第26話 退色の災禍(弐)
やや時を遡る。薄暗さのある天幕の中で、カリーマはラーミウと共に還砂病の者への処置に当たっていた。かたわらにはナジュムがあり、力を要する作業は彼が代わりに担っている。
ようやくひと段落がつき深々と嘆息し、カリーマは己の傷を手で塞いで云った。
「まったく、ここの男たちは騒がしくてたまらん」
冷ややかな瑠璃の先には、丁度ラミーウがヤトとシハーブ両人の後方へ手を伸ばし、ひょいと一疋のネズミを摘まみ上げて見せている。
「兎に角。退屈してるなら、凪ネズミの駆除でもして下さい。昨晩から矢鱈湧いて、彼方此方齧って仕方がない」
それに対してヤトとシハーブは緊張感のない様子で呑気な聲で返していた。
「あ――、死体予備軍を齧るわけね。其処ら中に食料転がってればそりゃあ数も増えるか」
「数があっても臭いだけです。いっそ齧らせておけばよいのでは?」
ラーミウも病人に張り付いたネズミを遠慮なく引き剥がしており、まったくもって配慮というものが感じられない。カリーマが呆れた風に頭を抱えると、ナジュムは僅かに苦々しげに返す。
「ラーミウがああなるのも仕方あるまい」
ナジュムがラーミウの周囲にいる者へ視線を向けると、一晩明けた今も尚奇異の目をラーミウの琥珀へ向けている。カリーマは
「まあ、ああも
カリーマを含め、宝石の眼を持つ者たちの血は病の進行を遅らせることは叶っても、完全に収めることはできない。ゆえに人人は手放しで喜べず、若しや遅効性の毒ではあるまいかと疑わずにはいられないのだ。
ふとナジュムは視界の端でラーミウが天幕の外ヘ出たのを認めた。続いてヤトも天幕の外ヘ足を運んでおり、その手には凪ネズミの骸の詰まった水瓶。骸があればまた凪ネズミが湧くので燃やして灰にする
ナジュムは視線をカリーマへ戻すと低く忍び聲を鳴らした。
「カリーマ、話がある」
「どうしたんだい急に」
カリーマも揃えて忍び聲になる。患者たちにその語が届かぬように、身を寄せてナジュムの聲に耳を傾ける。ナジュムは天幕の入口へ視線を向け、何者の姿もないことを認めると静かに語を次いだ。
「言う機会を逃していたのだが……虚ろ狼と共に、
ナジュムの語の意を汲もうと、カリーマは眉根を寄せながら首を捻った。ようやく心付いたように瑠璃を見開くと、カリーマは思わず頓狂な聲を鳴らした。
「何だって?
「
「まあ、奴なら云いかねんな」
人差し指を口許に立てるナジュムに、カリーマは瑠璃を据わらせて嘆息を溢した。彼女も天幕の周囲へ瑠璃を向けた。其処には還砂病の者とその家族の姿、そして己たちしかいない。シハーブもヤトを追ったのか姿を見せていない。カリーマはまたナジュムへ視線を戻すと密かに聲を鳴らした。
「だが――今は
「
カリーマは深々と息をつくと、瑠璃を歪めて貌の皺を増やす。
「矢張り、か。いったい如何して顔を見せる気になれたのか」
「偶々、と云っていた」
「偶々、ねえ……」
カリーマはその偶然に思案する素振りを見せる。ナジュムは貌に曇らせると、天幕の入口へ三白の眼を向け直した。そのかたわらでカリーマは独り言つように吐息のような聲を鳴らした。
「その偶々はいつまた起きてくれるのだろうね」
天幕の外から大通りに出る手前。ラーミウは目の痛みを堪えながら、よろよろと立ちがっていた。琥珀が焼けるように痛むのだ。試しに触れてみるも、特に形が崩れるような様子はなく、だのに黒い涙が流されている。ラーミウは困惑しながらも涙を手で拭い、ふと己の足許に伸ばされた影に心付いた。
「
振り返って見ると、其処にはひとりの人影がある。頭の上から砂避け布で覆い、貌を隠している。上背はなく、十代前半の
「少しぶりだな」
それはマウジ村で聞いた少年の音だ。ひょいとラーミウのそばへ寄ると、靭やかな赤銅の腕を伸ばした。ラーミウは一寸驚いて後退るが、彼の手がラーミウの頬へ届かれるのがさきであった。身體の大きさの割には細く大きな手だ。ラーミウの顔をひと飲みしそうな程である。
その手はラーミウの頬を包むと親指で涙をぬぐいとった。指に付着した黒い涙を暫し見詰めると、少年は口許から表情を落とし低い聲で語を次ぐ。
「痛むか?」
「え?」
ラーミウは染み入る琥珀を歪ませながらも尋ね返す。少年はやおらまた腕を持ち上げると、指でラーミウの琥珀を差す。
「眼に決まっているだろう」
指差さされた琥珀で
「痛みますけど……そんなに痛そうにしてました?」
「わかり易くな」
「……それはすみませんね」
ラーミウは吐き捨てるように云いながらも、時おり両の眼から走る痛みに眉根を寄せる。その痛みが常にあれば慣らすことも出来るだろうに、その痛みは断続的だ。ゆえに身構えることも叶わずその都度息を詰まらせる。
貌を隠している少年は見守るようにラミーウを見上げていた。だが矢庭にまた背伸びをし、細く大きな手でラーミウの目を覆った。
突然に視界が閉ざされ、ラーミウは「わ」と小さく聲を上げた。だが少年の手は離されず、ラーミウの視界に闇の帳を下ろしている。
ラーミウの琥珀は熱を帯びていたらしい。被せられた手がひんやりと心地好い。光の残存が薄闇の中にちかちかと瞬いて、次第に消えていく。それと共に眼の熱さも引いて行く。ラーミウがはたと動きを留めたままでいると、その目下で少年が静かに問うた。
「これで如何だ?」
少年は手を離した。戻された眩しさにでラーミウは貌を顰めたが、そこにはあの鋭い痛みはない。ラーミウは我に返って目元に触れた。
「あれ?痛くない」
「凌ぎの処置だが、暫くは保つ筈だ」
と云い終えると少年はラーミウのそばを離れた。ラーミウは茫然としながら目元から手を下ろし、その少年を見た。
「あなたはいったい、何者なのですか?」
少年の口許からは表情が読み取れない。ラーミウの方を向いてただ口を噤んでいる。少年はふと青鈍の昊を見上げて云う。
「どうせ間もなく
「……
「はは、今は
「それは如何いう……?」
だが少年は応えない。大通りの方へ身體ごと視線を向けて、何かを探っているように黙している。突として少年は振り返り、低く聲を鳴らす。
「時間だ。宮へ向かわず、此処で待て。迎えが来る」
「は?でも……」
「妙に行き違っても面倒だろう。私はこれで失礼する」
少年は砂避け布をついと手で引いて、さらに被り布を深く被った。その所為で、口許も陰って表情が定かではなくなる。少年はふらりと大通りへ躍り出ると、語を加えた。
「必ず、
ラーミウか一度だけ瞬きをすると、彼の姿は失せていた。
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