第22話 凪ネズミの膨張(参)


 カリーマを訪ねた男は、カリーマやラーミウたちを安宿の裏手へ誘った。其処は元々、開けた場所だったのをだろう。ニ、三の小さな天幕を設けており、表情を昏くした人人が行き来している。カリーマを訪ねた男がそのうちのひとつの天幕の垂れ幕を上げて云う。

「つい先程、妻が仆れまして。他にも数人」

 彼の指し示した光景に、ラーミウは息を呑んだ。天幕の中には幾人ものの男女おとこおんな児童こどもが横たえられており、彼等はみな苦痛で叫び、呻いている。ラーミウは意図せず語を落とした。

 

還砂病かんさびょう……?」

 

 苦悶する者たちはみな、黒い涙を流している。その眼球は輪郭が歪み、砂色の瞳と白目と混ざり合っている。その眼の周りや身體の所々が黒ずみ、手足の指先は砂のように崩れて形を留めていない。カリーマを訪ねた男はその中のひとりに駆け寄り、カリーマを呼ぶ。

此方これが私の妻です」

 彼のそばにあるのは、両足とも膝から下をすっかり失った女である。眼窩に収まる眼球はかろうじて球形と言えるか否かというほどに形を崩している。カリーマは彼女のそばへよろよろと膝を付いて寄った。ナジュムもそっと彼女に寄り、カリーマへ聲を掛ける。

「剣、貸した方がいいか?」

あゝ、悪いが貸しとくれ」

 カリーマが応えると、ナジュムは懐からひと振りの短剣を取り出す。カリーマは黙して受け取り、鞘から短剣を引き抜くとやおら己の皺だらけの指を充てがった。カリーマの手は既に傷にまみれている。カリーマは年老いている故、傷の治りも悪いのであろう。幾つかの傷はかろうじて塞がったような様相を見せている。カリーマは指に一筋の傷を作りながら、聲を鳴らした。

「今朝方から、少しずつ還砂病かんさびょうの者が増えてね。特に、白星の光の届き辛い場所に棲む貧しい者たちの間でね」

 云い終えると、カリーマはぷくりと溢れた真朱まそほの雫を、女の溶けた眼へ落とした。カリーマの血と混ざり合った眼は徐々に固まり、白目と混ざるのを止める。ヤトはふん、と鼻を鳴らすと静かに言い放つ。

「そういえば、貴方は青珠せいじゅでしたね」

 カリーマは皺の寄った眼の奥で、瑠璃に鈍い光を宿す。血の垂れる指をもう片方の手で押さえると、しんとした聲で返す。

「お陰で還砂病かんさびょうを一時的に止めることが叶う。宝石の眼を有する者にしか出来ないことだよ。まあ、症状が進み過ぎると、あたしにもどうしようもなくなるけれどね」

「どちらにせよ、それはその場凌ぎに過ぎないでしょう?」

「何もしないよりはマシさ」

 瑠璃の眼でヤトを一瞥すると、カリーマはやおら立ち上がる。ナジュムが杖のついていない方の手でカリーマの手を支えるが、高齢ゆえに膝の弱く立ち上がるのも億劫な様子である。カリーマは天幕の端を見ると、貌を一層曇らせた。

「けれども、一気に増えるのも時間の問題だね。其処を見てご覧」

 カリーマの瑠璃を辿ると、天幕の端で一疋のネズミが蠢いていた。砂色で、大人の手の平程度の大きさをしたひとつ目のネズミだ。シハーブはおもむろに歩行いて寄り、素早い手つきでネズミの尾を掴んで持ち上げた。ラーミウは生まれて始めて見たネズミである。否、多くのジャウハラは見たことのないネズミだ。ラーミウはネズミのひとつ目から視線を逸らすことなく、絞り出すように聲を落とした。

 

「それが凪ネズミ……ですか?」

 

 逆さに吊られた凪ネズミは懸命にきいきいと耳障りな音を立て、鋭い爪を立てて暴れている。その口許から覗かれている牙もまた鋭く、シハーブの手に噛み付こうと躍起になっている。カリーマは瑠璃に悲哀の色を留めると、ラーミウを見た。

「あたしたちジャウハラはそれが家畜であれ、作物であれ、死すれば必ず燃やして肉を残さぬようにする。凪ネズミが湧くからね。凪ネズミは死した肉を喰らうネズミだ。けれども凪ネズミは飢えれば生きた肉をも抉り、。故にジャウハラは死肉を残さぬようにするのさ」

「このネズミが闊歩しているということは、その処理が間に合わなくなった、ということか」

 とナジュム。その聲には苦々しさがあり、貌を僅かに歪めている。ナジュムはシハーブから凪ネズミを受け取ると、凪ネズミのひとつ目に指を充てがって押し潰した。凪ネズミは甲高い悲鳴を上げて身體を仰け反らせると、直ぐに動かなくなる。その身體は目元からひび割れて砕け、砂のようになってさらさらと宙へ流されていった。ナジュムは空になった手を強く握ると、低く聲を溢した。

「虚ろ狼も出たからな……こういう事態は考えていた」

「虚ろ狼が……?どうりで。とうとう白鏡様にということか」

 カリーマは微かに眉を上げた。ナジュムは黙して頭を縦に振ると、ヤトが呆れ顔をして嘆息した。

、覚悟していたことでしょう?」

 ヤトの冷ややかな聲に、カリーマとナジュムは深刻な面持ちをして口を噤む。いったい何のことなのか、とラーミウは貌を顰めて視線を彼等に投げ掛けるが返答はない。

 すると矢庭に、カリーマを訪ねた男が面を上げ、目を瞠った。シハーブもそれに心付き、カリーマの着物の裾を引いて聲を鳴らす。

「カリーマ、お客さんだ」

 突然に鳴らされたしんとした聲に、天幕の人人はみな振り返る。シハーブが顎で天幕の入口を指し示すと、彼等はみな、それを辿る。カリーマを訪ねた男は落ち着きを取り戻した妻を抱きかかえながら独り言つ。

「何てことだ……」

 シハーブの指し示すの先には幾人ものの人人が、夫や妻を、父や母を、子や愛する者を抱え、貌を青褪めさせている。抱えられた者たちはみな、呻き聲を溢しながら黒い涙を流している。

 一斉に押し寄せた還砂病かんさびょうの人人の姿に、カリーマは唖然として額に冷たい汗を伝わらせた。流石に数が多すぎる。カリーマは高齢ゆえ、あまり多く血を流せるだけの体力はない。

 するとおもむろにラーミウがカリーマの前に立ちはだかった。カリーマが瑠璃を瞬かせて彼の背を見ると、時を同じくしてラーミウは凛とした聲を鳴らした。

 

「僕が、血を提供します」

 

 その右の眼は普段いつもの砂の色ではない。天幕に居るすべての人人の眼を奪う、色鮮やかな眼だ。まるで琥珀のような澄み切った「黄色おうしょく」の宝石。その眼の色に、天幕に居た者のひとりが聲を落とす。

「え……、三珠?でも黄色のぎょくなんてあったか?」

 それは彼等の知る三珠の色ではない。されど通常のジャウハラの色でもなく、白鏡や三珠と同じ宝石の眼だ。ラーミウは琥珀で騒然とする人人を静かに見据えた。

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