」

 夜の地の果てで、夜と昼を繋ぐ者は面を上げた。黒暗の天頂に覗く白星が歪み、大きく裂け目を作っている。すっくと「繋ぐ者」は立ち上がると、その後方に坐していた「守り手」が低く聲を鳴らす。

「元々、歪みは出ていたでしょう。時間の問題だったのですよ」

「でも、放って置くわけにはいかないでしょ」

 繋ぐ者――鏡渡ノ玄星かがみわたしのげんせいはにやりと嗤うと、静かに夜の地から姿を消した。

 

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