第32話 混色(弐)
その間延びした聲に、ラーミウもまた一瞬手を止めた。だがシハーブはその一瞬を逃すこと無く、さっと走り寄って短剣の握られた腕を強く蹴り上げた。あまりの突然のことにラーミウは受け身も取れず、あえなく体勢を崩して尻餅を付き、短剣を手放した。
シハーブとともに室内へ這入ったマージドはすかさず飛び込み、ラーミウを抑え付けた。
「御前は馬鹿か。何をしようとしてるんだ!」
「五月蝿い……何で止めるんだ!」
マージドの腕の下で、ラーミウは身體を起こそうと暴れた。爛々と琥珀を燃やし、マージドを睨め付けている。無論、宮でも随一の筋力を有するラーミウにマージドが敵う筈もなく、マージドは直ぐにラーミウから突き放されて尻餅を付いた。
すると何時の間にか室内へ這入っていたヤトがラーミウの肩を掴んで留めた。
「まったく、貴方を見ていると、厭な気分になる」
眉根を寄せ、その細長い冥闇は酷く細められている。そのかたわらで短剣を拾い上げていたシハーブがけらけらと嗤い、にやりと口端を持ち上げた。
「
「んな、御前は何時も理解っていてそういうことを平気でよくもまあ云いますよね」
ヤトは怒りを顕にして、シハーブを睨め付けながらも、尚も振り払おうと藻掻くラーミウの腕を捻りあげて床へ叩き付ける。
その様子をカリーマは呆れた風に見詰めていたが、ドゥリーヤははらはらとしながら見守っていた。そしてドゥリーヤの想像通り、腕が折れそうなほどにラーミウが腕を動かして身を捩り始める。ヤトもそれには驚かされたようで、小さく舌打ちしながらも語を溢した。
「まったく、意味のわからない男ですね」
ヤトは嘆息を溢すと、ラーミウから手を離した。ラーミウはさっと身體を起こすと、後退ってヤトから距離を取った。
「……ラーミウ、早まるな」
鳴らされたのはナジュムの聲だ。戸の横で片手に湾刀を握ったまま立っている。その湾刀を腰元の鞘へ戻すと、
ドゥリーヤは上背のあるナジュムを見上げると、紅玉でナジュムの三白眼を力一杯睨め付けた。紅玉に映されているのは、寝台で冷たくなっている白鏡と同じ
「ナジュム、
「お久しぶりです」
ドゥリーヤの紅玉に気圧されること無く、ナジュムは静かにドゥリーヤへ目礼をした。つとラーミウへ向き直るとまた杖を付いて歩行き寄り、杖を支えにしながら屈んでラーミウと視線を合わせた。
「ラーミウ、死に急ぐな。
ラーミウは琥珀に怒気を灯したまま、ナジュムへ向ける。其処にはいつもの生気はない。ただ、サクルの元へ行けなかったことへの苛立ちだけがある。
マージドはようやく立ち上がると、ラーミウへ歩行き寄った。あまり彼を刺激せぬよう、手の届かぬ程度の距離で足を留めると、絞り出すように語を落とした。
「ラーミウ。白鏡様は最期に、「後は任せる」とおっしゃっていた」
マージドとドゥリーヤの脳裏には、死の間際で懺悔と願いを落とす白鏡の姿。マージドの切な面持ちを見、ラーミウは琥珀を揺らして静かに項垂れた。肩を震わせながらか細い聲で「そんなのずるい」と呟き、嗚咽を漏らす。泪で歪んだ己の手元を見詰めながら、ラーミウは聲を鳴らさぬよう堪えた。
すると矢庭に、悲嘆に暮れる空気を
「あのさ、死んで
「は?」
と思わずマージドは聲を上げ、シハーブを見る。シハーブは何時ものにたにた嗤いは浮かべておらず、表情のない面持ちをしていた。顔貌の整っている所為か、人形を思わせる。シハーブは
「そうすりゃ、知らんうちに大好きな王サマと
その聲は、離れた位置に立っていたマージドやドゥリーヤ、カリーマには届かれていない。無論ヤトにも届かれていなかったが、彼は眉をぴくりと動かして一歩前へ出てシハーブに寄ろうとしていた。ラーミウは茫然とシハーブの冷たい眼を見上げていた。やおらシハーブはラーミウから身を離すと、口端だけ持ち上げて嗤った。
「ジャウハラの奴らみーんな見捨てて、自分だけ心安らかになる。全然アリだと思うよ。どうせ還れば皆、
「シハーブ!」
聲を上げたのはヤトだ。細長い
「ははは、ヤト。その
「いいのか……?」
とすかさず返したのはナジュム。三白の眼を動揺で揺らしながらも
するとシハーブはすっくと立ち上がり、呑気にな様子で大きく背伸びをした。ヤトは変わらず眉間の皺を寄せて、黙してシハーブを見詰めている。シハーブはひょいとヤトのそばへ寄ると、その眉間を指で弾いた。
「そう不貞腐れんなって」
「でも矢張り、私は反対です。このまま放っておけばいいのに」
「だって、もう隠したって
ラーミウへ向けられたシハーブの左目は、真玄に染まっていた。白目も黒く塗籠られて、眼窩の奥は深淵となっている。頭頂より垂らした砂色の髪も徐々に黒く変容しつつあり、その夜の色にラーミウは琥珀を見開いた。砂色の右目と赤銅の肌はジャウハラの様相を残しているが、それはヤトと同じ色である。ラミーウは意図せず、語を溢した。
「
シハーブはにっこりと微笑むと、ヤトの横に並んで恭しく一礼して云った。
「初めまして、「繋ぎ」の資格を持つジャウハラ。
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