第13話 夜の民(肆)
天幕の中はひとつの小さな宇宙であった。
垂らされた幕布は黒曜石や黒瑪瑙よりも昏く、その表面にはまるで小星のごとく色とりどりの宝石が瞬いている。上や下、右や左などの方角は無く、時には其処は頭上であり、足許であり、傍らである。用意された座卓ですら、それは其処にあるのか定かではない。最早、ラーミウは立っているのか坐っているのかも判ぜない。
ラーミウの後方にシハーブが佇んで控え、かたわらではナジュムが腕を組んで坐してある。ナジュムが正面に坐すヤトへ鋭い三白の眼を向けてると、ヤトはにやりと嗤い返し、真玄の深淵を向けてしんとした聲で云った。
「そろそろ
「否。今のところは」
「何だ、詰まらないですね。あの白銀持ち、
ヤトの語に、ラーミウは息を呑んだ。――彼は
「あの」
ヤトの眼がラーミウへ向けられる。ヤトの口許から微笑はなく、
「僕はその災いを未然に防ぎ、「白銀の眼を持つ者」を見出して白鏡さまやその民を救いたいと考えております」
ヤトの眉が僅かに寄せられ、
「未然に防ぐ、ですか。今のままでは無理な話ですね」
「――何故ですか?」
「世界がそういうものだからですよ」
ラーミウの口が噤まれた。ヤトの視線は冷ややかなものとなる。ヤトはやおら身を乗り出し、ラーミウへ貌を寄せた。ラーミウはその間近でみる眼窩の深淵にどきりとした。それは全てを見透かすような真闇だ。ヤトはラーミウの砂色の眼へ己の真玄の眼を映し、静かに語を落とす。
「そもそも災いとは何と心得ていますか」
「――昊からの光と雨が滞り、干ばつや飢饉、そして人人の
「何故光と雨が滞ると思いますか?」
「白鏡様が昊へ血を捧げられなくなるから……だと」
「その血は何のために捧げていると?」
「それは……」
とうとうラーミウは言い淀んだ。ジャウハラの民にとって、白鏡が昊へ地を捧げ、白鏡が三珠が彼を支えるのは――それは決して問うてはならない、ジャウハラの民が生きるうえで「そうせねばならぬ」こと――当然の理なのだ。ラーミウが眼を揺らし伏せると、ヤトははん、と鼻を鳴らして嘲笑した。
「まあ、知らないでしょうね。ジャウハラは馬鹿ばかりで困りますね」
ヤトの言葉に、ラーミウは貌を引き攣らせた。ヤトは心から小馬鹿にしているようで、見下したような深淵の眼をラーミウへ向け肩を竦めてみせている。ラーミウは聲を荒げぬよう堪えながら、語を紡いだ。
「いったい何故なのですか?」
「何だと思いますか?」
玩ぶようなヤトの返しに、ラーミウは青筋を立てた。胴を震わせ、眉をぴくぴくと動かしてひたすらに苛立ちを抑える。
「――くそ」
矢庭に差し込まれた掠れた聲にラーミウは我に返った。聲主のある後方へ振り返ると、シハーブが膝を付いて蹲っている。握っていたらしい鏡が床を転がり、鈍い光を放つ。ラーミウは意図せず大きく聲を張った。
「シハーブ!」
ラーミウは急ぎ彼の下へ駆け寄ると、ナジュムも続いた。ナジュムが片手で抱きかかえると、シハーブは酷く汗を滲ませていた。吐き気がするのか口許を押さえ、小さく呻いている。ヤトもそばへ寄ると呆れた風に嘆息した。
「まったく、ジャウハラの民の身體は脆くて困る。もう
「五月蝿え」
シハーブは呻くように低く聲を鳴らして返すが、直ぐに口許を押さえて項垂れる。ラーミウはせめてものと思い、汗ばんだ彼の背を擦ってやった。ナジュムがヤトへ視線を向けると、ヤトは「やれやれ」と云って立ち上がり、天幕の垂れ幕を上げた。
「まあ、若い身體の方が
ナジュムは杖で身體を支えながら床に転がった鏡を拾い上げると、シハーブを抱き起こして共に外へ出た。ヤトも外へ赴くようであった故、ラーミウも続く。ラーミウはヤトへ視線を向けると、静かな聲で尋ねた。
「先程の応えを頂けますか」
「まあ、教える気ないですけどね」
きっぱりと云い切るヤトに、ラーミウは思わず「え」と頓狂な聲を落とす。ヤトはついとラーミウから視線を逸らして語を続ける。
「私はジャウハラの民を信頼していません。否。憎んですらある」
天幕の表面へ散りばめられた宝石が鈍く光った。ゆらゆらと揺らいで消えては現れ、まるで夜の地自体が大きく揺らいだようにも思われる。ヤトの眼の中で、闇が渦巻いた。光を弾かぬはずの闇が燃やされたように鈍く光を放っている。それは激しい憎悪だ。静けさの中で爛々と煮え滾る怒気。ラーミウは息を呑んだ。
その前方で、シハーブを抱き抱えていたナジュムがヤトへ三白の眼を向けた。シハーブはだいぶ回復したのか、額に汗を伝わらせつつも、安堵した表情を浮かべている。その様子にラーミウも内心で胸を撫で下ろした。ナジュムは三白眼を小さく揺らすと、静かで深い聲で語を溢す。
「ヤト」
ナジュムの聲に、ヤトは眉をぴくりと小さく動かした。ヤトは暫し、ナジュムの三白の眼を見詰めた。彼の眼は平静を保っているようで、何処か爛々と燃える強い意志が潜んでいるように思われる。ヤトは顰め面をすると吐き捨てるように云う。
「御前もジャウハラでしたね」
その聲色には不満げな
「まあ、いいでしょう。――そこの女人」
「
「御前に付いて行きます。この目で見極め、万が一気分が向くようなことがあれば、御前たちに道標を与えてやります。まあそんな万が一、無い思いますけどね。猿の手助けなぞ、
矢張り明らかに見下したヤトの物言いに、ラーミウは思わず拳を握るが、ぎりぎりと唇を噛んで堪える。態々
ヤトはラーミウを見てまた鼻で嗤うと、不意に常闇の眼が細めた。それと同時に、冷たく強い風が吹き渡り、ラーミウの視線の向こうでヤトの長い玄の髪がなびいて一筋の無が生じる。次の刹那。夜の地は姿を消し、ラーミウたちの姿は砂の地にあった。そしてラーミウの手の中の「鏡」は黒石へ戻されていた。
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