第24話 日没


 それは建国祭の始まった朝のこと。王宮の鏡の泉が僅かに揺らいだ。次第にその水面は大きく揺らがれ、あまりの揺らぎに四色の睡蓮の花々の間に映し出した昊も星も歪んで形を留めない。その水面の様相に、ドゥリーヤは息を呑んだ。

「いったい何が……?」

 ドゥリーヤはふと、白の宮を見た。常ならば務めを果たすために姿を現す頃だ。されど、サクルの姿は未だない。同様のことに思い当たったのか、柱廊をマージドが疾走ってある。ドゥリーヤは鮮やかな緋色の着物の裾を翻し、その剃髪の男の元へ駆け寄った。

「マージド、サクル様は?」

「未だお会いしておりません。これから向かうところです」

 返したマージドの聲には焦りを含んだ語調がある。ドゥリーヤは紅珠の眼を見開くと彼に並び疾駆った。長い柱廊の先、虹鷹の紋様の描かれた白い戸の前へ辿り着くと、ドゥリーヤは聲を掛けること無く勢い良く開け放った。

 燦々と照らし付ける白星の光が差し込んでいるというのに、室内は。室内を見渡すと、寝台のそばに蹲るサクルの姿があるドゥリーヤとマージドは我知らず大聲で叫んだ。

 

「白鏡様!」

 

 両人がそばに寄ると、サクルは青褪めた貌を上げた。右半分を覆っていた玄の布がはらりと落ち、貌が露わになる。その右の眼は、白目と混ざり合って黒い涙と共に零れ落ち、貌の右半分は黒く染まっていた。――それは還砂病かんさびょうの証である。ドゥリーヤとマージド両人を認めると、左の白銀を柔らかく細めて云った。

「両人、来たのか。恥ずかしいところを見られてしまった」

 乾いた笑いを溢そうとするも、鋭い痛みが右の眼窩から身體中を駆け巡り、サクルは呻いて崩れ落ちる。マージドは我に返り、サクルの身體を支える。マージドの腕の中でサクルは苦しげな聲で語を落とす。

「どうやら、私はこれまでのようだ」

「そんな!しっかりして下さい白鏡様」

 マージドが耳元で聲を張る。眼前に屈み、哀しげに貌を歪めるドゥリーヤもまたサクルへ一心に聲を掛けている。サクルは白銀の左目を細め、か弱い語を次いだ。

「あゝ、ラーミウに悪いことをした……」

 

 初めてサクルが仆れたのは十年前、いつもと変わらぬ朝ぼらけだった。


 白星の昇りきっておらず、未だ肌寒さのある中、サクルはマージドとラーミウと共に鏡の泉の前にあった。白鏡はいちに一度、「昊を映すもの」へ血を捧げる必要がある。それは器に汲んだ水や手鏡でもよいが、王宮ではこの鏡の泉へ捧げるのが慣わしである。故にこの日も鏡の泉に己の血を垂らしていた。

 だが矢庭にサクルの、玄の布で覆った右の眼に痛みが走り、我知らず膝を付き、蹲っていた。かたわらにいたマージドとラーミウが聲を上げて駆け寄り、周囲にいた宮女が「医官を呼べ」等と騒ぎ立てる。サクルの気が付いたときには自室の寝台に横たえられてあった。

「白鏡様はいったい如何したのですか?」

 ラーミウに詰め寄られた医官の男は落ち着かぬ様子で赤銅に生やした砂色の鬚を撫でている。マージドがラーミウを落ち着かせべく引き離すと、ようやく鬚を撫でるのを止めて静かに告げた。

 

還砂病かんさびょうで御座います」

 

 その語に、マージドもラーミウも目を見開いた。サクルは覚悟していたように、密かに貌を曇らせた。だが、彼等の視線は医官へ向けられている故目に留まることはない。マージドは茫然としてラーミウを抑えていた手の力を誤って緩めた。するとラーミウはマージドの腕を振り払い、また医官に詰め寄ってしまった。ラーミウは医官の胸倉を掴むと、怒鳴り付けるようにして云った。

「そんな筈ないじゃないですか!それは白鏡様が弱ったときに起きること……」

 長い間青珠のカリーマは不在だが、それでは還砂病は起き得ない。三珠は白鏡の映し出した者に彩りを添える存在。即ち虹鷹を呼ぶためにある。雨が降らなければ不作や干ばつは起きるが、生きる者の輪郭かたちが崩れることはない。そもそも、白鏡の形が留められない事態で、民である者たちが日常を保っているのは可怪しなことなのだ。

 ラーミウの、苛立ちで燃える琥珀に医官はたじろぎながらも、怖々おずおずと返した。

「それでも、還砂病かんさびょうの症状なのです。原因は私にも判らずじまいで……」

「医官の御前が判らないなんて、巫山戯てるのか!」

 ラーミウの怒号は室内に鳴り響く。マージドが止めようと間に割って這入るが、興奮したラーミウにはマージドも敵わない。白の宮で預けられてからというものの。ラーミウはめきめきと筋力も付けて、其処らの兵士では敵わぬほどの筋力を有するようになったのだ。

 見兼ねたサクルはよろよろと身體を起こし、聲を張った。

「ラーミウ!」

 サクルの聲に、室にいた者すべてが瞠目した。ラーミウはマージドを押し退けてサクルのそばへ駆け寄る。

「白鏡様、具合は如何ですか。何処か痛むところは?」

「ラーミウ、落ち着きなさい」

 サクルが小さく一喝すると、ようやくラーミウは捲し立てるように問うのを止めた。サクルは室内を見渡してマージドや医官、宮女たちの姿を認めると、医官と宮女には室を退がるよう命じた。彼等が室から離れるのを認めると、サクルは静かに聲を発した。

「ラーミウ、マージド。聞け」

御意

 両人は急ぎ跪く。サクルはラーミウへ視線を向けると、厳かな口調で続ける。

「ラーミウ。そなたはこれより各地へ飛べ。民に影響が出ていないか調べ、出ていれば即急な対応をするのだ。異色でも宝石持ち珠であるそなたなら可能なはず」

 サクルの言葉にラーミウは翡翠を大きく揺らし、面を上げた。反論しようと口を開くが、サクルは赦さない。低く「聞きなさい」と云って更に語を次いだ。

 

「それに加え、白銀を持つ者を見出すのです。この王国の何処かにあるはずです」

 

「それはどういうことですか?」

 ラーミウは無論、マージドも怪訝な面持ちをした。だが、サクルは語りはしない。サクルは温和な微笑を浮かべると静かに言葉を紡ぐ。

「多くは語れない。だが、必ずあるのだ。任されてはくれぬか?」

 あの琥珀の男はサクルの為と聞かされれば必ず動くのを、サクルも承知していた。それが何年も最も愛するサクルのそばを離れていなけれなぬものとなっても、彼はサクルを生かすために躍起になるだろうことも。故にサクルは心苦しくて堪らない。サクルは窓穴の外に覗く白星を見上げ、掠れた聲で独り言ちた。

「はは……身から出た錆だが、民にまで迷惑を掛けて……私は駄目な王だ」

 サクルは白星の近くにない虹鷹を。それは見事な飾り尾で虹を掛ける大鳥だ。それは知っている三色の尾ではない。四色だ。それらは光を弾いて白になり、混ざり合って――……。サクルは大きく白銀を見開いた。そして何かを覚ったようにその眼を緩め、微笑を浮かべた。

 

ラーミウ、後は任せたぞ」

 

「白鏡――サクル様!」

 ドゥリーヤとマージドが一心に呼び掛けたが、サクルの手は力なく落とされた。

 

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