第31話 混色(壱)
ラーミウはつかつかとドゥリーヤへ寄ると、聲を荒げて云った。
「
ドゥリーヤは、十年も
(あれは……)
マージドの後ろにあった姿にドゥリーヤは瞠目した。玄髪を項で束ねて流し、細長い眼の奥に真闇を潜めている。すたすたとマージドの後方を歩行き、ドゥリーヤと視線が合うと、眉根を寄せて貌を歪めた。ドゥリーヤは我知らず、小さく語を落とした。
「
「おや、覚えていたのですね。紅玉を持つジャウハラ」
ラーミウの後方でヤトは立ち止まり、にやりと嗤ってみせる。マージドは暫しドゥリーヤとヤトを見比べ、ドゥリーヤの紅玉と目が合うと、ようやく尋ねた。
「お知り合いで?」
「あ、
ドゥリーヤは嘆息し、ヤトへ紅玉を向けた。ヤトはふん、と鼻を鳴らすと吐き捨てるように返す。
「私も好きで来たわけじゃあないですよ」
「ということは、
「誰が態々、貴方たちの為にやると?その代わり、あの一本足がぴょんぴょん頑張ってますよ」
「一本足?」
すると矢庭に、「ぎゃん」という獣の哭くような聲が割って這入った。それと同時に激しい打撃音を鳴らしなが鳴らされ、ヤトの直ぐ後方の柱に虚ろ狼の一疋が叩き付けられる。ヤトは眉を顰めると振り返り、荒げた聲を鳴らした。
「喧しい!少しは静かにできないのですか、シハーブ!」
「えー?」
その柱のかたわらにあったのは、形の整った顔立ちの若者の姿。沓に血を塗り込めて蹴飛ばしたらしい。虚ろ狼が呻き聲を鳴らしながら立ち上がろうとすると、シハーブは妖しい笑みを溢しながら何度も踏みつけ、狗の肉や骨の曲げる音を鳴らす。その都度に狗は悲痛な聲を鳴らして身體を大きく震わせるが、シハーブの足は強く踏みつける足は止められることはない。
鮮血を周囲に飛び散らせその中に肉片が混ざり始めるとようやく哭かなくなった。狗の血を全身に浴びるという何とも恐ろしいいで立ちのままシハーブはひょいと動かなくなった虚ろ狼から離れ、柱廊へ視線を向けて間延びした聲を鳴らす。
「
聲の先には、杖を突きながら器用に湾刀を振るう屈強な男の姿。ナジュムは襲い掛かる数疋の虚ろ狼を血の塗り込めた湾刀で薙ぎ払い、怯んだところを何度も刻むように何度も斬りつける。カリーマは己の血を垂らして、逃げ損ねた宮の者たちを狗から守っている。シハーブはにやにやと嗤いながら「まだっぽそうだね」等と不釣り合いなほど明るい聲を溢し、腰元から短剣を取り出す。マージドも湾刀を握り直すと、ドゥリーヤを一瞥して語を掛けた。
「
シハーブが短剣で己の腕に傷を付けて血をその短剣に垂らすと、マージドも続いて己の指に湾刀の刃をあてがう。ドゥリーヤは我に返ったようにマージドの湾刀を留めて云った。
「わたくしの血を。そなたの血より、効力が長い」
「
「うだうだ申すでない!早く!」
ドゥリーヤは己の腕に爪を立てると、押し付けるようにその腕を差し出した。マージドは暫し目を泳がせたしろぐも、「失礼」と言って軽くその腕を持ち上げ、腕を伝う真朱の雫を湾刀へ垂らす。マージドはドゥリーヤの腕を離すと目礼し、急ぎナジュムの元へ駆け寄った。
腕を伝う血を緋色の裾で拭い、そばに立つヤトへ紅玉を向けた。ヤトは腕を組んで立ち、
「ラーミウは
矢庭に鳴らされた老女の聲に、ドゥリーヤは足を進めるのを留めた。知らぬ間に、カリーマがドゥリーヤのかたわらに立っていた。皺の寄った貌の中で鋭い光を宿す瑠璃をドゥリーヤの紅玉へ向けている。ドゥリーヤは目を見開き、震えの伴った聲で語を落とした。
「カリーマ様?」
「久しいねえ、ドゥリーヤ。御前さんも
カリーマの瑠璃は穏やかに細められ、口許には柔らかな微笑がたたえられている。ドゥリーヤは我知らず、一筋の泪を頬に伝わらせていた。そのことにドゥリーヤは心付くと動揺したように貌を覆う。
「す、すみません。このような取り乱したみっともないところを……」
「構わないよ。あたしにとって
カリーマは苦笑いを浮かべてドゥリーヤの背を優しく叩いた。ドゥリーヤはそれでも気恥ずかしく、貌を手で覆ったままだ。カリーマは宥めるようにドゥリーヤの背を擦ると、ふと薄暗く室内へ瑠璃を向けた。
「……サクルも、あたしのような老いぼれよりも先に逝くとはね」
「カリーマ様がお発ちになってから、
ドゥリーヤの静かな聲に、カリーマは静かに頷いた。白鏡や三珠でなければ、そうも長くは耐えられまい。されど、その分長い間痛みに苦しみ続けることとなる。カリーマは苦しげに貌を歪めると、
室内は青鈍から届く僅かな光に照らされている。その
カリーマは寝台の前で茫然と立ち尽くすラーミウを認めると、そっとそばへ寄った。ラーミウの琥珀は昏く沈み、泪すら流されない。ドゥリーヤもカリーマの後に続き室へ這入って戸を閉めた。それと同時にカリーマはラーミウへ聲を掛けようと手を伸ばした。
だがその手がラーミウの腕に届かれる手前で、ラーミウは濃淡のない聲を鳴らした。
「僕は、サクル様の為だけに、何年も各地を飛び回ったんです」
ラーミウは黒ずんだサクルの右頬に手を添えた。その頬は冷たく、痩けている。首も手脚も、枯れ枝のように痩せ細っており、そのことが一層ラーミウを惨めにさせた。
十年ものの間、ラーミウはサクルの命で各地を旅していた。その
「こんなことなら、おそばを離れるんじゃなかった……
ドゥリーヤはようやく我に返った。ラーミウのもう片手には短剣が握られていた。カリーマも心付いたようでその手を留めようと手を伸ばすが届かれない。だが突然に背後の戸が勢いよく開け放たれ、聲が響き渡った。
「はいはーい、そこの旦那ストーップ」
その緊張感のない聲に室内の女たちは手を止め、振り返った。其処には、シハーブとその後方で唖然としているマージドの姿があった。
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