第27話 退色の災禍(参)


 突如昊の白星が翳り、雨雲もないというのに、群青は色褪せて青鈍あおにびの色となったことで、宮に在る者たちは騒々とし、その不穏な昊から目を離せずにいた。故に、彼等は泉より長い影が伸ばされて居ることに心付かなかった。

 水鏡の縁よりその影は伸び、次第にその全てを真黒まくろに塗り上げた。像も返さぬほどの闇だ。水面に浮く睡蓮はすの花々を飲み込み、泉を出て茂みやその上をゆく凪ネズミまでも取り込んでゆく。それはゆらゆらと揺らいで次第に輪郭かたちを成し、四脚と胴体、そして首を作り出す。

 まるで壁のような狗の影が足元を翳らせて初めて、宮女たちは鏡の泉の方角ほうを見た。

「あ、あれ!」

 そのうちのひとりが聲を震わせながら、その影を指差した。それは鋼のごとく硬い体毛を持つ、狼の群れだ。地と同一でありながらも、その姿を確固たる者にしようとしている――虚ろ狼うつろおおかみの群集だ。

 だが宮女のみならず、衛兵もその狗の招待を知らず、ただただその大きさに唖然として身動きひとつ取れない。聲すら上げられない。そうしている内に虚ろ狼が数人の宮女を飲み込み、ようやく我に返った衛兵が聲を張った。

「狼だ!みなの者であえ!」

 だがその多くは虚ろ狼を。故に、如何にして対処すべきかも心得ておらず、虚しく長槍を振るうばかりだ。ひとり、またひとりと衛兵をも飲み込んで、虚ろ狼は進む。宮は一寸の内に阿鼻叫喚に包まれた。ようやく辿り着いたマージドも同様で、湾刀の通ることのない敵に愕然とした。

「マージド、血だ!そなたの血が盾となる」

 聲を鳴らしたのはドゥリーヤだ。ドゥリーヤは数人の宮女を己の後ろに下がらせて、やおらその指に一筋の傷を作った。細く靭やかな赤銅の指より数滴の真朱まそほの雫が落とされると、疾走り寄っていた虚ろ狼が突として留まった。虚ろな眼をぎょろぎょろさせて、ドゥリーヤを睨め付けながら、周囲をうろうろとする。ドゥリーヤは恐怖で慄く宮女たちを宥めながらも、凛とした聲で語を紡ぐ。

「わたくしの――。戦えぬ者はわたくしのそばへ。戦える者は刃に血を垂らし、凌ぐのだ」

 ドゥリーヤは数滴を柱廊に渡すよう垂らし、虚ろ狼と一線を引く。虚ろ狼を「忌避させる」効力は、たいていの血では持続しない。故に何度も斬り伏せるしかないのだ。だが、白鏡を支える者である三珠は異なる。その効力は他よりも続き、陣を描くことで暫しの間同胞を守ることが出来るのだ。即ちラーミウは我知らず、ドゥリーヤと同じことをしていたのだ。

 マージドは横目にドゥリーヤや宮女の姿を捉えると、鉄錆の塗り込められた湾刀を振るい虚ろ狼を退けながら駆け寄り、ドゥリーヤの腕を押し留めようとした。

赤珠せきじゅ様、それでは貴女様の身が保ちませぬ」

「どちらにせよ、このままではみな保たん」

 きっぱりと言い切ると、ドゥリーヤはマージドの手を振り払った。その紅玉は凛として、背くことを赦さない。ドゥリーヤは鏡の泉を見据えた。黒塗りになった鏡面からは続々と狗が湧き出て、止むことを知らない。ドゥリーヤはやおらマージドの胸倉を掴んだ。

「あの狼を滅することができるのは、白星の光か夜の民ザラームの「呼び聲」のみだ。……本来は奴等あれへ勝手に手を出すのもいかんのだが……この際仕方あるまい」

 マージドは口を挟もうとするが、ドゥリーヤは胸倉を強く引いて語を噤ませる。ドゥリーヤは街のある北方を臨み、低く語を次ぐ。

「マージド、今すぐ街へ下れ。ラーミウが夜の民ザラームをきっと連れて参るはずだ。若しくは既に連れているやもしれん」

 この騒ぎで、文を預かった者もそれどころではないのであろう。ドゥリーヤは未だ、ラーミウから文を受け取っていない。故にラーミウが北の村へ立ったことを知らせたのち、彼がどうなったのか知る由もない。だが彼の向かった場所から都までの距離を踏まえると、何もなければ建国祭当日の今日、都へ戻っていても可怪しくはないことをドゥリーヤは知っている。

「ですが、赤珠せきじゅ様を置いて行くなど……」

「何をラーミウのようなことを申しておる!どちらにせよ、このままでは共倒れ。更に悪ければ、あの狼は民を襲う。その前に早く!わたくしはこれでも三珠のひとり。そう易易と殺られん」

 ドゥリーヤの紅玉が鋭く光っている。その気迫に、マージドはたじろいだ。一疋の虚ろ狼が迫っているのを認めると、ドゥリーヤは力強くマージドの腕を引いて寄せ、血の陣の内側うちへ入れた。ドゥリーヤは地の流れる己の腕を狗へ翳して牽制しながら、聲を張った。

「ずべこべ云わず、さっさと行け」

 マージドは我に返ったように跪くと、「承知」と云って語を次ぐ。

「承知。直ぐ連れて参ります」

「それでよい。外までわたくしが伴う」

 他の場所からも虚ろ狼が湧いていないとも限らない。ドゥリーヤは一室の前と中の窓穴の前に血を垂らすと、其処へ宮女たちを押し込めた。

「そなたたちは其処にいろ。よいな、決して外ヘ出るでないぞ」

 ドゥリーヤの言葉に、宮女たちは蒼白になりながらもこくこくと頭を縦にふる。ドゥリーヤはそばにあった宮女たちが室に這入ったのを認めるや、マージドを手引て柱廊を歩行あるき始めた。

「よいか。街へ下ればラーミウと――そして青珠がいる。少なくとも、青珠の場所は文で知らされている」

 ドゥリーヤは数日前にラーミウより受け取った文をマージドへ手渡す。開けてみれば、ラーミウの筆跡の流麗な文字が端的に並べられてある。

(そうだった。あれは無駄に何でもかんでも研鑽を積んでいたんだったな)

 ラーミウというのは文武両道を地で行く男だ。学問武術は無論、絵や文字や礼儀作法まで其処らの者より巧みで、何ならば茶を淹れるのも得意としている。マージドは苦笑を溢すのを堪えながらその文を懐へ仕舞い、腰元の短剣があることを確かめると、湾刀も腰元へ収めた。

 マージドはドゥリーヤへ向き直ると、静かに語を落とした。

「必ずや、連れて参ります」

 マージドは一礼すると身を翻し、宮から続く長い石段を下って行った。ドゥリーヤは彼の背を見届けると、踵を返して宮へ在るみなの元へ戻った。

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