第16話 虚ろ狼の出現(弐)
墨染の闇の中で懐へ飛び込んだ
ラーミウの周囲を駆け抜ける虚ろ狼は井戸を、そして椰子をすり抜けた。彼等は輪郭があるようでないのだ。ラーミウが茫然としていると、騒ぎで寝覚めたのか路端に眠るカマ村の人人が悲鳴を上げた。その聲で家々から貌を覗かせたマウジ村の
虚ろ狼は村を
ナジュムは小さく舌打ちをすると、やおら腰元から湾刀を引き抜き、ヤトへ向けて云った。
「非常事態だ。
ヤトは真玄の眼を鈍い光を灯した。
「まあ、あの狗どもくらいは構いませんよ」
「……助かる」
ナジュムはやおら、杖を持つ手の甲へ湾刀の刃を押し当て、引いた。骨を掠め弾力のある肉を破り、血管の切れる音ととものに鉄錆の
虚ろ狼が血を溢しながら吠えるのを見て、ラーミウは瞠目した。
(
不意にラーミウの視界の端で、村人のひとりが転倒した。幼兒だ。腕や膝を擦り剥き、聲を上げて鳴いている。その腕や膝から血が滴り、路へ転々と染みを作る。
するとその幼兒へ向かって疾駆り寄っていた虚ろ狼が矢庭に立ち留まり、幼兒を避けるように逃げて行った。
「真逆……血が駄目なのか……?」
ラーミウの聲に、ヤトの眉が僅かに寄せられる。ヤトの冷ややかな眼の向こうで、ラーミウは躊躇わず己の手を噛んだ。それと同時にぶつり、という彼の手の肉の裂かれる音と共に血潮が周囲へ散らされる。
その前方で湾刀を振るって虚ろ狼を追い立てていたナジュムが振り返った。ラーミウは砂色の眼を爛々と燃やし、
ラーミウは逃げ場を失った者と虚ろ狼の間へ飛び込み、虚ろ狼の鼻面へ拳を見舞った。すると今度は拳に固い虚ろ狼の下顎骨の感触が伝った。虚ろ狼は鳴き叫ぶとラーミウから離れ、逃げてゆく。
ナジュムはその光景を認めると、ついと視線を逸らし、周囲を見渡した。虚ろ狼は次々と
そのかたわらで、ヤトだけはただ佇んでいた。髪も元の真玄へ戻し、眼の深淵をより深くしている。ヤトはくつくつと嗤うと、静かに聲を鳴らした。
「さて、どうする。ジャウハラの者たち。その
するとラーミウは一頭の虚ろ狼の肉体を拳で突き破った。勢いよく散らされる血潮の中でラーミウは腕を引き抜くと、周囲の虚ろ狼を睨み付ける。その眼の焔は一層鋭さを増しており、ヤトは己が怯んだのを初めて感じた。ラーミウはまた拳で一頭の頸を抉ると、独り言ちた。
「ようは、近寄らせなきゃいいんだろう」
虚ろ狼はラーミウやナジュムを含めたジャウハラの血を嫌っている――だが、ただ血を込めて殴る程度では、その間に別の場所にある人人が襲われる。ラーミウはおもむろに己の手頸を咥えた。ナジュムは目の端でその様子を捉えると、振り返り聲を張った。
「馬鹿、止せ!」
だがラーミウは止まらない。力強く手頸を噛み切り、多量の血潮が噴き出された。血が失われ、ラーミウはふらつくのを感じた。それでもその血を地へ垂らしながらぐるりと陣を描き、ラーミウは村中へ轟かせるように聲を鳴らした。
「
逃げ惑っていた
「彼の処へ急げ!」
ナジュムは貌を歪めた。村の者すべてが這入れる大きさの陣を描くほど血を流すなど無茶である。ナジュムは小さく舌打ちすると、ラーミウの元へ疾駆る人人を助太刀することだけに専念した。人人へ駆け寄ろうとする虚ろ狼を見つけ次第駆け寄り、血を伝わらせた湾刀で薙ぎ、振るう。
ナジュムはラーミウの元へ駆け寄ると湾刀を下ろし、空いた手でラーミウを陣の中へ突き飛ばした。
「君も陣の中へ。その出血量では動けまい」
「
ラーミウはナジュムの腕を掴み寄ろうとした。されど視界がぐらりと揺れて昏くなり、ラーミウは我知らず膝から崩れ落ちた。ナジュムは急ぎ彼を支えると、そっと坐らせた。
「その身體で動けるものか。大人しく其処にいろ」
ラーミウはふらつく身體を手で支えながら立ち上がろうとするが、叶わない。ナジュムは貌を歪めて彼を見た。小さく嘆息すると、いったんナジュムも地に坐した。己の着物を破り、その切れ端でラーミウの血の流される手頸を強く縛る。
「逃げ遅れた村人は私に任せろ」
ナジュムは杖を付いて立ち上がると、ラーミウから離れて湾刀を握り直し、虚ろ狼の中へ身を投じた。ナジュムは片足のないという
ナジュムが湾刀で頸を深く抉ろうとも、虚ろ狼は血に怯み、避けるのみで致命傷を負うことは少ない。虚ろ狼はなかなか死に至らない。何度も斬り付けてようやく、虚ろ狼は動かなくなるに至るのだ。故に中々数は減らず、ナジュムがどんなに機敏でも、杖をついている彼には限度がある。ひとりの村人を救っている内に、ナジュムから離れた村の人人が飲み込まれてゆく。
虚ろ狼の群れを真剣な眼差しで見入る彼の傍らでヤトは貌を顰めた。
「其処までして、赤の
「赤の
ラーミウの眼が鈍い光を灯す。まるで研ぎ澄まされた刃のような光だ。ラーミウは爛々と燃える刃をヤトへ突き付け、しんとした聲を鳴らす。
「
その聲には感情という抑揚は籠められていない。血を多く失っているとは思えぬラーミウの眼光に、ヤトは冷えた汗が額を伝うのを感じる。それを気取られぬよう、ヤトは常闇の眼を更に歪めて云い放つ。
「嗚呼、君はイカれていますね。気色悪くもある」
「イカれていて結構」
ラーミウはついとヤトから視線を逸らすと、拳を握り直し、ふらふらと立ち上がろうとした。すると不意に、ラーミウの肩を何者かが叩き、低く聲を鳴らした。
「それは
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