第14話 予兆


 白の宮で、サクルは寝覚めた。

 室は静寂に包まれ、窓穴から差し込む星星の明かりだけが薄墨の闇を照らしていた。時おりさわさわと椰子の葉が揺れる音が耳元を撫でるが、それを除く音は鳴らされない。サクルは緩慢ゆったりと起き上がり、周囲を見た。マージドの屈強な姿もない。オイル・ランプも灯火を失せてひっそりと宵の冷気に身を委ねてある。

 

たれかあるか」

 

 鳴らされたサクルの聲は、しんとした静寂の中響き渡り、溶けて消えた。何者の返答もなく、サクルは嘆息を溢して立ち上がった。すると床を踏む両の足に力が入らず、サクルはよろけ、膝を付いた。壁を支えに足に力を籠めてよろよろと立ち上がると、サクルは室の扉を開け放った。

 出し抜けにひゅうっと冷たい風がサクルの頬を撫でた。サクルは貌を歪め、左の白銀を細めた。布で覆い隠した右の貌が染み入るように痛む。爪を立てるように手で押さえ、唇を噛み締めるとサクルはふらふらと足を進めた。

 長い柱廊は薄暗く、何者の姿も無かった。きっと夜の更けて可也の時が経過っているのだろうと予測されるが、それを確かめるすべは無い。夜の昊には時を知らせるものは無いのだ。白星の残像たる星星が下ろされた帳の上で瞬くばかりで、それらは様相を変容えることはない。

 

「白鏡――サクル様」

 

 サクルは己の傍らで鳴らされた女の聲に足を留めた。其処にあるのはすらりと上背のある女。浅緋色あさひの夜着を纏い、長い砂色の髪を横に編んで垂らしている。その眼は色鮮やかな紅玉。その宝石の眼は三珠がひとり、赤珠せきじゅたる証だ。サクルはじっとその紅玉を左の白銀で見詰めると、おもむろに口を開いた。

 

「如何した、ドゥリーヤ」

 

「夜の冷気に触れては障りまする」

 凛とした聲で返すと、ドゥリーヤはサクルのそばへ寄った。紅の惹かれていない唇を固く結び、目元に深く小皺を寄せて厳しい眼差しを向けている。心からサクルの身を案じているのであろう。サクルは白銀を柔らかに緩ませて応じた。

「己のことは己がよく知っている。問題ない。」

「貴方の言葉は信用ならぬ。そう云って、先日もお仆れになった」

「はは、手厳しいな」

 サクルは乾いた笑いを溢すとまた、足を進め始めた。ドゥリーヤも彼に並び続くと、静寂の柱廊に、静かな足音がふたつ鳴り響いた。両者の前方は薄闇に包まれ、抜けた先には星星の幽光ゆうこうとその光を受けて瞬く鏡の泉がある。サクルはその泉へ白銀を向けたまま、静かに語を続けた。

「此の様な夜更けに如何した。用事ようがあって、朕を訪ねに参ったのであろう」

 サクルの言葉にドゥリーヤは黙し、懐から一枚の文を取り出した。紙藺パピルスの茎の繊維で織られた紙を丸めたものだ。それをそっとサクルへ手渡し、ドゥリーヤは凛とした聲を鳴らす。

「実は数日前、ラーミウより文が、遅れて届けられました」

「あの者もよく働く。今は何処に?」

 文を開くと、流麗な文字が並べられてある。サクルがその文字を目で追っていると、その傍らでドゥリーヤが嘆息混じりで返した。

「おそらく夜の民ザラームの元か、それとも既に引き返して都の近くにあるか……。北の集落へ赴き夜の民ザラームの元へ向かうと文に書いていたので」

夜の民ザラーム……?」

 サクルは文字を辿るのを止め、眉根を寄せる。視線をドゥリーヤへ向けると、彼女もまた貌を顰めていた。紅玉の眼を細く歪め、頬へ手を添えるとまた深く嘆息し、ドゥリーヤは語を加える。

ええ、何でもジャウハラと夜の民ザラームを繋ぐ者へ会ったのだとか。まあ――今回のことであれば、可能であれば彼等の力を借りるのが早いといえば早いが……上手くいくか否か」

あれも思い切ったことをする」

 くすり、とサクルは乾いた笑いをひとつ落とすと、ようやく辿り着いた鏡の泉の前で足を止めた。泉の水面が昊の星星を映し光の粒を弾き、ゆらゆらと揺らいでいる。風もないというのに、その揺らぎは大きく、波紋が小さな波を立てて白や赤、青、緑の睡蓮の花弁はなびらを散らすほどだ。不意にサクルは眉根を寄せた。


「確か、明日より建国祭であったな」


 サクルの聲に、ドゥリーヤは怪訝な面持ちをした。その音には危惧の様相が籠められているのである。加えて、サクルの表情は険しい――ドゥリーヤはサクルの聲を顰めながら応じた。

「その通りだが……それが如何したか」

「否、思い過ごしであればよいのだ」

 サクルはじっと何処かを見詰めている。ドゥリーヤはその微かに緊張を持った白銀を見て、胸中で不安を募らせた。矢庭にサクルは面を上げ、ドゥリーヤを見て云った。

「ドゥリーヤ、マージドを呼んでおくれ」

承知

 ドゥリーヤは一礼すると急ぎ柱廊を駆けて往く。サクルは彼女の浅緋色あさひの着物が薄闇へ溶けたのを認めると、泉のそばの茂みへ歩行き寄った。傍らで聳え立つ椰子の幹へ手を掛けてよろける身體を支えながら屈むと、サクルはその茂みへ手を突っ込んだ。その手に触れられたのは蠢いて暴れる冷たく固い物。それを掴んで引き上げると、それはネズミだった。色は灰白かいはく色。幼兒の手の平ほどの大きさで、ぎょろぎょろと大きな灰白かいはくの一つ目と立派な牙と爪を有する。体表は砂礫をごわごわとした灰白の毛で覆われ、サクルの掴む長い尾は鉱石のごとく冷たく固い。

 サクルは目下できいきいと鳴きながら藻掻くネズミを仄暗い白銀で見下ろすと、低く囁くような聲で独り言ちた。


「――凪ネズミか」


 凪ネズミはサクルの腕を噛みつこうと牙を剥き出しにいた。サクルは白銀を仄暗く光らせると、指で凪ネズミのひとつ目へ当てた。徐々に力を込め――ぷつり、と弾力のある表面の弾ける音がすると、どろりとした黒い液体が溢れ出した。

 ふと、サクルは背後へ訪れた気配を察した。ようやく駆け付けたマージドが跪いているのだ。マージドは面を上げると、低く聲を鳴らす。

「白鏡様、只今此処に」

 サクルは凪ネズミの眼へ指を押し込んだ。凪ネズミは大きく胴を震わせると、ぐったりと脱力する。そして間もなくしてその身體は霧のようにさらさらと細やかな砂へと。サクルはしんとした焔を灯した左の白銀をマージドへ向けると、静かに云い放つ。

「明日より、街への見廻りを強化せよ。

 マージドは砂色の眼を見開き、その白銀を見詰めた。そして貌を曇らせると頭を垂れ、苦しげな聲で応じた。

「御意」

 サクルの後方で鏡の泉の水面がまた、大きく揺らいだ。幾つものの波紋が生じては広がり、そして不意に揺らぎは静される。その刹那。その水面に映る夜の星星の瞬きがふつり、と途絶えた。

 

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