第25話 退色の災禍(壱)


 ラーミウの血はよく効いた。


 地の与えられた還砂病かんさびょうの者たちは天幕の片隅で溶けかけた眼を閉ざして安らかに寝息を立てている。己の家族や知人を差し出しながらも、人人は不審そうにラーミウを見た。だがラーミウは気に留める素振りもなく、淡々と処置して廻り――何時とは無しに一晩が開けた。

 ラーミウはふと、天幕の端にいるヤトとシハーブを琥珀に捉えた。彼等は呑気にも欠伸などして、暇を持て余している。ラーミウは貌を顰めると彼らへ寄って云った。

 

両人ふたりとも、ぼさっとしてるなら手伝って下さい」

 

「それもいいけどさ、その腕を流石にそのままにするのは如何かと思うぜ」

 先に語を返したのはシハーブだ。彼の視線の先では、血の流されたままのラーミウの腕がある。ラーミウは己の腕を持ち上げると、のんびりとした口調で返した。

「どうせまたこうなるんだし、問題ないでしょう」

否々いやいや、失血死するのは勝手だけどさ。天幕の中を血塗れスプラッタにすんのは如何かと思わない?」

 と云うと、シハーブは顎で後方を指し示した。ラーミウもその方角を振り返って見ると、彼方此方あちらこちらに点々と朱殷しゅあんになりつつある血の痕跡あとが残されている。中には、おそらく皮膚を裂いたときに飛沫となったものであろう痕跡あともある。

 ヤトもシハーブに同意するかのように頷くと、貌を歪めて細い眼を一層細めた。

配慮デリカシーというものがないのですか、貴方は。それともジャウハラはみなこうなのですか?」

「んなわけねえじゃん。周囲まわり見ろよ。愉快な貌してんよ」

 シハーブはけたけたと嗤って応じた。その周囲には、気不味げにラミーウの横を過ぎる赤銅の男女。彼等は寝かせている患者の元へ向かうか天幕を出るかの途中である。新たに天幕を訪れた者たちは天幕の中で広がっている惨劇、もとい血痕に必ず目を剥いて立ち留まる。

 暫し周囲の表情を見た後、ラミーウは渋々と腕を着物で拭った。すると今度は土色の着物にべったりと付着く。それはそれで如何なものかと思われるが、ラーミウは気に留めず、ヤトとシハーブの後方へ視線を戻す。


「兎に角。退屈してるなら、凪ネズミの駆除でもして下さい。昨晩から矢鱈湧いて、彼方此方齧って仕方がない」


 ラミーウは両人の後方へ手を伸ばし、ひょいと一疋のネズミを摘まみ上げた。ぎょろめのひとつ目ネズミだ。未だ小さく、児童こどもの小指程度の大きさだ。ラミーウに尾を掴まれてきいきいと鳴きじたばたと暴れている。シハーブは繁々とネズミを覗き込むと呑気な聲を鳴らす。

「あ――、死体予備軍を齧るわけね。其処ら中に食料転がってればそりゃあ数も増えるか」

 その薄情な言葉に、周囲にいる男女おとこおんなは眉を顰めた。無論、他者ばかりであれば情を感じないこともあるだろう。だが、横たえられた中には、シハーブと言葉を交わしたことのある情婦の姿もある。だがそのかたわらにあるヤトは諌めることなく、語を加えた。

「数があっても臭いだけです。いっそ齧らせておけばよいのでは?」

 更にはヤトは肩を竦めて嘆息を溢してみせる。病者の付き人たちは眼を吊り上げ、不謹慎な男たちを睨めつける。

 だが「予備軍」という語は的を射ているのも事実である。還砂病の者は半ば死の淵に足を付けている者。死肉を喰らう凪ネズミにとって、還砂病の彼等は馳走なのだ。ラーミウは琥珀でひと睨みして今にも殴り掛かりそうな人人を黙させると、両人の肩を掴み天幕の中央へ引き摺った。

「駄目なものは駄目です。無駄口叩く暇があるならさっさと行ってください」

 言葉に関する注意が含まれていないことに、周囲の人人は貌を引き攣らせた。ラーミウは病人のひとりに齧り付くネズミを無理やり引き剥がすとヤトの貌に叩きつけた。

「ほら、ぼさっとしない」

「……矢張り貴方、配慮デリカシーというものがないですよね」

 ヤトは日常ふだん蔑んである筈のジャウハラへ哀れみの眼を向けた。齧ったネズミを力任せに引き離した所為で、肉が削げている。ラーミウは一応とばかりに傷口に酒を掛けて汚れを祓ったのち、止血をしているが、痛みで悶えていることには気を留めていない。

 シハーブは赤銅の中で口端を持ち上げるの、からからと嗤ってヤトを小突いて云った。

「おお、怖い怖い。俺等もあれの仲間入りする前に一働きしとこうや。彼奴あいつの拳に掛かりゃ、あんたの肚なんざ直ぐに穴が空くぜ」

「虚ろ狼を腕で打ち抜く野蛮人ですからね」

 ヤトも同意すると、いそいそとシハーブと共に天幕の隅や還砂病の身體の裏などを突き始める。ナジュムはというと、カリーマの手伝いをしている故、ラーミウの雑用は免れてある。シハーブは時おりナジュムへちょっかいを掛けたりもするが、一応とばかりに凪ネズミを回収し偶々近くにあった空の水瓶へ放った。

「取り合えずこん中に集めようや」

 などとヤトへ聲を掛けると、ヤトも水瓶へ凪ネズミを毬玉ボールのようにひょいと投じて水瓶の中へ入れる。その瓶の中が満員となるのに左程時間を要さず、あっという間に瓶の底は多量のひとつ目がぎょろぎょろと蠢く巣窟となる。シハーブはとうとうその中へ凪ネズミを収納出来なくなると、一旦中身を「処分」しようと水瓶を水で満たした。

 ラーミウは水瓶の中でぷかぷかとネズミの骸が浮くのを一瞥するとやおら立ち上がった。己の腕の血を拭いながら周囲を見渡すと、夜が明けてから続々と駆け込む者が増やされ、天幕の中も手狭になりつつあるはひと目で解される。

(そろそろ場を増やさないといけないか)

 嘆息を落とすと、ラーミウは何と無しに天幕の外へ足を運んだ。気が付けば、昨日の昼時からこの天幕を一歩も出ていない。血が不足しているのか、立ち眩む眼を一度閉じ、また開いて昊を見上げた。


(あれ……?)


 其処でようやく、ラーミウは昊の昏さを知った。群青は青鈍あおにびに代わり、白星は隠されている。だが虹鷹の聲はなく、あれは雨雲ではなく「翳り」なのだと思い知らされる。

「おや、今更気が付いたのですか」

 後方で聲を鳴らしたのはヤトだ。凪ネズミの骸の詰まった水瓶を小脇に抱えている。ラーミウは茫然としながらもヤトへ琥珀を向けて震えを抑えた聲で尋ねる。

「何時から、ですか?」

「昨晩あたりですよ」

 ヤトの語に、ラーミウは琥珀を一層見開き、貌を青褪めさせた。元々「血の気の失せていた」ゆえ、それは蒼白を通り越して死人のようだ。ラーミウは宮のある南へ視線を向けると、ふらふらと足を踏み出した。

(行かないと)

 我知らず、ラーミウは細路を駆けていた。貧しい血で足取りは確かでなく、時おりよろけながらも疾走はしる。脳裏には白銀の眼を持つ男の姿がある。

 だが大通りへ抜ける手前で矢庭に、鋭い痛みが眼窩の奥から脳髄へ突き抜けた。ラーミウはその痛みで思わず身體を強張らせ、誤って足を縺れさせる。そのまま体勢を立て直すことは叶わず、強く地に叩き付けられた。

つう……」

 ラーミウは貌を歪めながらもうっすらと眼を開き、昊を見ようとした。その眼は一層輝きが強まり、眦からは黒い涙が流されていた。

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